13 パルデノストの結界

翌日、そしてそのまた翌日。果物や、柔らかい芋を食べられるようになるにつれ、トロに体力が戻ってきた。しかし失語の方はなかなか治らなかった。

それでもふらふらと立ちあがり歩けるまでになったトロはその日も目が覚めロンがいない事にしめたと思った。


武器をみつけて、奴が油断したところをやろう。

そう思ったのだ。

自分の命さえ惜しまなければどんなことでも出来る気がした。


ふらりふらりと外に向かって歩き出す。久しぶりの強い外光に目がつぶれそうだ。

それでもしばらくするとようやく辺りの様子が鮮明にわかるようになってきた。

森はとても豊かな自然に満ちていた。洞を出てすぐに滝とその流れ出た水がたまっている川があり、その水音が、洞の中にまで響いているのがわかった。水はとてもきれいで冷たく、新鮮でおいしかった。

じいちゃんに石の刃の作り方は教わっている。ここならば固い石や木は豊富だしすぐに作る事が出来そうだ。とがった石もたくさんある。


絶対にしとめてやる…

じいちゃん、ミア……、ルーク…


そう唱えるようにしてしばらく歩いていたが、ロンがとってきた獲物も果物もあたりにはどこにもない。

それどころかリスいっぴきだって見あたらない。どんぐり程のちいさな木の実すら落ちてはいない。


しばらく歩いたところに見つけた大きな川にもロンが数日前に薪にくべていたような立派な魚どころか小魚すら見当たらなかった。しかし、この川を越えればもっと何かあるに違いない。トロは足先を川につけた。

つけた瞬間じゅうっと音がする程に足が焼けるような痛みが走った。思わず急いで足を川から出すが、左足は赤く腫れあがってしまった。

どうやら、この川には生き物は住めはしない。毒の川のようだ。


その時、対岸からざばざばと激しい水音が聞こえた。背中に雌鹿を担ぎロンが川をわたってきたのだ。

「…トロ」

渡りきり岸に力なく鹿を放ると、ロン自身も倒れこむように岸に上がった。

両足はすっかり黒くなってしまうほど痛めている。顔色も悪く息もあらかった。

「さすがに、やべえ…つかりすぎた」

ロンは力なく笑いながら、トロの首元をぐっと引き寄せた。

「!!ン…!?」

あまりの力強さに怖くなり、トロがびくりと身体を離そうとするとロンはまた更に力強く引き寄せた。

「うるせえじっとしてろ。すぐ、…すむ」

しばらくそうしていると、さきほどまで真っ黒だったロンの足がすっかり元通りになり、青ざめていた顔もいつものロンの飄々とした表情に戻った。


「あ……で(なんで)」

「お前は入るな、死ぬぞ」


あの食料を毎日、毎回この川を渡ってとっていたのだろうか。トロは思った。

ぐいっと引き上げられたが、自分の左足が赤く腫れているのをすっかり忘れていたトロは小さく悲鳴のような鳴き声を上げた。

「お前足つけたのか…来い」

「ン……」

強くひっぱられてもうまく歩く事ができないトロを、ロンが舌うちして自らの背におぶった。トロにとってそれはとても懐かしく感じた。


洞の近くまで戻り滝の真水でトロは足を、ロンは身体の水を洗いながした。

トロにとっては、久しぶりの水の感触がとても気持ちよかった。しばらく水の感触を楽しんでいた。

そこより下の流れでロンは鹿をさばき始めた。血抜きをする為、大量の血や臓腑が川を流れていく。トロは首を絞められ動かなくなったミアや、なによりロンの血液が目の前をつるつると滑るのを思い出した。

胃液がこみあげてきて吐き気が止まらなくなった。

ロンはトロの様子に気付くと、その手を止めかけよった。トロは息荒く、ロンを睨みあげると声にうまくできないもどかしさや、くやしさ、そして憎しみをどうしていいかわからず、近づいたロンに水を力一杯浴びせた。頭から水をかぶったロンは動じず、そのままそっと近づいて震えるトロの額あたりを優しくなでた。

