ムギさんと文学蝶々

 ムギさんと僕がカウンターで本を読みながらコーヒーを読んでいると、窓の外から、ふんわりと花の香りが漂ってきた。

「なんだろう、ものすごく良い香りだね」

「本当だね。もうすぐ蝶々の国に着くから、いろいろな花がたくさん植えてあるんだろうね」

 本を置き、すうっと胸の奥まで香りを吸い込んでみる。甘い香りやスキッとする香り、どこか優しい月の香りまでが流れ込んできているようだった。いつもは、コーヒー以外の香りがする物があると、ちょっと不満げなマスターも、今日ばかりは、窓の外から流れ込んでくる香りを楽しんでいるようだ。

「ねえ、マスター。コーヒーの香りもいいけれど、花の香りというのも気持ちのいいものだね」

「ああ、悪くないな。俺は、あんまりわざとらしい匂いは好きじゃないんだけれども、これは丁度いいよ。お、この甘酸っぱい香りは薔薇かな? これなんかコーヒーにも良く合いそうだ」


 僕たちが、ふんふんと鼻をうごめかしていると、カウンターの奥のキッチンからツヅキがひょっこりと顔を出した。


「マスター、予約注文のご連絡がありました。モンシロさんとアゲハさんが『夏への扉』と『像の耳鳴り』を10分コース、それと、今日はモンキちゃんも一緒に来るそうで、『ホームズのやつ』だそうです。『絶対にマスターが作ってね』との念押し付きでしたよ」

「ええ? ご指名かい? まいっちまうなあ文学蝶々にゃ」


 マスターはカウンターに肩肘をついてコーヒーを飲みながら、ちょっと嬉しそうに愚痴をこぼした。


「マスター、文学って何? どこかの女の子?」

「少女? ああ、ショウジョじゃなくてチョウチョだよ。文学、文学バタフライな。蝶というのは、本がとても好きだから、うちにちょくちょく来てくれるんだよ。まあ、少女かどうか言われたら、確かにモンキちゃんは女の子だけどな」

「へえ。会うのが楽しみだよ」

「到着したら乗ってくるはずさ。さて、じゃあツヅキ、ご注文のメニューを作っちまおうか」


 マスターとツヅキは、本棚から3冊の本を抜き出すと、キッチンへと入っていった。


「キッチンに本を持って行ったね。なんでだろう?」

「なんでだろうね。レシピが書いてある本というわけでもなさそうなのにね」

「ちょっと見に行ってみようか」


 ムギさんと僕が、キッチンにはいると、ツヅキとマスターが手にしているのは、包丁やフライパンではなく、羽ペンだった。2人とも本の内容を、羊皮紙に書き写している。こういう時のツヅキに話しかけるのは、ちょっと怖いので、マスターに聞いてみた。


「ねえマスター。キッチンで羽ペンを持ったりして、何をしてるの?」

「んー? これでも料理を作ってる所なんだけどな。ああ、悪いけどこの料理は時間が大切だからおしゃべりはここまでな。俺も指名されたからには、ベストを尽くしたいんでな」


 マスターは、軽くウインクすると、再び文字を書く作業に没頭し始めた。2人とも、10分にセットされたキッチンタイマーを時々見る以外は、黙々と羽ペンを走らせている。


「なんだか邪魔しちゃ悪いみたいだね。カウンターに戻ろうか」

「うん。その方が良さそうだね」


 ムギさんと僕が、席に戻ってしばらくすると、喫茶店はゆっくりと停車した。すると、窓からひらひらと3匹の親子連れの蝶が入って来た。真っ白な夜会服にシルクハットのお父さん、時々きらりと紫色に光る黒いドレスのお母さん、そして、黄色い可愛らしいワンピースを着た女の子。3人は、仲良くカウンターの上にちょこんと羽を降ろした。


