9 クムレリアーナ
グラノドールから南、そして南西方向まで広大な土地に広がるのは、クムレリアーナ商業地区だ。
グラノドールにほど近い東部は衣服市のあるサーフェ地区、北部は食料市と酒蔵の多いボマリ地区、西の方角は高級な絨毯、家具、武具の市があるリリアナ地区、そして南部は、ヒアルクという金ものなどの雑貨を売る市が多い地区、この四つの地域で構成されたのが広大なクムレリアーナという街だった。
トロとルークは、あれからしばらくを白尾から逃れながら、広大なクムレリアーナの中で転転と居を移していたが、ここ1年ほど南部のヒアルクと呼ばれる地区にうつり落ち着いていた。
あの日、ランドーリが燃え村を追われてから3年と少しの時が経ち、トロは13歳になった。少しだけ伸びた背と手足の他はかわらず、灰色の毛並みもふわふわと風によくゆれ綺麗だった。
秋が過ぎ冬が訪れたばかりのこの街で、暖かな外套と手袋でぴょんぴょんと飛び跳ねるように走るその姿は無邪気で愛らしく街の人々の目に写った。商いで栄えたヒアルクの人々は大概が気さくで明るい性格だったため、明らかに余所からやってきたらしい1人の青年とまだ幼さを残した少年を寛容に受け入れてくれた。
そうしてトロには友達も出来た。特別仲良くなったのは、トロと同じ年に生まれたミアというかわいらしい少女だった。
肩の上で短く切られた金色の髪は、動くたびにふわふわと揺れ、丸みを帯びた縞の入った耳と尻尾はその愛らしさを更に際立たせている。
性格はとても明るく感情豊かで、鈴の鳴るようなとても愛らしい声でよく笑った。
背はトロよりも少し大きいようだった。
トロの成長は他の同じくらいの年の子供達からしてみても小柄で手足などは細く、どこか特別不安定な美しさがあった。その灰色の毛色は、トロの場合雄になれば紺色が混じり、雌になれば桃色が混じるはずであったが、いまだ幼年期を表す灰色のままのその毛並みは街の中でも特別若々しく、純粋な意味合いで人々に受け入れられているようだった。
白尾の手がまだ及んでいないこの街では、トロは街中を一人で歩く事もある。
幼いながら、身なりのととのった育ちのよい少年が興味深そうにキョロキョロ街を歩くので、街の人も最初は面白半分のように声をかけ、トロもそれに愛想よく応えた。
トロはこの街の人々のあたたかさに触れる度、ランドーリにいた頃の様な平穏を感じていた。
「おーい坊主!おやつにしな」
恰幅のいい八百屋の親父が、今日も街中を散策しているトロにそう声をかけた。店の売り物であるリンゴをトロの方に投げると、トロも慣れた手つきでそれを受け取り、喜んで礼をゆうとそのまま服にこすりつけてがぶりとかじりつく。
甘すっぱい果汁が口中に広がる。うまいと伝える為に口いっぱいに頬張ったまま、八百屋の親父に笑顔で振り向くと、親父も手をふりながら「またこいよー!」と威勢のいい声で笑った。
また一口二口とリンゴを頬張りながら上機嫌で歩いていたトロは、突然ぐいと腕を後ろに引っ張られてバランスを崩しかけた。
倒れるように誰かの身体に支えられたので振り向くと、そこには少し困り顔の見なれた顔があった。
「ルーク」
「危ないから一人で出歩くなって言ってるだろ」
「ごめん。でも、これくれたんだ」
トロはかじったリンゴをルークに見せた。ため息をつきまた更に困り顔になったルークは心配そうに尋ねた。
「体は大丈夫か」
「平気だよ」
ここ最近ルークはトロの体調を特別気遣うのだが、その理由がわからぬ上、自分の体調にも変化を感じていないトロはきょとんとルークを見上げた。
ルークは「大人しくしてなさい」といいながら今、居を借りている小さな家に向かう。一人でも歩けるのに、トロはルークの背におわれて家までたどり着いた。
どうも、トロ自身、ルークは自分を甘やかしすぎているのだと思いながら、それでも、ルークの優しさは変わらずいつもトロを安心させていた。
借りている小さな平屋の隣には、同じような平屋の家が連なり、そこにはトロと同じくらいの年の子供たちも多くいた。
皆この街で商いを営む者たちの子供で、トロがこのヒアルク地区の家に住むようになってから徐々に仲よくなっていった。その中にはトロの一番の仲良しでもあるミアも含まれていた。
悲しい別れを背負った少年に、望ましい交流であると思えれば幾分か事は幸せだったかもしれないが、ルークはそういった街の人との接触を避けるようトロに言っていた。
