5 頂きの城跡

ロンは部屋から理由も告げず出ようとするトロの行く手を阻む為腕組みで眼前に立った。

「どこに行く気だ?」

「関係ない」

この数日ですっかり元気になったトロは、ロンの隙をつき廊下に走り出たが、数匹の仲間達が軒下にある井戸の水で水浴びをしていたので、びくりと身体をゆらして立ち止まった。

「とろちゃんとろちゃん」

「とろちゃんだ~」

順番を待っていた仲間達も集まってくる。身体も大きく、むさくるしい半裸の雄が勢いよくわらわらと寄ってきたので、驚いたトロは思わずロンの背に隠れた。

「出といで?お兄ちゃんが身体を洗ってあげるよ~」

頭から水をかぶっていたタロウが濡れた手を伸ばすと、トロがおびえた高い声で鳴いたのでロンは反射で集まってきた仲間に喉を鳴らして威嚇した。

一瞬ではあったが、あまりに本気の威嚇だったのでヒッ!と悲鳴を上げのけぞる仲間もいた。タロウも少し身を引きながら笑った。

「じょ、冗談じゃん~俺らに威嚇すんなよ~ロン」

「ふん」

自分の背に隠れたトロの首根っこを掴むと乱暴に部屋に入れた。そうされたトロは小さく呻りながらもどうしようもなく、様子をのぞきにきた仲間達に怯えるようにまたロンの背に隠れ、そこからしばらく出てこようとはしなかった。

どうやら、気をはっていただけで、相当の甘やかされ方をしている。ロンは背を貸しながら思った。


夜になるとトロは相変わらず、村を想って泣く日々が続いていた。

ルークや長老のハルオンは無事だろうか。

無事ならばなぜ助けにこないのだろうか。

最悪の事ばかり思い浮かんでしまう。堪え切れず漏れ出た声にロンが眼を覚まし、じっと言葉もなく見つめていた。トロはそれに気付くと自分の涙を見られぬように自らの腕ですっぽりと顔を覆ったが、それはロンに簡単に引きはがされてしまった。バカにされるに違いないと思ったトロは上半身を起こそうとしたが、その腕をロンに引っ張られ、ばたりとまた布団に引き戻された。

トロは低く呻ったが、そんなトロの頬に流れる涙をロンはぺろりと舐めた。あまりに予想外の感触にトロは呆然とロンの顔を見て様子をうかがったが、また続けてぺろりぺろりと頬の涙を吸われると更にどうしていいかわからなくなった。涙がすっかり乾いてしまうと、ロンはゆっくりとトロの肩をトントンとなだめるようにたたき始めた。からかわれるとばかりおもっていたトロは、おびえたように耳を倒し、尾を足の間に挟んだまま、じっとロンの眠たげに閉じた瞳やその造作をうかがっていた。

そんな夜がまた2、3日続いた。



「結局ロンに懐いちまったな」

照りつける夏の晴天の日差しを木陰でよけながら、いつものように庭で暇を持て余していたタロウが、ロンの部屋の中の様子を眺めてぼんやりと言った。

暑いので開け放した部屋の中では、わざわざロンがトロの口まで食べ物を運んでやっている。

「結局ヤったモン勝ちってか」

サクも退屈そうに背を伸ばしながら言うと、タロウがサクの方に勢いよく振り向いた。

「それが純愛してやがんの・・・信じられねえ事によ」

「まじか」

庭を通りがかった仲間達にもその様子は特異に映った。あのロンが、まるで子供に餌を与える母親のようだ。

「なんかあいつら変な」

「ああ、なんじゃありゃ」

あくびをしながら頬に手をついて、けだるそうにではあるのだが、ロンはトロがしっかり租借したのを見計らって、食べ物を口に運んでいる。トロの方も相変わらず警戒している様子ではあったが、その灰色でふさふさの尻尾がかすかに揺れていた。


昼食を食べ終わると、ただただ熱くてけだるい退屈な時間が訪れる。いつものロンならば、平地の街に下りるかここより幾許か涼しい川のほとりまで行くのだが、今はそうはせず、ごろりと横になりトロを眺めた。最初こそ、警戒しての行動だとばかり思っていたが、どうやらトロは食べ物すら自分で食べる事を知らない。自分で服を着替える事さえ手間取る様子だった。

