20 旅立ちと始まりの朝

陽が昇り、暗闇にかすかな光が戻っても、薄暗い牢にはただ変わらず水音だけが響いている。

辺りは静かで、ロンの荒い吐息はおろか、ささやかな呼吸の音すら聞こえはしない。ぴくりとも動かなくなったその身体はぐったりと俯いていたが、その目元に据えられていた布は確かに、するりとロンの目前から抜け落ちていた。


「おい起きろ!スーラ様がじきにいらっしゃるぞ」

「……生きてるかあ、これ…」

「死んでたとしてもうかつに近づくな何が起こるかわからんぞ」


「その通り、賢いね」


背後からスーラの声がし、看守たちは居住いを正した。牢のカギを開け扉をくぐるとスーラはロンにごく小さく呼びかけ、ロンの顎をもちあげたが、力なくがくりと落ちるばかりだった。




その時洞でうずくまっていたトロがはっと目をさました。

あまりに鮮明な夢だ。部屋の様子や、ロンの傷、細部まで思い出す事ができる。

そして四肢を固定され動けないロンを思い出すと背筋をゾクゾクと寒気が走った。

夢などではない。

トロは川をどうにかして越えることに決めた。もうじっとしていられなかった。

(白尾の奴らはきっと俺を殺せない…

川を越えて、俺がロンを助ける)


トロはそのまま毒の川に向かい、対岸に白尾が現れるのを待った。

しかし対岸に現れたのは見覚えのある老人の姿だった。その老人はトロに気付くと持っていた杖を大きくふりあげ叫んだ。

「!!トルーイさまぁあああい!!!」

「キノのじいちゃん!?」

ランドーリで武道の師範をしていた老師の一人だ。ルークやパールなど師団兵達は幼いころからキノの元で研鑽を積んでいた。

キノは裾をまくしあげると勢いいさんで川に飛び込もうとしている。

「今そちらに参りますゆへええええ」

「ダメだ!!!キノのじいちゃん!!来るな!!この川は」

急いで止めたが間に合わず足先だけ浸かったキノは大きく足を跳ね上げて叫んだ。

「あぢいいいいいいいいいやああああ!!何ッぢゃこの川ああああおっかねえええ」

「毒!!!毒川なんだ!!!入ったら死んでしまう!!!」

「ははああああ、なんという、はああ、なんということじゃこれが黒いのがゆうとった毒の川か、ははあ、しかし黒いの毎日ここを渡っておったというのか…」

「キノのじいちゃん!!!ここは危ない早く逃げろ!!」

言ったそばから、白尾の騎馬隊が4馬走ってくる。

どうやらキノは岩場に隠れ、身もばれていないようだ。

ランドーリの武術の基礎は攻略に無く、すべては守りにあった。身を隠し、のがれ、そして生きながらえるのが、ランドーリの古くからの教えだったのだ。それにならい。キノもじっと息をひそめていた。


白尾の騎馬隊の一番先頭にいた成犬種が、トロを見つけると馬上からゆっくりと頭を下げた後言った。

「ランドーリのトルーイ様とお見受けする。スーラ様がお待ちです。馬をそちらに向かわせますゆえ、それに乗ってこちらの岸まで」

何も乗せていない馬が、たった一頭で川を渡り始めた。馬の足元からはじりりとかすかに白い湯気が上がった。馬はちいさく嘶いたがそれでも一心不乱にトロに向かってくる。

「そんなことしたら、馬が死んでしまう!」

「馬にはまじないをかけてあります。けして毒に負けはしない。さあつかまりなさい。」

馬は川を越え、トロのいる岸にたどり着いた。息荒く鳴いている馬の首筋をこわごわ撫でた。馬はその温度に安心したか、小さく嬉しげに鳴いた。

とてもそんなまじないがあるなどとは信じられなかったが、この川を渡る方法が他に思い浮かばず、トロは恐る恐る馬に跨った。

それを確認した白尾の者が笛を吹くと馬は対岸に向け勢いよく駆けはじめた。それでもしっかりとつかまっていたトロにはしぶきすらはねてこなかった。

岸に着くと、白尾の青年はトロにまた頭を下げ静かな声で言った。

「トルーイ様、我が主スーラ様のもとへお連れ致します」

そうして自分が馬から降り、トロを跨っていた馬から抱えておろすと自らの馬に乗せた。

すると途端、トロの乗っていた馬はへたへたと足を砕かれたように倒れ込み、息を荒くし始めた。トロが心配してそれを気にすると白尾の青年はまた何の感情も働かぬようなおだやかな声で言った。

「いいのです。じきに楽になるでしょう」

まじないなど、やっぱり嘘だったんだな!」

たばかられた悔しさからトロはぐっと唇をかみしめた。そうしている内に、白尾の者たちは皆一斉に手綱を引き、走り森を下って行った。


嘶きや、蹄の地を蹴りあげる音が遠のくのをキノはじっと聞いていた。そして手を合わせ祈るように小さくにがにがしく呟いていた。

「なんたる…なんたる…不手際じゃ、わしがあと30も若ければというものを…」


その時、森の落ち葉を素早い勢いで踏みしめる音がし、キノはまた岩場に身を隠した。そっとその音の主を見定めると、そこにはとても懐かしいような背がある。

その背は、息荒くしばらく白尾が去った後の森の風の流れや、嘶きのかすかな響きを確かめるようにしてじっと立っていた。


「おぬし、もしや、ルークか!?」


岩場から首だけを出し、キノはその背に話しかけた。振り向いたその顔は紛れもない。幾分か逞しくなったが、子どもの頃から武術を教え育てたルークであった。

ルークの方も、しばらく呆然とキノの顔を眺めると、状況が段々とつかめてきたのか信じられぬ様子で言った。

「まさか嘘だろう……キノのお師匠!!?」

師弟の再会の感動もつかの間、キノはハッとして叫んだ。

「ルーク!!!追えい!!追うてくれ、不徳のわしの変わりに」

「はい!!」

それを聞きすぐにキノに背を向けると、ルークは先程白尾が消えた道のりに向かい走りだした。


しかしその背はキノの声で再び呼びとめられた。

「おおいおおい場所はわかるんかあ!?」

勢いをそがれ、前につんのめりそうになりがらもルークはしっかりと振り返りキノに言った。

「白尾はここから下ったところにあるロストの都に陣を張っています!そこにトロを連れていくつもりだ。これより山を下り奪還を試みます!!」

「まさか正面から行くつもりでもあるまいな、勝算はあるか」

「この数カ月白尾を追ってきた。それが皮肉にもトロの道しるべになるとおもい。ゆえに白尾どもが数日前から陣を構えているロストの都の構造は深く熟知しています。裏から入ればなんとか一人でも忍びこめるでしょう。」

「この洞に控えて身を隠しておる。けして死ぬでない。危なくばかならず身を隠せ」

「ハッ!!」

近くの小さな洞から、キュウマの子ども、キヌが寝ざめの様子で目をこすりながらその騒動を見ていた。


ルークは坂道をあっという間に駆け下りていく。その背を見ながらキノは師であった時を懐かしむように目がしらを熱くしながら呟いた。


「立派になってのお…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る