2 ランドーリのトロ

ランドーリの関所は正確には二つある。

三角に近い地形を、北側は切り立った山肌に守られ、東側は深い谷、南から西に長く流れの早い川が囲んでおり、ほぼその二つの関所以外から外に出る事も中に入る事も不可能とされていた。

一つは東側、谷にかかる木の橋。これはグラノドールにつながっている。村人の出入りに使用され、大概余所から人は入る事が出来ず、行商など入る際にはとても厳しい検閲が行われた。

そしてもう一つは南側、これは非常時にしか使用できず、そして限られたものにしか知らされていない秘密の橋だった。渡ると“パルデノスト”というとても広く深い森につながっている。古より結界の森と言われるほど磁気が狂いやすく、一度迷うと二度と出ては来られないと言い伝えのある森だ。

こうした土地の利もあり、ランドーリは百年近く戦と無縁であった。ゆえに閉鎖的ではあるが、村人は皆穏やかでいさかいや争い事は少なく、平穏な日々を送っていた。


この村の長の第一長子には、この隔離された村の中でさえ公にできぬ秘密があった。それはひとつに、半月はにわりの性であること。

しかし、それだけではなかった。


ランドーリ村第一長子であるトロは、先日10歳の誕生日を迎えたが、まだ遊び足りぬ子供で、自分が半月であるという事もまだまったく理解が出来なかった。

半月は14歳までに性別を固定すると長生きをする事ができるという伝聞があり、この度婚姻を結ぶ運びになったのだ。

それでももちろん早すぎる。しかしこれにはどうしても急ぐべき理由があったのだ。


長老の一人のハルオンはこの村一番の賢者で、この婚姻を強く勧めた一人だ。

この一年前、外遊に出ていたトロの父親であるランドーリ村の長が突然亡くなり、幼いトロの代わりにこの村の一切を治め指導してきたが、ハルオンは自らの身体の衰えを感じていた。

祖の忘れ形見である、この幼い少年を護る為には、今はなんと言われようとも無理にでも婚姻を結ぶ必要があったのだった。

しかし、当の本人はすっかりへそを曲げている。自らの性を半月と知っていたとはいえ10年雄として育ったのだ。それに対して、突然今日から雌として生きろと言われて納得のいくはずはない。

「トロや、どうしたというんじゃ。優しく強い雄だ。何も心配いらん」

「じいちゃんにも小さい頃から言ってただろ。俺雄になりたいんだもん。じいちゃんだって幼馴染みのリイカを嫁にくれるって言ってたじゃないか」

さきほどまでいやだいやだと家中を暴れまわっていたトロは、もうすこしで溢れだしそうなほどたくさんの涙を目にためてじっとうつむいたまま言った。

それがどうしてなのか理解はできなくても、今まで大切に育ててくれた長老のハルオンが自分の事を思って決めたに違いないというのは分かっていたから、なおさら涙があふれる。それでも突然の裏切りのような行為に沸き立つ腹立たしさや哀しさをどこへ向ければいいかわからなかったのだ。

