7 白尾と、嘘と意地


その夜、夜中に目が覚めたトロは一人むくりと起き上がった。厠に行こうと思ったのだ。そっと起き上ったつもりだったが、隣でぐっすり寝ていたはずのロンも眼を覚ました。

「…どうした」

「厠」

「俺も行く」

ロンは寝起きの枯れた声でそう言うと眠そうにあくびをしながらふらりとたちあがり、玄関の脇にある厠にトロを連れて向かう。どの部屋にも雌がいるらしく、庭の虫の音に交じってところどころから吐息や艶声が漏れ聞こえてきていた。

ロンは厠の扉の前で壁に背を預けながら、すっかり早寝になった自分を省みていた。

しばらくしてトロが出てくるとロンも身を翻し自室に戻る。

「帰るよ」

「ロン厠じゃなかったのか?」

「ひとりでこの長廊下は嫌だろ」

ロンがほらと手を差し伸べると、トロはそっと手をとって歩いた。


自室に戻り、布団に入ってもトロはしばらく目を閉じる事が出来なかった。不思議に思いロンはいつものようにゆっくりとんとんと肩をたたいた。

「どうした眠くないか」

しばらく俯くように目を合わせようとしなかったトロが、じっとロンの目を見つめた。何か言いたいようだった。それでも言葉がでないのか、しばらくじっとロンを見たまま耳を倒して不安げに眉を寄せた。ゆっくりと眠れるよう、眉間の辺りを優しくこすってやると気持ち良さそうに目を閉じたトロは、瞳からポロリと涙をこぼした。

瞼を開けると涙がすっかり瞳を包みこんでいて、それからもう一筋、ふた筋と、涙がこぼれおちた。

「もう、俺一人なの?」

トロがようやく言葉にすると我慢していた涙が次々とあふれでる。

「一人はいやだ…怖い…」

弱弱しくはあるがトロはロンの寝衣の袖を掴んでいた。そのまま、ロンはぎゅっとトロを抱き込むと「俺がそばにいる」と答えた。

トロはロンの腕の中でしばらくしくしくと泣いていた。



朝がやってきた。木々が風でざわめく音、蝉と虫の鳴き声、鳥の鳴き声はいつもどおりではあったが、どうやら何かおかしかった。

「嫌に静かだな」

人の声どころか、いびきや寝がえりをうつような音さえ聞こえなかった。異様さを感じたロンはトロを起こし廊下に出た。

とても嫌な予感がした。

建てつけが悪くなった重みのある戸を引くと、薄闇の部屋に朝の光が差し込んだ。

仲間たちと昨日連れてこられたばかりの女達は、まるで折り重なるようにして

今はただ静かに横たわっている。皆、息絶えていた。

雌の身体と酒に毒が仕込まれていたに違いなかった。

ロンはただ静かにそれを眺め、それからゆっくりとしゃがみこみ目の前に投げ出された仲間の腕を掴んだ。

すでに冷たくなっているその腕は、ロンが手を離すと、その場にごとりと音を立ててまるで無機質に転がった。

しばらく言葉もなくそのひとつひとつをロンは目に焼き付けていた。

そうしてから、部屋に足を踏み入れ重なる身体をかき分けては、一匹一匹息のある者はいないか探し始めた。

廊下にはトロがその惨状を目の当たりにして立ち尽くしていた。

ロンは仲間達の身体からせめてかすかな生の名残だけでも見つけ出そうと、ただ一心不乱に遺骸に触れていった。

かたりと玄関近くのふすまが鳴り、ロンとトロがそちらに目をやると、力なくふすまに寄りかかったキュウマの姿があった。キュウマは弱弱しくロンの名を呼ぶと、ぐらりと左右に身体を揺らしながら少しロンの居る方にその鈍重な歩を進めた。

薄青色の瞳は虚ろだが、夏の陽光が鋭く入り込み悲しいほどに青白く輝いていた。

「キュウマ、お前」

「…たろも、サクも、ダメだった」

キュウマはそのまま踵を返すとふらふらと玄関に向かった。

ロンに背を向け「くそ、なんで酒を飲んじまった…」と口惜しそうにつぶやくキュウマを、ロンは廊下にいたトロを連れだって追った。

「どこへ行く」

「…グラノドールにさいがある。最後に会いたい」

キュウマに大事にしていた雌がいたなどと、これまでロンは聞かされた事がなかった。そしてきっと誰も知らなかっただろう。キュウマの決意がそれを物語っていた。

玄関をどうにかくぐり、馬にまたがったキュウマは青白い顔でふらりふらりと上体をゆらしていた。グラノドールに辿り着けるかさえ危うかった。

それでもそれをひきとめることはロンには出来なかった。

その娘に自力で会わせてやりたかったのだ。ロンはキュウマの去り際、キュウマの首を力強く引き寄せ言った。

「あの世で待て、俺もすぐ行く」

「は、ロンは来るな。雌の取り分がまたへらあ、」

力ないが、キュウマはいつもの軽口を言って笑った。

そうして、去り際にまた振り向くと

「どうか、健やかで…」

とかすかに言った気がしたが、そのまま聞き返す間もなく馬を走らせて行ってしまった。ロンは、その姿や馬の蹄の音がすっかり聞こえなくなっても、しばらくそこにいた。そばにいたトロも、じっと何も言わずキュウマの消えた森の薄暗い坂道を見つめていた。


