15 キノとキヌ
ロンは川を越え、またあの家へ向かった。
つい先日見つけた、人がいる事がわかっているあの家屋だった。何かしらの穀物を育てている様子があった事と、それから単なる好奇心もあり、乾かした魚と鹿肉を持ち家の付近までたどり着いた。
木陰に身を隠し、しばらく遠目に眺めていると、以前見たのと同じ老人が、玄関扉をくぐり外に出て行った。老人が遠ざかっていくのを確認した後、用心深く家の中をのぞくと、どうやら老人の他には誰もいないようだ。家の中はがらんと静かで、そしてとてもきれいに整頓されていた。どれも長い間使われているらしい、古い家財だが、みな美しく磨かれていて、とても使い勝手がよさそうに見えた。
ふと、何かが動いた気がして目をやると、それはどうやら居間の布団の上で確かに小さく動いていた。よくよく眺めていると、とても小さな手足がじたばたと天を仰ぐように静かに動いている。
人間だろうか?
ロンが身を乗り出しその窓を覗き込んでいると、背後から声が聞こえた。
「…誰じゃい?」
反射でロンはすかさず老人の背後をとり、口をふさいだ。老人は無闇に暴れることはなく、じっと緊張した様子でそのまま動きを止めた。その様子にロンは尋ねた。
「ここに古くから住む者か?」
老人は驚いた様子で首を横に振った。
「ならばいずこの者だ、ここより南か北か」
ロンはそう尋ねると老人をいくらか自由にして、ふさいでいた口元の手もほどいた。はあと息を出しながら、老人は応えた。
「東のランドルの落ちぶれた爺じゃ。村が壊滅して唯一の橋が谷に流れて落ち、のがれのがれてここに来た、殺したところで何の手柄にもならん」
「殺すつもりなどない」
ロンは老人の体を拘束していた手を離した。すると老人はどっと身体の力を抜き焦ったように大きな声で言った。
「はー、びっくり、もうびっくりするじゃないか、なにもんじゃあ」
「ランドルとはランドーリか?」
「はて、今の者はそういうかもしらん」
ランドーリ。トロの村だ。
「いつここに?」
「2年、いや3年にもなるか。白尾の獣が村を襲い、ここへ命からがら逃れてきた」
長く、そしてすっかり白くなったひげをなでつけると本当に落ち着いたのかまた、老人はふうと深く息をついた。そしてふと目線をロンの足元にやるとその足の酷い有様に息を飲んだ。
「若いの、足をどうした、ひどい火傷のようじゃが」
「裏の峠を越えたとこに毒川がある。そこにつかるとこうなる」
「ちいと待て、こころあたりがあるのよ」
聞くと老人は家に入りそれからすぐ出てくると、何やら大きな笹の葉のようなものを持って出てきた。そうして、一番酷い患部に薬を塗ると笹の葉を巻いた。
「どうれ、これで少しは楽になるじゃろう」
確かにじりじりと薬が染みてくる痛みはあるが、数段楽になった。
どうやら敵ではない。
「爺さん、穀物を育てているな」
「そうじゃ、裏にすこーしじゃが」
「これと交換してくれほんの少しでもいい」
ロンは背に負っていた、鹿肉と魚の干物を老人の眼前に差し出した。老人は本当に何年振りかに見たかのようにそれを物珍しげに眺めてため息をついた。
「こりゃりっぱじゃ、どうした」
「狩った」
「とにかく中へ」
老人は優しくロンを導くと家の玄関に案内をしてくれた。玄関に向かう途中の庭には小さいが立派な穀物畑があり、たくさんの野菜も植えてある。
庭には常に鳥が集まり、食物の苗や草木に集う虫をついばんだり、出来た実をつついたりしていた。
案内された家の中はやはりとても簡素で、新しい草や切り出したばかりのような木のいいにおいがした。
居間のたたまれた布団の上に、齢は3,4歳だろうか。幼い少女が眠っている。
土間には稲が山にして積まれていた。
老人はちょうどよい陶器の瓶を取り出すと、そこに玄米をころころとつめはじめた。