「リイカはもう青年師団長でもあるパールの嫁じゃ。トロや、適齢期というものは逃してはならん」

トロは俯いたまま黙りこくってしまった。その様子に小さくハルオンが溜息を漏らしたその時、勢いのある足音が門扉に近づき、その音の主が戸を潜った。

「おお噂をすればルークじゃぞ」

「長老ここにおられたのですか。トロ!どうした」

トロの目はもう涙で滲み、戸をくぐってきたルークという青年の顔もすっかりにじんでしまっていた。

それでもルークをにらんでふーっと尻尾を膨らまして威嚇するようにして見せるのは、トロのせめてもの意地だった。


長を護る青年師団総長の息子であるルークはいわば、トロの幼馴染だ。

トロから10年先に生まれて、それからずっとトロの傍についていた兄のような存在の成犬種で、育ちのよい物腰と身なりは、若いながらに、長老達からも信頼は厚い。

瞳は青く、金色のさらりとした毛並みを持ち、健康的な身体つきのとてもすがすがしい青年だ。

ルークはトロに目線を合わせるように背を屈めるといつもしてやるように手をトロの頭にのせた。

「怒ってるのか」

「なんで、おれなんだよ。ルークのバカ野郎」

怒りを受け止めてくれるようないつもの優しい声と温度に思わずいままで我慢していた涙があふれてしまう。それが恥ずかしくて、トロはたまらず憎まれ口をたたいた。それだけでも足らず、ハッと思いついたように涙を拭うと立ち上がり戸口の方に走り出した。

「トロどこ行くんだ!」

「ルークごめんっ俺お前の嫁にはならないよ」

「トロ!」


雄であることを自分で証明できれば…

そう考えたトロは村を走ってリイカが嫁いだ青年師団長パールの家に向かった。

いつも隅から隅まで駆けまわっている村の道だ。トロに知らない家などなかったのだ。

抜け道や近道、大人には入れない道。ルークや長老のハルオンは目的の場所がわからなければ、探すのに手を焼くだろう。丁度日が陰り人を巻くのには好都合だ。それからほどなくしてトロはパールの家にたどり付いた。


「リイカ!…リイカ!!」

家が見えた辺りから大きく尋ねるが返答はない。玄関の戸は小さくあいているが、家の中はしんと静かだった。

もう日は暮れている。夕飯時に家を留守にするなどという事があるだろうか。薄暗闇の中そっと扉をあけ、そこに足を踏み入れると、足先に何かが当たった。ハッとしてそれを確かめたトロの目に、大きな成犬種が倒れているのがぼんやりと写った。

どくりと鼓動が早まり、一瞬たじろいで後ずさったが、混乱する視界の中でトロは倒れた成犬種の背に青年師団の印を見つけた。どうやらこれはリイカの夫のパールに違いなかった。部屋の中が暗いのとかすかに漂う血の匂いで、トロは全身の毛を逆立てながら、戸をくぐり必死にパールの身体をゆすった。どうやら気を失っているだけだが、強くゆさぶっても全く起きる気配がない。

「起きて!!起きてくれ!!」


ふすまを隔てた奥の間で物音がして、トロは身体を硬直させた。ルークを呼ぼうか、いや、だけどそれだけはダメだ。恐怖で身体は思うように動かない。しかしトロは思い切りの勇気で奥の間のふすまを開いた。

暗闇に慣れ始めた目が、リイカの美しい水色の瞳と長い髪がきらりと光るのをとらえた。しかしその前には、見たことのない真っ黒な毛並みの大きな成犬種の背がリイカの姿を遮っていた。


「何者だ!リイカを離せ!!」

やっとの事で叫んだが、トロの声は恐怖で上ずった。それに黒い影の様な塊は小さくくつくつと笑うと、「なんだガキ遊びたいのか」とぞっとする程冷たく低い声で応えた。

暗闇に溶け込んだような黒い塊がするりとリイカの身体を離れると、リイカが力なくその場に倒れこんだのが見える。リイカのもとに走る間に闇から長い腕が伸びてトロの腰をつかんだ。

ぐいっと持ち上げられてすっかり自由を奪われると、トロの鼻腔をまったく知らない香りがつきぬけていった。けして強い香りというわけではない。まして、腐臭でも悪臭でもない。しかしそれは脳髄を焼くような、トロには今まで嗅いだ事のない匂いだった。その頃には恐怖がじりじりと身体を硬直させていたが、このままでは殺されると思うと不思議と身体は反応した。


「離せ!!」

自分を抱えていた腕に強く噛みつくとその黒い成犬種は舌打ちをしてトロを地面に投げつけた。強く放られ、わずかに打ちつけた背が痛んだが、それを感慨している場合ではない。