それからロンは、屋敷の裏にある比較的柔らかな土を掘り息絶えた仲間を弔った。

息がある者がいないか丁寧に確かめ、連れてこられた雌と両性種含め、誰も息のある者はいなかったのを確認すると今度は特別の感慨も持たぬような動作で次々とその亡骸を葬っていった。

トロは、何も言わずただ手慣れぬ様子で土を掘り起こすのを手伝い、そして石を見つけてきては葬った場所一つ一つに並べていった。

日陰とは言え、真夏の盛りの作業は随分骨が折れた。しかし、ロンは疲れすら感じなかった。食べる事すら忘れただ夢中に土を掘り起こし、遺骸を埋葬し、土をかぶせていく。

すべてが終わったのは日はとうに暮れ、夜も更けた頃だった。

なにもかも終わってしまっても、身体はその場から動かず、そんなロンにトロは少しの距離を挟んで自らも膝を抱えたままじっと墓を見つめた。

ロンが、そっとトロの方を振り向くとトロもじっとロンの顔を見た。

頬や鼻先に泥をつけたトロはそんなことにももちろん気付かぬ様子でただじっとロンの表情をうかがっている。

ロンはゆっくりと立ち上がるとトロを抱きかかえた。汗と泥で湿っていたが、トロの身体はとてもあたたかく、柔らかく、ロンの心をゆるやかに癒した。


そのまま庭の井戸まで行き、泥をすっかり落としてやるとトロが静かに口を開いた。

「ここを出ていく」

ロンは井戸から水を汲んでいた手を止め、トロの顔を見た。

「何?」

「白尾のところに行く」

「何されるかわかってんのか」

トロは沈んだ表情で俯いたまま、小さく首を横に振った。

それでも必死になにか堪えるように、ロンの眼をまっすぐ見上げた。

月の淡い光がトロの薄い灰色の瞳を出会った日と同じように輝かせていた。

少しでも力を弱めるとその隙に逃げ出してしまいそうで、ロンは両腕をとると完全にトロを自分の方に向け、自分も屈み目線を合わせた。

「黙って俺の傍にいろ。守ってやる」

「だめだ、ころされる」

「俺が殺されるものか」

「そばに、いたくない、そばにいたら…」

そう言ったきり口をつぐみ、トロは掴まれた両腕で顔を隠そうと俯いた。その闇をきらきらと毀れる涙が光った。

ロンは掴んでいた腕を自由にしてやると、トロの頬を拭いそれから強く腰布を掴み自分の身に引き寄せた。トロは泣き声のような声で「一人は嫌だ」と言い力弱くロンの腕から逃れようとする。

「出てったら一人だぞ」

「それでもいい」

つじつまの合わないその答えに、ロンはその表情を見ようとトロの俯いた顔をのぞき見た。するとトロはゆっくりとまたロンに目を合わせ、それからごく控えめにだが、ロンの腕に触れ言った。

「本当の、ひとりじゃない」


土を掘り起こす時も、石を大事に探している時も、ロンはずっと感じていた。

自分の意に添わず無理やり連れ去られた身のうえなのにも関わらず、この状況でトロは自らを責めていた。いつものロンならばなんという愚かな考えだと一蹴しただろう。

しかし、ロンはそんな気持ちにはなれなかった。

なぜこんなにもトロの事を愛おしく特別に感じるのか、

確かめるように自分に問うても、もう応えは一つしかなかった。


「俺の嫁さんになってくれないか」

ロンはトロから目をそらさず言った。突然すぎる言葉にトロは驚いたように目を丸くしている。ロンは更に身を近づけると言った。

「お前が嫌ならお前以外の嫁はとらない」

今までおよそ聞いた事の無いような熱のこもった囁きに混乱して目をつぶり、トロはぐっと身を引くが、それでもロンの腕にがっしりと掴まれ逃れられなかった。

ロンが耳元でトロの名を呼ぶと、かすかにトロの身体があたたかくなっていくのが感じられる。震えながらトロはそっと瞳を開けて、恐る恐るロンと目を合わせた。

その時だった。


ぐっと思わぬ衝撃でトロの方に身体を寄せたロンの右肩口に鋭く矢先が突き刺さった。玄関口の方から伸びた矢だ。ロンがその方へ振り向くと霞む目線の先にぼんやりと白い靄のようなものが見えた。焦点が合った頃には二度目の矢が放たれ、今度はロンの右腿をかすった。ほんのかすかだが肉を持って行かれたロンはがくりと右ひざを地につけたが、落ちると同時にトロの腕を後ろ手に引っ張りその背に隠した。

