19 檻と神域
日が暮れて、更に夜が更けてもロンは帰ってこなかった。
心配なトロは何度も毒川の様子を見に行った。川の流れはいつもの通り穏やかで、ただ、待っても待っても対岸から誰かがやってくる様子はなかった。
こんな事は初めてで、ふと不安がよぎる。もし、ロンが死んでしまうような事があったら…そこまで考えて、トロは首を振った。
ロンを殺したいと思っていたはずだ。自分の願うとおりになったのだ。
そう思いなおしてもトロの不安は止まらなかった。
干物や野菜、そして玄米はまだ数日も持ちそうだったが食べる気になれず、それでも無理に少しずつ口に含んだ。
次の日も次の日も川に向かった。ロンの姿を探し、夜眠れば川岸にロンが戻る夢を見たが、目が覚めると、やはり隣にロンはいない。そんな夜を繰り返し三日目の朝トロはまた、目が覚めると川岸に向かった。
進める所まで歩いたり、大きな岩に腰掛けて眺めたりした。それでもロンの姿は夢のようには現れなかった。風が吹きトロの瞳から涙がこぼれおちた。
もうトロ自身にもわかっていた。ロンに会いたい。それだけがトロをこの川岸に毎日向かわせていた。
また一日が終わろうとしていた。日が陰りはじめ、薄闇に包まれた森の中からかすかに数頭の馬のいななきが聞こえた。まるで懐かしい馬の声に駆け寄ろうとしたが、はっとしてトロは岩場に隠れた。
対岸には白装束に身を包んだ白尾らしき成犬種の青年が三匹馬から降り、トロのいる岸を念入りに見渡している。
トロはそのまま背を低くして、身を隠しながら洞に走り戻ると荒い息でしばらくその場に倒れこんだ。
ロンは白尾の元にいるに違いない。
本当に殺されてしまったかもしれない。トロはあの不思議な石の力によってこの洞にたどりついた時の事を思い出した。流れ出るロンの血液がトロの背を恐怖で震えさせた。
ふと重い顔を上げると目前に椀があった。
欠けた椀の中に、小さな魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
ロンが気まぐれに、水ごと陶器の瓶に入れて連れ帰ってきたものだった。ロンは何も言わなかったが、遠く鳥がさえずるだけのこの神域で、小さな生命を眺めることはトロにとってはある種の救いだった。
それをそっと滝から流れる水にながしてやった。水が合うか心配したが、魚は調子よくすいすいと水をぬって泳いでやがて見えなくなった。
闇と静寂がすっかり辺りを包んでも、トロはしばらくその水を眺めていた。
軍都ロストは今や白尾の手に落ち、かつての王城であるこの都一立派な建物には、地下には牢獄と、拷問室が用意されていた。その牢獄の一室にロンはいた。
あのあと、門を抜けたところで捕まったロンは、鍵の付いた檻の牢獄に繋がれていた。
スーラは松明を持たせた側近を傍に、檻越しにロンの様子を眺めながら小さく言った。
「君の生存本能を甘く見てたね。まさかあの状態で看守をやられるとは思わなかった。こんな監獄みたいなとこにいれたくなかったのにな。」
本当に惜しそうにいいながら、それでもフッと頬を緩めると続けた。
「全部終わったら外してあげるから。今度こそ大人しくしてなさい。いいね。ああ、どうせ今何を言ったって聞こえないか。」
高く笑う声が地下の石壁に良く響いた。それだけがぼんやりとロンの耳に嫌な音を残して消えた。
ぴたり、ぴたりと、どこからか水音が聞こえる。
胴を強く縛られ、そして四肢を壁に刀で打ち付けられたロンは目隠しをされ、今が一体朝なのか夜なのか、そして何日が経ったのかさえ分からなかった。
意識も朦朧として明と暗をいったりきたりし、生きているのか、死んでいるのか
それさえ曖昧だった。
それでも胸の熱傷と腕と足の杭の痛みが鮮烈なまでに生きている事を何度も思い出させる。
ぴたり、ぴたり…