びくりと眼をつぶったトロが恐る恐る眼を開けると、ロンの瞳が見たことのないほど悲しい色をしていた。

どうしてこんな顔をするんだろうと思った。

そしてそれはロンも同じだった。

自分が、トロの村の仲間を炎尋に突き落として殺し

好いた女を目の前で痛めつけ、トロを死の間際までつき落とした。心底身体まで傷つけた。どうせ、自分のものにならないならと思ったのだ。

ロンは今までそういう世界しか知り得なかった。

それがあたりまえだと思っていた。

自分がほしいものをさえぎっているものを壊す事になんの恐怖も感じなかった。


しかし、ロンは今はじめてそれを怖いと思っていた。

この感情は一体なんなのだろうと


「食えば元気になるぞ」

「……、」

「それだけ動けりゃ腹もすく。もう大丈夫だ」


トロにはロンが更にわからなくなった。

怖いのにやさしい、憎いのにさみしそう

こんなに強いのに、時にとても弱いところを見せて

仲間を殺して傷つけるのに、自分も、仲間を失って傷を負う。


「…オラ、足あらったなら洞帰ってろ、すぐ飯だ」

ロンはトロに背を向け作業を続けた。

しかし、トロはぜんぜん動く気配を見せなかった。それどころか少しずつ近づいている気配がする。

これは殺気なのだろうか、それとも…

ロンはどちらにしろ、ヘタクソだなと思いながら、

「…元気になったらちゃんと外に出してやるから、ヘンな事考えんな」

と背を向けたままトロに言った。自分でも可笑しい状況だった。あれだけ傷つけて、殺してやりたいと思われている相手に背を向けて、隙を作ってやるなど、なんの遊びだろうか。それでも、まったく襲いもあきらめもしない様子に少しずつロンは焦らされていった。ようやく小さくトロの声が聞こえた。

「ォ…ン…」

「ア?」

ロンが振り向くとトロはすでに泣いていた。

「ろ、ん」

しっかりと声が出ていた。しかも名を呼んでいる。しばらく、驚きでロン自身も言葉に詰まった。

「ロン、…んで」

「お前言葉…」

「な、んで、きらい…なのに」

言った傍から宝石みたいな涙がぽろぽろと毀れた。

「ころ、して、やりたい…ゆるさな」

「うん」

こんな時に、殺してやりたいなんて言われているのに、ロンの目に映るトロの涙はとても美しかった。情欲を掻き立てる泣き顔だった。

「なんで、憎、ませた…」

そう言ったトロの、隠し持っていた石刃を右手に握らせぐっと引きよせると、自分ののど元にあててロンは言った。

「ここなら、あるいはこの刃でも死ぬかもな」

当のトロは実際に自分の作った石刃がロンののど元に当たるのを目の当たりにすると、随分おびえているようだった。瞬時に顔の血の気が引きおろおろとただ眼を丸くするばかりだ。それでもロンはやめようとしない、その刃の丸い、かわいらしい石刃を投げ、代わりに鹿をさばいていた脇差を無理やりトロに握らせ自分の首に軽く当てると

「さすがにお前が殺すなら、お前の石も俺を助けないだろ」と言った。

トロは混乱して悲鳴のように高く声をあげながら、逃げるようにその脇差を離しロンから身を離した。

「殺したけりゃいつでも殺せよ」

脇差を拾うとロンは言った。本心だった。トロはしばらく息荒いまま、その場を動く事ができず、ロンがすっかり鹿をさばききってしまうまでそこに居続けた。



しばらくぶりに口にする鹿の肉は、とても美味しく感じた。

そのおかげでトロはすっかり元気になり、日中も良く動けるようになった。

鹿の肉は新鮮なものは数日で無くなり、食べきれなかったものは洞の出口近くに干した。

洞の入り口からはとてもいい風が通り、肉もよく乾いた。




「今度は魚だな」

トロはその言葉にぎくりとした。それはまたあの毒の川を渡るという事である。

トロはいつの間にか、ロンの身体の心配をし始めている自分に気付いた。

(こいつが死んだらなんだ。むしろ好都合じゃないか…)

思いなおし、ロンが川を越えて行ってしまってからも、その暇な時間を

飛んでいる蝶々を追ってみたり、滝で果物を洗ったりして過ごした。それでもやはり夕方ロンが帰ってくる頃にはどうしても気になり、結局川岸まで様子を見に行ってしまっていた。

ロンが対岸に現れ、ザバザバと川を渡り始める。どうやら木の実と魚を担いでいる。

見つけた反射でトロは少し尾が揺れてしまうが、ハッと気付いてそれを自ら制した。

(違う違う!)