すぐに体勢を整えその姿を見上げると、もうのぼりかけていた満月のかすかな明かりに照らされて闇からその表情が少しだけ映し出されていた。

鋭い瞳まで黒く、そのせいで肌が陶器のように見えた。大きな耳が、ピンと正面を向き、イライラとした様子で尾が揺れているのが見える。

と、そこまでを確認したところで首を強くつかまれ、トロはその場にぐっと持ち上げられた。

急速に息ができなくなるのを必死にもがきながら逃れようとするのに、その手は全く微動だにせず、それどころか更に力を込めてくる。

「お前をさきにヤってやろうかクソガキ」

手加減をするどころかどこか楽しんでいるのか、怒りと悔しさで涙があふれる。

「ルークに、ぶっ殺されちまえっ」

「その前にお前をぶっ殺してやるよ」

「おやめくださいっ…トルーイ様には手を出さないで!」

弱弱しくはあるが、つんざくような力一杯の声でリイカが叫んだ。それに反応してトロの首をつかんでいた手がふとゆるんだ。

「トルーイ……なるほど、お前か」

がつりとまた地面に放りなげられ、今度は少し衰弱した身体が、起き上がるのを遅らせた。そのせいで前髪をぐいと引きあげられ今度はトロ自身の顔がすっかり明るい満月に照らし出される。

「殺して、やる」

トロはやっとで一言発した。

「おもしれえ、やってみろ」

黒い塊はそう言うと、次の瞬間トロの腹に強い衝撃が走り、トロはそのまま意識を失った。

リイカの悲鳴から間もなく、長老ハルオンとルークはパールの家にたどり着いた。

しかしそこにはすでにトロと黒い影の姿はなく、残されていたのは倒れたままのパールと泣き崩れているリイカだけだった。ルークがリイカの身を起し事の顛末を尋ねると、リイカは弱弱しい呼吸を必死で整えながら、ほぼ泣き声の様に上ずりながらも必死に答えた。

「見知らぬ雄が旦那様を…それから、…トルーイ様をつれて」

「何だと」

「ルークよ、関所に急ぐのじゃ。まだ遠くまでは行っておらぬ」

ルークは、騒ぎを聞きつけた青年師団の兵達にリイカとパールを任せ、自らは長老のハルオンを背負い村の東にある関所に急いだ。

急ぎ関所に向かう道で、青年師団の兄貴分であるリグにルークは呼び止められた。

「粗野村のロンが入ってきている」

「粗野村の!?ではトロはそいつに」

「あいつはやっかいだぞ、お前も油断するな。出来る限りの人数を集めて向かう。お前はひとまず東の関所で足止めを…」

そう言っているリグの背の更に向こうから、橙色の咆哮が煌々と光を放っていた。そこから黒煙が次から次へと膨らんでゆく。

ルークの背から長老が首を上げた。

「なんじゃあの黒煙は…」

物見やぐらから半鐘の音が鳴り響く。

「とにかく、お前はハル様を連れ関所へ急げ」

リグはそう言いながらルークの肩を力強く押し、自分はその煙の方へ歩を進めて行った。ルークはその光景に激しい胸騒ぎを覚えながらも東の関所に向けて急いだ。

ルークが関所に辿り着いた時、トロを抱えたロンは橋の丁度中腹を渡っている所だった。

「待て!!」

ルークが携えていた矢をその足元に放つと、ロンはようやくゆっくりと振り向いた。ルークの背から降りた長老は息荒くではあるが、怒りを湛えた険しい表情で尋ねた。

「トロをどうする気じゃ」

「知れた事だ。持ち帰って雌にする」

ルークは更に矢を番え構える手に力を込めた。

「ふざけるな!!そこにトロを安全に下ろし、自らの村へ帰れ。お前の心の臓を射抜けるよう狙っている。下手な動きをすると死ぬぞ」

「・・・・へえ、お前がルークか?」

「貴様、何故、俺の名を」

その時、ルークの頭上を軽々飛び越え、ロンが進む先に火がともされた矢が勢いよく突き刺さった。もちろんルークの矢ではない。その矢は村から放たれていた。古い木製の橋は次第に火が廻っていく。