ここに定住出来るわけではないし、いつ誰が裏切りの一端を担うかわからないからだ。ルークの気持ちを察してはいながらも、村にいた時も、そして無論村を追われてから、人との接触を制限されていたトロは友達と呼べる存在に飢えていた。
ルークの目を盗んではミアと街中を探索したり、お店の人に挨拶をして回ったりする事全てが新鮮でとても楽しかったのだ。
二人の住む家はとても簡素で、小さな土間と小上がりに囲炉裏と二人が寝る分だけの空間があるとても小さな家だった。
ルークは帰るなり囲炉裏に火を灯し、そこで湯を作った。
温めた湯の熱気と炊かれた囲炉裏の火で、しんと冷えていた部屋は徐々に暖かくなった。たらいに水と温めた湯を張り、トロの身体を丁寧に洗いはじめた。
「どうして外に出たらだめなの?」
背を流している途中で、トロはルークに聞いた。ルークは少しの間手を止め黙っていたが、またトロの背に湯を流しながら言った。
「お前は、ハルオン様の…一族の希望だからなトロ」
「希望…?」
本当に理解ができなくてトロはつぶやいた。その様子にルークは続けた。
「自分の事わかってないよ、お前は。ただ歩いて誰かに見られるだけで心配だ」
「白尾がいたらちゃんと伝える。悪い奴とそうじゃない人との区別なら俺だって」
言葉の途中でルークがトロの腕をぐっとつかんだ。タライの湯が勢いよく跳ねたので少し驚いたトロはルークの方を振り向いた。すると、間髪いれずルークが顔を近づけてきた。トロがあっと声を上げる間にルークはその口を自らの口でふさいだ。唇が触れた瞬間ルークの身体にびりりとしびれが走る。
あまりに急な事で驚いて、おおよそ逃れるようにトロは後方に倒れこみ手を付いた。湯も多少タライから流れ出た。
鼓動と動揺で乱れた自分の呼吸だけがトロには鮮明に響いた。トロを覆うように上半身を支える腕がすっかりタライに入ってしまったルークは、はねだした湯を浴び前髪からしずくを2、3滴らせていた。
その湿った前髪と濃い湯気に隠れたルークの表情が、いつもの優しいものではない。
「違うトロ、そうじゃないんだ」
「ルーク、」
「もう誰にも奪われたくない」
聞いたことの無い切ないような声で、ぐっと更に追い詰められて、タライの中ですっかり逃げ場を失ったトロは、耳を倒しおびえた声で鳴いた。それを聞いてようやくルークに冷静な感情が少しずつ戻り、ハッと身を正すと深い息を吐いて、それから高ぶった感情と身体で出来うる限り優しくトロをなだめた。
「まさか、俺まで石の抵抗受けるとはな」
「だって…ルークが」
「悪かった」
ルークがトロのおびえた耳を優しくなでてやると、そのいつもの安心できるあたたかさと優しさにトロの方もやっと落ち着いてきたらしく、ふーっと今更ながら威嚇のまねごとをすると、タライを急いで出て適当に身体を自らで拭い服を羽織った。
そうこうしているところに、ミアが息を切らして扉を開けた。
「トロ君!お母さんがこれトロ君達にって!!」
重そうにミアが手に持ってきた重箱には、このあたりでよく祝い事のときに食べられる、薬草などで味付けをした鶏の料理が敷き詰められていた。
「祝い事でもあったのか?立派な肉だ」
ルークも物珍しげに眺めている。
「よくわかんない。だけど、すごく大きなお仕事が決まったって」
そう首をかしげるミアの胸元に大きな白い石の付いた飾りが見え、ルークはハッとし尋ねた。
「ミア、これをどこで?」
一瞬何の事を問われたかわからず、きょとんとした表情で思案したミアは、自分の首から下がっている自分すらまだ見なれぬ首飾りを手にし、眺めながら言った。
「昨日お父さんがボマリで交換したって」
「…石英だな、とても価値のあるものだ」
ルークはその石を手にとりよくよく眺めながら静かにそう言った。横からその石を見ていたトロは石になにか刻印の様なものが刻まれているのに気付いた。
「何か文様がある」
ミアがトロのその言葉に反応して聞き返したが、もう遅くなるからとルークはミアを家に帰した。
このところ、ミアはああして用事がある時もない時も家に訪れる。とても屈託なく邪心ない少女で、ルークも快く思っていたのだが、今夜のルークは表情がさえなかった。
それどころか、荷物を手早くまとめはじめる。
「トロ、この町を出るぞ」