これまで一体どうやって過ごしてきたのだろう。

ロンはじっとりと汗ばんできた半身を勢いよく起すと、隣に同じようにごろりと横たわっていたトロに尋ねた。

「里ではいつも何をしてた」

トロはロンの方を向いたがまだ警戒しているような目つきで、黙ったまま自分も半身をゆっくり起し少し思案顔になった。

「家に閉じこもってたわけじゃないだろ」

黙ったままのトロに応えを促すと、トロは俯いたまま小さく応えた。

「村中を、探索したり…抜け道を見つけたりしてた」

おおよそまともな言葉を聞いたのは初めてかもしれない。ロンはさとられないようにだが、心の中で驚愕していた。それほどまでに、あまりにも自然と言葉を交わす事ができた。


「行こうぜ」

ロンは立ち上がるとトロを軽々と抱えた。トロはわっと驚いて声をあげたが、それでももう抵抗はしなかった。しばらく背に人を乗せていない仲間達共有の馬を、中でも聞きわけのよさそうなものを選んで一匹厩舎から出し、一度試しにロンだけ背にまたがると二、三回小さくその場で小回りをさせた。どうやら馬も機嫌よく背に乗せてくれそうなのを確認すると、ロンは一度降りて、先にトロを持ち上げ馬の背に乗せ、それから自分も跨り手綱をとると思い切りぐっと勢いよく加速させた。しばらく思い切り走らせていなかった馬は喜んだように速度を上げた。なだらかではあるものの、けして平坦ではない山道をおもいきりの速度で駆けあがるので、激しく揺さぶられ恐ろしいのか、トロはロンの胴辺りにギュッと力いっぱいにしがみついていた。


山を上りきると、一番眺めよい頂きに辿り着いた。馬を降り城の土台だけが残る何もないその頂は、屋敷や、まして平地であるランドーリの村では感じられぬとても強く心地よい風が吹いていた。

「すごい」

トロが思わず一言こぼした。それからロンを見上げて嬉しそうに言った。

「…風」

ふだんなにげない時のトロを垣間見た様な気がして、ロンは鼓動から胸の固まった何かがじわりと融解していくような心地になっていた。

そのような感覚はもちろん初めてで、自分自身ですら半分どうしたらよいのかわからず、平生を保つためにもいつもの風景を眺めながら風を受けた。

トロが満足するまで、しばらくここにいたいと思った。


しかし街並みが見渡せる崖の際までたどり着くと、トロの表情は一変した。

焼け焦げたランドーリの村の全貌がそこからはしっかりと見えたのだ。呆然と立ち尽くしたまま、トロの背はかすかに震えているようだった。ロンはその場に腰掛けじっとトロがその現実を受け止められるのを待った。もちろんその風景はトロにとって、すぐに受け止められる事実ではなかった。

ふと、木や草などがこすれるような音がして2匹がその方へ目をやると、木陰に成犬種が身体を重ね合わせているのが垣間見えた。屋敷よりも風が通り、人気のすくないここは仲間達の格好の逢引き場所でもあったのだ。

雌の息苦しいような吐息が漏れ聞こえ始めると、トロは我慢できず立ちあがり今にも走り逃げだしそうになったので、ロンはぐっとその腕を掴んだ。

「待て、どこにいく」

「触るな!離せ!!」

その剣幕に座っていられず、ロンは立ち上がりトロをなだめる為抱き上げた。

トントンと後ろから背をたたき落ち着かせようとするのだが、それでもトロは大きく暴れ、がぶりとロンの首元に噛みついた。幼い牙はまだ皮膚を噛みちぎるところまでは行かなかったが、思い切り力一杯噛みつかれて多少の血が流れた。

ロンの首筋に鮮血が毀れるのをみて動揺したのか、トロは暴れるのをやめ、それでもどうしたらいいかわからずじっとうつむいてとうとう泣きそうになってしまった。

ロンは特別痛みを感じていなかった。

「嫌なら耳を閉じていろよなんなら目もとじろ」

トロの頭の中で、身体を合わせるその二匹と、ロンに押さえつけられたリイカが重なっていた。悔しいのとリイカや村の者たちの身を案ずる気持ちで今にも心が壊れそうだった。

「お前ら皆汚い、伴侶関わらず己の生存本能のままに生きるなんて下賎だ!!死んでしまえ!!」

そう言い放つと、トロは低く呻った。ロンは何も言わず、その代り、抱えていたのをそのまま地面に下ろし立たせると、片方の手をトロの耳にあてふさぎ、もう片方の手は暴れないようしっかり腰をおさえ、トロを抱え込むように後方に倒れて胡坐をかいた。


