12 パルデノストの神域
先に眼を醒ましたのはロンだった。
暖かい日差しがやわらかく身体を包みこんでいる。目を開けると一瞬まぶしすぎて辺りの状況が確かめられない程だ。
水音が近く、横たわっているのは固く平らで大きな岩の上のようだ。しかし岩は陽の光で良く熱されていてとても心地よい。
そして今はもう身体に痛みは感じられない。そこまで思った所で、ロンはハッとして自分の胸元を確かめた。
スーラに刀で突き刺されたはずだが、着物が破れているだけで胸の傷はあとかたもなく消えていた。
鳥のさえずりが近くで響いた。一体何が起こってこうなったのか、ロンにはまったく見当もつかなかった。
抱え込むように腕の中でトロが眠っている。あまりに大人しく、そして青ざめた顔をしているので、そっと吐息を確かめるとかすかだが息がロンの耳にふきあたった。
明るい陽光の中で久しぶりにしっかりと
あの日、自分と離れてから一体どんな事があっただろう。
どう生きてきたのだろう。
しかし、そんな事はもうどうでもいい。
ロンはトロを思い切り優しく抱きしめるとそのほの懐かしい香りを思い切り吸い込んだ。
ぴたりと鼻の頭に冷たい感覚があり、トロは目を覚ました。しかし、覚めたと思って眼を開けても辺りは真っ暗なままだった。不安になり、動こうとしてもどうやら腕は腰のあたりで何かに固定されていてうまく動けない。
次第に目が慣れていき、どうやら自然に出来た洞の中にいるようだということだけはわかった。たまに天井から冷たい水が滴り落ちてくる。
そうしている内に足音が近づいてきた。
「目が覚めたか」
「……あ、う…」
暗闇の中で、覗き込んだ顔はあのロンで、トロは叫びたいのにうまく声がでない。正確に言うと声は出るのだが、まったく言葉が出てこなくなってしまっていた。
身体が熱くなり、悔しくて、どうしようもなく唇をかんだ。
「俺が憎いか…殺してえって面だな」
力を込めてかみしめるので唇に血がにじむ。それでもトロはずっとロンを睨み続けた。
ロンがその頭をがっしりと掴むとトロは、またあのような恐ろしい事をされると思うのか恐怖と怒りでガタガタと震えた。
ロンは遠慮なしに、トロのかみしめて滲んだ口横の血を自分の口に含むとすっかり舐めとってしまった。
思い切り舌を噛もうとするトロの頬をすかさずロンは片手ではたき、それから麻布のようなもので轡をつくり、トロに噛ませた。
「…お前にそんな自由があるとおもうのか。これからの生きる道も死も、お前に選択権などない」
「う、ううう…」
トロは静かに泣いた。ロンはその様子から眼をそむけるように背を向けたちあがり、またトロから離れて行ってしまった。
動こうとしてもうまく身動きがとれない。後ろ手は縛られてそれが遠くどこかに縛られている。引っ張っても動く気配がないからよほどしっかりと屹立しているものか、岩自体にくくりつけられているのだろう。
トロは朦朧と混乱した意識の中でただただ強く思っていた。
(なんでだ…ここどこなんだ…俺はどうなる…
殺してやりたい…
目の前にいたのに…
俺はここで殺されるのか?)