弓を構えたまま近づいてくるのは、二度の来訪でスーラのもっとも近くに控えていたすらりと背の高い側近だ。冷たい瞳は、今はなんの感情ももたぬようにして並んでいる。


ロンは右肩にやや深く入った矢をつかみ、ぐっと力を入れ抜きだし何の余韻もなく投げ捨てると、縁側に放ってあった脇差をとる前にトロを部屋の中に乱暴に投げ入れた。

走り込み勢いよく抜刀してくる白尾の者の剣を寸でで交わすとロンは脇差を抜き、すかさずふりあげられた刀を力強く受けた。

鉄と鉄がかみ合う音がし、暗闇にかすかな火花が散った。

右肩の傷が痛みを増してゆくなか、ロンはじりじりと抑え込まれながらも、それを力任せに跳ね返し、間髪いれずブンと振りきった。刀は、逃れ間をとった白尾の者の首をかすめ、まるで血の気の無い真っ白な肌から多少の血が流れ出てきた。

どこからか迷い込んだホタルが二匹の間をうろうろと飛んだ。

それが見えなくなるのを合図に刀を振り上げたが、トロの声が二人を止めた。

「やめてくれ、頼む」

ロンの前にトロが走り出してきた。白尾の者もぎょっとして刀を下ろす。

「言うとおりにするから」

「トロ」

強い口調でロンが呼ぶとその語気にびくりと背を震わせたが、トロはそのまま振り向かず「もう、抵抗しない」と白尾の者に告げた。

トロの脱力しきった身体に白尾の者の手が触れるかと思われたその瞬間、鋭く風音が呻り白尾の者の右腕を一本の矢が貫いた。

白尾の者はぎゃっと高く鳴き、トロや、ロンから身を離すと、矢の飛んできた方を見た。

ロンとトロの眼にも、白尾の者が避けたその弓の軌道の先にある姿がはっきりと確認出来た。


「ルーク…?」

トロは今見ている姿が信じられず呆然としたまま、小さくつぶやいた。

見覚え深いあの高潔な眼差しはまぎれもない、ランドーリの橋の上で相見あいまみえた青年、そしてトロにとっては今や唯一の同胞であった。

ルークは鋭く白尾の者を睨んだまま、蹲って痛がるその眉間に矢先を向けていた。白尾の者は腕を貫かれた痛みと酷い出血で、苦しげに呻きながらその片腕をかばうようにして肩で大きく息をした。

その隙にルークはトロをぐいと自分の身に寄せると、それから間髪いれずさも大事そうに抱き寄せた。

「よかった…」

抱きしめられながらもトロは、おろおろと瞳を泳がせた。

あれほど夢にまで見たルークが生きていて、今まさに目の前にいるのだ。頬を寄せ合わせるとじっと熱が伝わる。トロはぎゅっとルークの首元に抱きついた。

ルークはトロを自分の背に隠すようにすると、もうひとつ鋭く矢を射った。

その矢は、ロンの頬を強くかすりじわりと血をにじませた。

動じぬロンに、怒りで打ち震えながらルークはまた強く弦を引いた。トロが必死で止めるが、ルークは怒りにまかせ強引に矢を放った。

暗闇の中、ロンはそれを脇差でばっさりと払うとそのままルークと睨みあう。ロンはじっと動かずルークを見つめ、ルークは未だおさまらぬ怒りで強く震えていた。

ルークが矢を番えようとするのを懸命に遮るとトロは言った。

「ルーク違う!!ロンは俺をずっと守ってくれたんだ。俺のせいで仲間もいっぱい死んだ!一緒に…」

「離せトロ!ハルオン様の命と、お前を奪っていったこいつを何故憎ませてくれない」

ルークの腕を掴んでいたトロの手の平から、とたん力が抜けた。

「…じいちゃんの」


「俺が蹴落として殺した」

ロンがあまりにも体温の感じられぬ声で淡々と話すので、トロは大きく混乱した。

「俺を、だましてたのか、ルークの事も嘘を…」

「ああ」

ロンは迷いなく応えた。トロはその冷たい響きに言葉にならず、それでも懸命に「やさしくしてくれたのは」と、そこまで言ってまた言葉をつまらせた。


身を寄せて眠った夜を、つないだ手の感触を、

連れだって行った山の頂上から見た景色を、強く心地よい風を、

その時話してくれた話を、声を、温度を、

とろけるような熱を帯びた言葉も、

すべてが嘘だと思いたくなかった。


「全部…嘘なのか」


ロンは表情を変えず答えた。

「わかったなら、さっさと消えろ」

その言葉に呆然とするトロを、ルークは素早く抱き上げた。そうしてロンにはもう一瞥もくれずまっすぐ玄関を潜った。

そうして連れられる間、ただトロだけが

その姿が見えなくなってしまうまでロンを見つめていた。

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