トロの背中と耳元にあてられた大きな手は暖かく、ゆったりとした鼓動がトロに伝わるほど強く響いてくる。

酷い言葉を使ってしまった事に小さな心はすでに後悔が滲みはじめていた。

ロンがこれまでのように、乱暴な言葉で反論しない事も、トロをさらに自省させた。

自分が不甲斐なく、そしてどうしようもないほどに全てが悲しかった。

力が足りぬ事も、一人では何も出来ぬ事も、恐ろしい白尾の追手も、故郷も、なにもかもが今のトロにはどうする事もできない。

そんな自分が、怒りにまかせ、人を傷つけることしかできなくなってしまったように思えて、トロは俯いてもう堪え切れぬ涙をぽたぽたとこぼした。


「夜が怖いか?」

しばらく言葉を発さずにいたロンが口をひらいた。

トロにだけ聞こえるような、それもロンが出来るだけ、知りうる限り優しい声色を選び慎重に尋ねるので、トロの心はさらに混乱した。

「なんでもするから、元気をだせ」


それからロンは指で指示しながら、この頂きから見える街の事をひとつひとつおしえてやった。

少なからずだがランドーリに唯一交流があるはずの歓楽街グラノドール、そしてその奥に流れる川向かいには、どれも小規模ではあるが賑やかそうな街並みが複数広がっているように見えた。ロンはそれらが商いで栄えた街並みである事をトロに教えた。

正面にはランドーリにいた時にもなじみ深かったパルデノストの深く広大な森があり、その奥には頑強な要塞と石壁にかこまれたような軍都がかすかに確認できる。


「もっといろんなものを見て気を紛らわせろ。世界はランドーリだけじゃない。自由に行きたい場所にいって自分が生きたいように」

風が吹いた。その頃にはトロの身体の力みは、ストンと落ちていた。それどころか、脱力しきって力が入らない状態だ。今はもうすっかりロンに体重を預ける形になっていた。

「ここに来る度何度も、自分の小ささを思い知らされる。自分の身を守る為には傷つける事もある。さらに勢力を広げたいならなおさら、痛みや欠損を伴って当然だ。生まれてからずっとそうやって生きてきた。ランドーリからすればそりゃ俺達はサイアクだろうな」

その言葉に、トロに対する蔑みも、ましてや自らを卑下する卑屈さも全く感じられない。静かに聞いていたトロがそっとロンの方を振り向いた。

トロは落ち込んだように耳を下げ、その後悔に滲んだ瞳でなにか言いたげにしている。ロンからすれば、信じられぬほどにトロは素直で純粋な環境に生れ育てられたようだ。ロンは平生の様子を保ちながらも、やはり務めて優しく言った。

「早いところ大人になれ、とらわれるな、雄でも雌でもいい」


いつの間にか、草陰に隠れていた二匹も姿を消していた。すっと心地のよい風が今は静かにトロの耳を揺らし、ロンの耳も揺らしていった。

先程噛みついたところから流れた血が、ロンの服えりをかすかに濡らしていた。血の量は少なくもう止まっていたがトロは耳を倒して小さくくうくうと悲しげな声を上げた。

初めて血が出ている事に気付いたロンは首を手で拭うと多少うつった血を見て何のことはない様子で立ちあがり、手を引いてトロも立たせた。

「夕餉だ、帰ろう」

手のひらが温かい、見上げてくるトロの目は自分がロンを傷つけた後悔で潤んでいる。ほんのかすかだが、繋いだ手からじんわりあの甘い感覚に似た心地が伝わってくる気がした。そういえば、今日はあのしびれを一度も感じていない。それでも、ロンはいつもやっているように強引な手管でトロに手を出すような気持ちにならなかった。


それどころか、生まれてこの方出会った事のないその純粋さに愛しさが募った。

こんなにもあたたかな愛情を、今まで抱き合った雌はもちろん記憶にすらのこらぬ家族や、共に生まれ育った仲間達にすら抱いた事のないロンは、到底知り得なかったのだ。



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