どこからか漏れ落ちる水音だけがロンに時間の経過を教えてくれていた。その他は何も変わりはしない。痛みも苦しみも、じんじんと疼くように続いた。
そうして、明暗をゆらゆらとさまよっている内に、一瞬気を失ったかと思うと次の瞬間じんわりと目前が暖かくなった。だれかが松明でももって、ロンの顔に近づけたのかと言うぐらいつぶった瞼とおさえられた布の上からでも感じるつよい光と温度だった。
それから、もうとっくに血の匂いを嗅ぎすぎて効かなくなったと思っていた嗅覚が、ほの懐かしいような香りを感じた。
ロンは、唯一自由な耳をピンと立てた。
「トロ…?」
まさか。
そんなはずはなかった。ロンは自分でもわかっている。
とうとう、頭がイカレてしまったのだ。ロンは小さく自嘲した。
だけど、間違うはずなどなかった。蓮の花の香りのような。甘くそれでいてみずみずしい香り。
じりじり、と焼けるような音がして目前の圧迫が急になくなり、ロンは久方ぶりに目を開けた。元より暗闇で、ぼやけてはいるのだが、それが次第にはっきりと見えるようになってくる。
青白い炎のようなものが目前で揺らいでいた。
まばゆい光と腫れあがった頬でしばらく目が白黒とした後、薄ぼんやりとそこに人影が見えた。
とうとう、幻が見え始めたのだろうか。ロンは思った。見たいと思った幻影を自分が自分にみせているのだろうか。しかしそれだけでも、ほんの少し傷が癒えた。
『ロン…』
目の前に現れたトロは驚いたような表情でロンを呼んだ。声を聞いただけでロンは体が反応して動こうとするが、当然四肢と胴体が繋がれていてはかすかにも動くことは出来なかった。ロンは唯一自由な耳をトロの方にパタパタと力なく揺らした。
トロは自分の耳を倒し言葉を無くしているようだった。その姿をじっくりと確かめながら、ロンは思った。
(やっぱ可愛いな
驚いてやがる
そりゃそうか、
こんな姿、
見られたくなかった)
「よお」
愛おしさと切なさでロンは自分でも驚くほど優しい声でトロを呼んだ。トロは、もうその瞳から涙が毀れ落ちそうになりながら、それでもじっとロンの姿を見つめた。
『……、…なんで…こんな』
「何、心配そうな面してる……ようやく憎い俺が死にそうになってるんだ。もっと嬉しそうにしろ」
皮肉を言っても、トロは耳を倒したまま涙をぽろぽろと流し続けた。
抱きしめてやりたいのに、頬を拭ってやる事すらできないのか。ロンはもどかしさと情けなさに小さく呻った。
トロはそっと近付いて、触れようとするのに触れることはかなわず、どうしようもできない。それでもそのたび温かい風がロンの傷を少しずつ癒した。
頬、口元、首筋、そして手のひら。
ゆっくりとトロが触れようとするたびじんわりとしたあたたかい風が吹き、痛みや疼痛をほんの少しずつ和らげていく。
こんなに情けない姿になっているのに、こんなに離れているのに、まだ癒そうとするトロのその健気さに、愛おしさが募りロンはたまらなくなった。
「…この世で…また会えるとはな」
涙でぬれてる頬がきらきら輝いてあまりにきれいだった。皮肉を言うつもりが、どうやら、本当にそんな気がした。
これが最期だと。
「この、世で…」
小さく言ったのをトロが耳を寄せて首をかしげた。ロンはそのまま続けた。
「いちばん、愛しき君を……我が妻とす、今生………最上の幸せを与えん事をここに…誓わん」
『…そ…れ』
「俺の嫁さんになってくれ」
『……』
「お前の事が好きだ」
『……、』
「大事にする」
『…、…』
「トロ」
『俺も、すきだ』
そう応えると、トロは近づいてロンに自分から口を合わせた。
温かい。
まさか感触があるわけでもない。
だけどもう二度と会えないとしても幸せだとロンは思った。
(傍にいれなくてもお前の力を感じる
最期に
お前の幻影に会えた)
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