どきりとトロの心臓が鼓動を早めた。これまで転転と居を移してきたが、こんなに長く落ちつけたのは初めてで、いつしかこのままこうしてここに住んでいられるとさえ思い始めていた。現実をつきつけられトロは混乱した頭で尋ねた。
「な、なんで?俺嫌だよ」
「アゼツライトに白尾の文様…あいつらが金の代わりに良く使う。少なくともボマリとの境まで来てる。すぐ動かないとまずい」
「なら、ミアに別れを」
外に飛び出そうとするトロをぐいっと力いっぱい引き戻してルークは言った。
「ダメだ。頼む言う事聞いてくれ」
トロは泣きながらそれを振り切ると無理やり外に飛び出した。強くルークが呼んだ。
このままこうして白尾の影を感じる度に逃げるしか生きていく術はないのか。そう思うとすべての事がむなしく思えたのだ。
それでも、今の自分の力ではあの白尾にかなうはずはない。
ルークの声が遠くなるまで全速力で走った。ミアに会ってさよならと伝える事さえ出来れば、もうそれ以上は望まない。そう決心しても悔しくて涙が滲んだ。
ミアの家の前まで行くと、はらはらと空から雪が降りはじめた。どうも今朝から寒かったはずだ。積りそうもない粉雪にトロはまた泣きそうになった。
かじかんだ手でそっと扉を二度たたいて、中からいつものようにミアが出てくるのを待った。
ぎいっと湿ったような木の音がして扉が開くといつもの様子でミアが家に招き入れてくれる。部屋からは木がはぜるような音も聞こえあたたかそうだ。
でも、トロは入ろうとせず、ミアに真剣に言った。
「もうここを離れなくちゃいけない」
ミアは思いもよらぬ言葉に呆然と立ち尽くしていた。
「どうして」
「また、きっと会いに来る。その時まで」
そこまで言ってトロは口ごもった。一体いつになったらそんな日が訪れるというんだろう。何故こうまでして自分は追われなければならないのか。そう思うと、次から次へと涙がこぼれる。ふとミアがトロの震える手をぎゅっと両手で握った。
「嫌だよ。ここでお別れなんてやだ」
「トロ」
追いついていたルークが静かにトロの背で呼びかけた。
その時ミアの家から何かが倒れるような音がして、ふっと灯りが消えてしまった。
嫌な予感に、不気味な静けさに、ルークはとりあえず暗闇の中トロとミアを自分の身体で覆うとしばらく身をかがめた。
このあたり数件の家の灯りが一気に消えた。ミアの家、何件か先から大きな叫び声が聞こえミアはおびえて小さく鳴いた。
このままこうしているわけにもいかず、ルークは二匹を連れ、自宅の方向に急ぎ戻ろうとする。
その時、進行方向に横道から大きな成犬種が走りこんできた。
まず真っ白なその様相は暗闇の中でもとても目立ち、この地域では見られぬ形の厚手の白い外套には頭巾の様なものが繋がっていてその頭部をすっぽりと覆っていた。
腰には大小二刀を携えている。瞬時に白尾の者だとわかる出で立ちだ。
ハッと反応したルークが二匹を自分の背に隠すが、男もこちらに気付いたらしく、ぐいぐいと無遠慮に距離を縮めてくる。
その真白い出で立ちの背から長く美しい毛並みの尾が見え、近づくにつれ頭巾の影から表情やその身体つきの細部までがあきらかになっていく。
ルークの背に隠れていたトロはその、あまりにも見覚えのある瞳と顔立ちに呆然となった。そして男が表情を隠していた頭巾を乱暴に下ろすと、トロは更に息を飲んだ。
闇に紛れてしまうほどの漆黒の耳、肩には返り血がついていた。その黒く光る瞳が強く三匹をとらえている。
その瞳は、闇の中でも漆黒に輝き、トロをまっすぐに見つめた。
そんなことは有るはずはないと思いながらも、トロからはその名が毀れ落ちた。
「ロン…?」
じっと表情の感じ取れない目で眺めていた黒耳の男は、そう名を呼ばれると冷たく笑いながら答えた。
「よお、久しぶりだなあガキ」
呆然と動けないトロへの視線を遮るようにかばいながらルークが苦々しく言う。
「…貴様…やはり白尾の仲間だったか」
その時背後で大きな物音がして暗闇でもわかる白い尾が、強奪を終えたかふらりふらりと家から出てきていた。
囲まれた!と思いロンの方に向くとそこにはすでにロンはいない。今の今、確かにそこにいたが、走り逃れる道すがらにもロンの姿はもう見えなかった。
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