8 グラノドールの宿
グラノドールに下ると、夜だというのに見た事もないほど街は灯りにまみれており、トロの目はくらくらとした。
グラノドールも当然白尾の手がかかっている。ルークはトロに長い布をかぶせ足早に人込みをすり抜ける。知らない街並みを、自分の手を引いて人波を器用によけながらぐんぐんと進んでいくのは、紛れもない、あの夢にまで見ていたルークだ。
生きていたんだ…そう思うと嬉しいはずなのに、さっきつけられた心の傷がグズグズとトロの深部を浸食していた。その様子に気付きルークがその腕に抱き上げる。
「トロ大丈夫か」
トロは、ふいにルークに顔を見られるのが恥ずかしくなり俯いた。
思えば村でロンの様な大人はいなかった。トロの腕や首元を乱暴につかんだり、力いっぱい苦しくなるほどに抱き寄せたり、ましてや婚姻前に口を合わせたりするようなことは村では野蛮とされていた。そもそも村の大人たちは、優しく壊れものを触るようにトロに接するのが当たり前だった。
とたん、あまりにも野蛮な事を受け入れ始めていた自分が恥ずかしくなったのだ。
「怖かったか、大丈夫だよ。もう俺がそばにいるだろう」
ルークがやさしくおでこを合わせた。ランドーリでの親愛の証だ。
少し歩いてから、静かな通りに入ると、小さいけれど落ち着いた宿屋があった。そこにルークは今夜の宿をとった。布ですっぽりとトロのその表情まですべて隠すと、入りたての舞妓と偽り宿に入った。
部屋に入り二つ並ぶ小さな寝台にトロを座らせると、ルークは正面から膝をつき、両手をそっと握りその表情をしっかりとのぞき見た。
「本当に大丈夫だったか?何もされてないだろうな」
「されるわけないだろ」
「にしちゃ、あいつと距離が近かった」
じわりと身体の温度が上がるのをトロは感じた。ことさらロンの体温や匂いを思い出すと得も言われぬ感覚がトロの身体にも押し寄せていた。
「遅くなってごめんな」
ルークはトロの耳を優しくなでた。
なでられたトロは気持ち良さそうに、目を閉じると、しばらくそうしていたが、そっと目を開けた時には、その瞳はすっかり涙でうるんでいた。
自分の、相手を想いやる気持ちを裏切られたのだとわかっていても、記憶がまだあざやかすぎて、ロンの体温すら容易に思い出せてしまう。
そんな風に震えながら痛みに堪えるようなトロの横に自分も腰掛けると、ルークはトロをやさしく抱き寄せ、いつもしていたように頭を撫でる。
怖い事はもう何もないと伝えたかったのと、それから、大事な想いを伝える為にじっと瞳を見つめた。
「なああの日覚えてるか、俺達夫婦になったんだよトロ」
夫婦と聞いたトロはハッと現実に引き戻されたようになって、それから少し頬を膨らませるようにした。
「儀礼をしてないからなってない」
「なったも同じだ。俺しかお前を護れない」
「ルークひどいよ」
「ん」
「俺雄になりたかったのに、なんで俺を選んだりしたんだよ。他に、たくさん雌だっていたのに」
ルークは更に泣きそうになるトロの腕をそっととり直し、自分の方に完全に身体を向けさせると、じっとトロの表情を見つめた。ひくひくと泣きじゃくりの様に肩を震わせている。愛おしさがこみあげルークは囁くように尋ねた。
「わからないか」
聞かれたトロは、少し困ったように眉をひそめたままじっとルークを見つめかえす。その様子をしっかりと確かめてからルークは続けた。
「ずっとお前が特別だった。好きだったんだよ」
「好きって何?わからない」
ルークはあまりに純粋な質問に笑んだ。
「いいよ今はわからなくて」
そっとトロの襟元を引き寄せると頬に軽く唇を寄せ、ルークはトロをぎゅっと抱き寄せた。
「いつかトロにもわかる時がくる」
包みこまれるように抱き寄せられて唇がその頬に触れると、ルークの言葉の通り、かすかに変わり始めた関係にトロはどこか不安げに眉を寄せた。
そんな事をしなくたって、もうとうの昔からトロはルークの事が好きだと思っていた。
いつも傍にいて、礼儀や村のしきたりを優しく教えてくれる。どんな怖いことからも守ってくれる。傍にいると落ち着く。こんなに安心できる時間を大切に思う。
だけどそれは、ルークの言う「好き」と何故か違う気がする。
『俺の、嫁さんになってくれないか』
耳元で言われたような心地がして、トロはびくりと身体をゆらした。
「トロ?」
ロンの言葉がさっきから離れない。身体が溶けるような感覚の後、すぐに憎しみが身体の奥底からわき出てくる。
どうしていいのかトロ自身にもわからないほど強く激しい波のように満ち引きしてゆく。
「ルーク、じいちゃんどこで?」
「東の大橋が崩れて…助けられなかった」
「あいつが殺した…」
「もう思い出さなくていい。トロ。あいつの事は忘れるんだ」
「絶対に許さない。白尾も、あいつも、村をめちゃくちゃにした奴ら全部。」
「トロ」
「仇をとってやる」
トロは涙を流しながらも、眼光鋭くじっと虚空を見つめていた。
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