ロンも、川の途中でトロが待っているのを見つけると、そこから足を早めた。

(早く触りてえ。毒川しんどい)


ようやく渡りきると、トロは不用意に近づいてはこないが、距離を保ったまま不安げにロンの様子をうかがってくる。

ロンもがっつり倒れこみたいけどトロに毒の水をつけるわけにいかず、近くにいるだけでも少し楽になる事を理由に、洞の近くで身体を流すのを先決にした。


ロンが滝で身体の水をすっかり流している間、トロはロンがとってきた果物をさっそく洗っている。あまりに健気な様子と、それから身体も限界なのでトロを引き寄せるようなるべく優しく呼んだ。

「トロ」

「うん?」

呼ばれたトロは耳を少し倒し、まだおびえた様子で顔を上げた。それをロンは手招きだけで近寄らせようとする。

「な、んで」

「動けねえ」

「…そ、そんなに、つらい、?」

心配そうにこわごわ近づいてきたトロを、ぐいと滝の中に引きずり込む。

「ふぎゃ!!」

すっかり濡れてしまった。ぶるぶると耳の水をおとしてびっくりするトロがあまりにも可愛かった。

「だはははは」

「くそなんだよ、人が、心配して」

赤くなって怒りだすトロをすかさずぎゅっと抱き寄せる。すると、いつものように、傷が快復してくる。

3年前粗野村で味わったあの甘い感覚が、もう今は全身を駆け巡るようだった。

ロンはあまりの心地よさに大きく深い息をついた。

トロからは強く抱きしめられて苦しげな声は聞こえるものの、こうして乱暴に抱き寄せても、もうしびれを感じる事はなくなっていた。それどころか、甘美なまでに心地よい癒しの波動が体中に行きわたるのがまるで悦楽の快感のようだ。

「…も、いいだろ」

「ダーメだ」

ロンは快復しきってからも、しばらくそうしてトロを抱きしめた。


焚火のほとりに濡れてしまった服を乾かして、食後ゆっくりと、トロは膝をかかえ、薪が焼けていくのをじっと見ていた。

かけた器の中には小魚が泳いでいた。

ロンはひじをつき横になったまま、薪の火とその様子を交互に、しばらく飽きもせず眺めていた。

ぱちぱちと、木の爆ぜる音しか聞こえてこない。

ふと気付くとトロは座ったままうとうと今にも眠りそうだ。

ロンは起き上がると、トロを抱えわらの布団に寝かせてやる。

鹿の毛皮布団をかけ、またトロの顔を確かめるが起きる様子はない。

そっと、その灰桃色に変わった髪の毛をなでてやると、トロは小さく伸びまたかすかな寝息を立て始めた。

腕をその場につきしばらくその寝顔を眺めた。柔らかそうな頬に触れると、それは想像通りとても柔らかく、そしてつるりと手なじみのよいなめらかさだった。

親指で唇に触れるとさらにしっとりとやわらかい。

さすがにトロは眼を開け、ロンを寝ぼけまなこで見上げてくる。

「ロ…」

舌の足らぬ甘い声で名前をかすかに呼ばれ、我慢できずロンはトロに口を合わせた。

寝ぼけているとはわかっていた。でも、それでもトロは順応にロンの呼吸に応えはじめているように感じられた。その証拠にあの甘い感覚が、ロンの喉奥を刺激していたのだ。

「は、…ハ」

従順なトロの様子に、ロンは勢いを増したが、あまり乱暴に屠ったので、トロの目が完全に覚めてしまった。

「や…」

くすぐったいくらいのささやかな抗い方だった。それでもロンはトロから身を離し、洞を後にして滝で水浴びをした。


(あれだけムリヤリやっといて今更なんだ、あんなよわよわしい抵抗で

くそ、これも石のせいか?

違うよな。こんなのあの頃と同じだ。

またあの頃に逆戻りか、

だけど、あったかい。この気持ちは何なんだ、

トロにだけ感じる

大事にしたい

それだけじゃない幸せにしてやりたい。もっと優しい笑顔が見たい)


ロンは戸惑っていた。

しばらく夜風の中で静かに風を受け身体を乾した。

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