「やあ、モンシロさんにアゲハさん、それにモンキちゃんもお久しぶり。よく来たね。ちょうど今、書き上がったところだよ」


 奥からマスターとツヅキが、3つの真っ白なお皿を持って現れるた。


「おまたせしました。「夏への扉」と「象の耳鳴り」の10分コース、マスカルポーネ添えです」

 ことん、と静かに置かれた真っ白な皿の上には、ツヅキの手書きの文字が書かれた羊皮紙が何枚か重ねて置かれ、その脇には鮮やかなルビー色の木いちごソースがかけられた、マスカルポーネチーズが乗っていた。それを見て、モンシロとアゲハが嬉しそうに声を上げる。

「わあ、美味しそう!! やっぱりツヅキさんの字は素敵ね。それじゃあ、さっそくいただきます」


 モンシロとアゲハは、くるくると丸まったストローのような口先を高々と持ち上げて伸ばすと、その先を羊皮紙へと近づけた。すると、羊皮紙に書かれた文字が、ふわっと浮き上がり、まるでパスタのような麺になってストローへと吸い込まれていく。

 2人は満足そうに頷きながら次々に文字を吸い込む。ときどきストローをチーズソースの方へ持って行ったり、コーヒーの方へと持って行ったりしながら、つるつると美味しそうに文字を飲み込んでいった。


「モンキちゃんにはこれだ。俺の特製文章だぞー」

 マスターが、モンキちゃんの前に置いた皿にも、やはり羊皮紙が乗っていた。モンキちゃんは、キャーッ! と嬉しそうに嬌声きょうせいを上げると、ストローを一振りして羊皮紙から文字をすくい上げた。カウンターの上は、あっというまに文字まみれになった。中にはモンキちゃんの体と同じくらいの大きさになって浮き出てくる文字まである。モンキちゃんは、きゃっきゃっと声を上げて、その文字を吸い込んだり、文字の上に乗ったり滑ったりしはじめた。


「こらこらモンキ、あまり食べ物で遊んではいけませんよ。すいませんねいつも」

 モンシロさんが、申し訳なさそうにマスターに頭を下げる。

「いえいえ、お構いなく。どうだいモンキちゃん。俺の文字は、いけてるかい?」

「うん! マスターの字は、でこぼこしていてすごく楽しいよ! 特に『ム』とか『ソ』が滑るのにちょうどいいの」

「そうかそうか。やっぱり他と違うからな」

 羊皮紙を覗き込んでみると、たしかにマスターの字はだった。ツヅキのように、きっちりとした綺麗な字というわけではなく、ちょっと下手な文字だったけれども、妙な味のある、でこぼこした文字が並んでいた。


 文学蝶々たちは、ひとしきり食べたり、飲んだり、遊んだりすると、ひらひらと飛んで、喫茶店から帰って行った。


「文学蝶々は、本を食べるんだね」

「ああ。本の楽しみ方はひとそれぞれだからな。でも、ウチに置いてある本の文字を食べられると、他の人が困っちまうからなあ。俺とツヅキで、文字に起こして提供しているってわけさ」

「そうなの。モンシロさんとアゲハさんが言うには、『本を味わうなら、手書きに限る』そうよ。印刷物にはない、個性のある味がするんだって」

「そうなんだ。不思議なものだね」

 試しに、手に持っている本のにおいを嗅いでみたけれども、やっぱり紙のにおいしかしなかった。


 そんな出会いがあってからしばらくたったある日。僕は学校の図書館で、本を物色していた。

 何気なく手に取った本を、ぱらぱらとめくっていると、ところどころ文字が抜け落ちて落丁らくちょうしている箇所を見つけた。他のページを見てみると、ページ全体が斜めになっているところまであった。うちの学校にも、もしかしたら、文学蝶々が読みに来ていたのかもしれない。

 窓の外には、ひらひらと1羽の紋黄蝶モンキチョウが、楽しげに舞っているのが見えた。

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