「そこにあるのは、今年とったものだが、去年の物がいい具合にかわいとる、これを持って行きなさい、また足りなくなったら乾かした分からここにつめてやろう。」
瓶一杯になった米を少し上から押し込めると、老人は手慣れた様子で入口に小さな紙をあて紐で栓をしぎゅっと結んだ。
「じいさんの食べる分は」
「今年の新米がある。あれだけありゃ充分じゃ。それによければ、またいずれこられる時すこしでいい、魚をわけてくれたらいい」
「ああ、こんなじゃない新鮮なやつを今からとって持ってきてやるよ」
「ほほほおーそりゃごちそうのつてじゃわい。まあ、茶でものんでけい」
老人は喜びながらお湯を沸かす為、居間の囲炉裏に火をつけ、茶瓶に蓄えていた水甕から水をそそぎ、火にかけた。そうして火のそばに腰掛けると、ロンにも火の近くに寄るよう促した。ロンは、遠慮なく居間に上がると、辺りを見回した。どうやらこの老人と布団の上に横になっている子供の他にはここに住んでいる者はいないような暮らしぶりだった。
「じいさん。一族の者と逃げたのか?他のもんは」
「仲間はみなもろとも白尾にやられたさ。散り散りに逃げはしたが、他のもんにはついぞ会えとらん。ここはわしのかか様の生家でな、長い事空家ではあったんじゃが」
ロンは子供を指して聞いた。
「それは」
「ん?…ああ、ここに入った時に傷を負った雄が抱えとった。雄は身体に毒がまわっとってしばらくして息を引き取った。親の代わりにこうして面倒を見とる。子供にはこういった魚や肉の類が大事じゃからの。ありがたやありがたやほほほ、」
老人はロンから受け取った魚の干物を鍋に入れてそれから一緒に野菜をたっぷり入れた。先にかけていた茶瓶から器に茶をそそぎロンに差し出した。あたたかい湯気が立ち上り、草のとてもいい香りがした。
「笹を燻した茶じゃ、毒消しにいい」
ロンは一口味見のように少し口に含んだ。鼻に抜けるような独特で爽快な香りと、臓腑にしみこむようなあたたかさだった。ロンは更に二口三口と続けて味わった。
「じいさん、名は。俺はロンだ」
「ロンか。わしゃキノじゃキノの爺と呼ばれておった」
到底悪事を企むことの出来るような老人ではない。優しい笑顔が物語っていた。
時が経つにつれ、ロンには自分が今いるおおよその位置がわかり始めていた。おそらくここは禁域と言われ恐れられているパルデノストの森だ。そして、毒川を越えたあの洞は、昔からこのあたりに言い伝えられていた神域の祠に違いなかった。
その為あの近辺には恵まれた自然があるかわりに、毒の川で結界をなされ、そこを越えて大きな肉食、草食獣や、欲望を象徴とする実の多い果実などが侵入することができなかったのだ。
ロンは考えていた。あの時、光につつまれた瞬間、トロが自らと共になぜ自分をあの地へ移したのか、トロの石にそれが関係しているのか、それはきっとトロ自身に聞いたとしてわかる事ではないのかもしれない。
ランドーリから逃れてきたというこの老人に、トロが顕在であることを話すべきかどうか。
毒の川までの森はいくら迷いの森とは言え、白尾の手がすでに及んでいてもおかしくない。ロンは慎重にならざるを得なかった。
ロンは出された茶を一適残らず飲み干すと、すくっと立ち上がり言った。
「キノのじいさん、うまい魚をとってきてやる」
それから、川で見事な鮎を三尾獲ると、約束通りキノの家まで届け、代わりに穀物の瓶を首にかけると、先程まで眠っていた少女がすっかり目を覚まし、老人の背に隠れていた。見慣れぬ成犬種であるロンの事をじっと見つめている。
おおよそはじめて見たような大きな身体に、その瞳はかすかに恐怖の色が滲んでいたが、それでも怖いだけでなく興味深いのか、ロンから目を離さずロンの動作を一つ一つ確かめるようにして眺めた。
瞳は薄い青色でどこか懐かしい面差しだ。
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