しばらく気を失うように記憶がばさりと切れたりそして、目を覚ましたりを繰り返している内に、また足音が近づき、トロの横たわった顔の近くに魚とよく成長した木の実がごろごろと転がってきた。
それからロンは手にしていた泰松にともした火で、近くに薪を作っている。
おぼろげな視界でとらえたロンの腕と服が濡れていた。洞をでた近くに川でもあるのだろうか。トロは思った。
魚はどれも立派で、とれたてなのかまだびちびちと眼前ではねている。
それを木の枝に器用に差し込み、ロンは一匹一匹薪の近くにくべた。
ぱちぱちと木のはぜる音の他は、かすかに遠く水のせせらぎや木々のざわめきが聞こえるだけで何もきこえない。
ロンも今度は不用意にしゃべったりしなかった。
ただ木が燃えていく様と魚の息が絶え、焼けていく頃会いを見計らっているだけだった。
背を向けていたロンが、ひとつ焼けた魚をもったまま振り向いてトロの口元の床に刺した
ほんわりとあたたかい湯気が香ばしい。そのままロンはトロの轡を外してやると言った。
「食え」
トロは食べる気になれなかった。そもそも恐怖で胃腸がまったく動かない。
しばらくするとすっかり魚は冷えてしまい、あれほどまでにかぐわしかった香りも今はさほどしなくなってしまった。
「なんだ、魚食いたくないのか」
ロンはそう言うとじっとトロの様子を確かめているようだった。
トロは、どうして急にこんな優しい顔なんかするんだろう…全てを忘れろとでもいうつもりなんだろうか、と思った。
しかし当然トロにそんな事が出来るはずがなかった。
無残に殺された仲間を、
痛めつけられた友達を、
そして何より身体が恐怖を覚えている。
憎しみ、怒り、忘れることなど出来るわけがなかった。
「次は
トロが食べる事のできなかった魚をなれた手つきで麻縄につなげてつるすと、ロンは薪を挟んで向かいにごろりと横になった。
翌朝トロが目を覚ますと目の前にいたロンはすでに姿がなく、薪の火も消えていた。
昨夜にはわからなかったが足元しばらく先から光が差し込んでいる。この繋がれた状態からは正確には計り知れないが、少し歩けばたどりつけそうな距離だ。
あいかわらず辺りは暗いが、遠いながらもまばゆい外光でいくらか様子がみわたせた。
後ろ手の縄はすぐ近くの岩に強くくくりつけられているようだった。
思っていたよりも天井は高くそこからほんのときどきぽつりと水滴がおちてくる。
身体がとても重い少し熱を持っているかもしれない。
ひんやりとした固い岩の上になにかしかれた上で横になっているのだが、
岩の冷たさがここちよかった。
しばらくして足音が聞こえた、音の方に目を向けるとロンが頭をふりながら水滴をおとしてこちらにむかってくる。逆光で水滴はキラキラと宝石のように輝いた。
行水でもしてきたのか、手に獲物を持っている様子はなかった。
ロンはトロの近くまで来るとトロのおでこに触れ熱を確かめた。
ロンの濡れた手はとても冷たかった。
あまりの冷たさにトロはびくりと身体をゆらし、おびえた様子で目線を上げると、ロンとしっかりと眼が合った。
「苦しいか」
ロンは腰から脇差を抜いてトロの後ろ手を縛っていた縄を切り、どこから持ってきたのか真新しい藁草をしいてそこにそっとトロを抱き上げ横に寝かせた。それから自分はまた外に出て行ってしまった。
拘束を解かれ自由になった身体でトロは外に向かう事も出来たが、身体が重くて全く動けず
しばらくして気を失うように眠ってしまった。
わらの布団はとてもいい香りで、ここちよかった。
目が覚めるとまたぱちぱちと目の前で火が焚かれていて、今度はこんがりと鳥の肉がくべてある。
ロンが言っていた通りに
数日間大したものは食べていなかったから胃液だけがつるつるとこぼれおちた。
トロは、殺される前に、このまま飢えて乾いて死ぬのだろうか…?と虚ろな頭で思った。
情けなくて涙がとまらなくなった。
汚れた辺りをロンは何も言わずきれいにしてしまったあとは、トロの意識がまた曖昧になり、そして泥の沼に落ち込むように眠りの中に滑り込んでいった。
目覚めるとまた朝になっていた。あれから何日経ったのか。
トロにはすでに日にちが経っているのか経っていないのかすらわからくなっていたが、とにかくまた陽がのぼり、洞にも光が差し込んでいた。
ごろごろと目の前に果物がころがってきた。
朦朧とする視界に無造作になげこまれたそれはもぎとられた幹からすでに新鮮な果汁をしたたらせていた。とてもいい香りがする。
ロンが視界にはいってトロの眼前に胡坐をかき
脇差で果物を切りムリヤリトロの口に差し込む。
すっぱい。
目の覚めるような刺激の果汁が口に流れ込む、だけど果肉を食むことはできなかった。
「またそうして俺から逃れる算段か」
ロンが言った。
「それともお前こうしてほしくてわざとなのか?」
口に木の実を含むと、ロンはそのままトロと口を合わせた。
苦しくて、覆いかぶさっているロンの胸元をトロは力なく叩いた。その腕をとってロンはもっと深く屠った。
行き場がなく飲みこんだトロは反動で強くロンの舌に噛みついてしまった。
「ッ……」
ロンは乱暴に血を吐きだすと、トロの様子を眺めた。
「は、…はー…」
「急に元気になりやがる。その調子だガキ」
「ん、……ふうウ…」
「“殺してやる”だろ?はやく殺してみろよそんななりでできるならな」
そう言うとロンは噛みつかれた舌をたいして気にする事もなく、洞を後にした。
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