ルークが振り向くと、すでに村は炎で赤く染まっていた。村の関所にあるやぐらや、門の前には、白い装束を着た弓兵が10人程こちらに弓を向けている。

すっかり目を悪くしていた長老も、朝の様に明るい炎と、その卑劣な手段や構えには覚えがあった。忘れるはずはない。数十年前から因縁を持ち、一年前にトロの父である長を死に至らしめたあの白尾集団だった。

「あやつらは…白尾のもの…」

「白尾…まさか白尾旅団」

ルークは耳を疑った。

ロンの足元にまた矢が投下され、とうとう橋が傾き始める。ぎいぎいと大きな音をたて、大きな木の破片が深い谷底へ落ちて行った。

その時村の深炎を背にしてひと際異様な一匹が現れた。炎の撒き上がる熱気で白く長い髪の毛や尾をなびかせながら、しなをつくるような独特の歩き方は雌の様だが、どうやら背丈から動きの速さから、雄の身体つきだ。すさまじい速さで橋に向かって進んでくる。

ロンは燃え始めた橋を打刀の打撃で弱らせると、メキメキと大きな音をたてていくつかの木板がごっそりと深い谷底に抜け落ちて行った。ルークと長老の目前でバキリと割れた橋は二人の重みでぐっと傾き落ちるその寸で、ルークはとっさに長老を背負い、腕一本で村とは反対側の割れ目にぶらさがっていた。

落ちかかる寸前、全身の毛が逆立つほど、血液が煮え立つほどの怒りでルークはロンの背に叫んだ。

「止まれ!!」

長老を抱えるルークの左腕はすでにしびれ始めていた。長老がどうにかルークの腕を振り払おうとするが、ルークはルークであきらめきれず、必死に長老を抱えて引きあがろうとする。ルークの腕のすぐ近くに、ロンの足先が近づいた。重みで、橋がぎ、ぎと啼いている。

とてもではないが、ルークにそれを確認してロンに威嚇するような余裕はない。必死に橋にしがみついていたその時だった。

「じじいもういい加減だろ」

ロンはそう言うと上から長老を蹴り離した。強い衝撃に持って行かれそうになりながら、ルークのしびれた左腕からハルオンが離れた。

ガタガタと橋が燃えていた。白尾達は様子をうかがっているようだが、橋はもうしばらくも持ちそうになかった。

「ハル様!!!ハルオン様!!」

峡谷にルークの慟哭が響いた。ぱちぱちと遠くから村の焼ける音が聞こえるだけで

あとは橋の悲鳴しか耳には届かなくなった。

「喜べよそれとも爺と心中したいのか」

「貴様!!」

その時、ロンの肩で気を失っていたトロが眼を覚ました。

瞳に映るのは故郷を包む真っ赤な炎で、トロは大きく暴れながら叫んだ。言葉にならない叫び声は、ルークにも届いていた。

ロンは暴れるトロの手足に何度と打たれながらも、それに動じず、ぐっとトロの首の急所を打ちまた気を失わせ肩に担いだ。

ルークはぎりぎりと自分の身体を引き上げつつはあったが、いまだ危険な状態でぶら下がったまま必死にしがみついていた。遠ざかるロンの背にそれでも力一杯叫んだ。

「トロを離せ、トロは俺の嫁だ!!」

「嫁・・・そんな腐った風習が残ってやがるのかよ・・・そんなのはな俺らにゃくそだ。」

「ぐっ」

「欲しいなら力づくで奪いに来い。じゃあな『ルーク』」


その姿がすっかり見えなくなり、ほどなく橋は焼け落ち、それでも落ち切る前に這いあがったルークは橋の対岸に生還したが、

ランドーリとグラノドールを結ぶ橋の大半は燃え落ち、対岸からでもわかるほどに村は壊滅状態だ。

ルークはひざをつくとただ呆然と、煮え滾った自らの血と鼓動が落ち着くのを待った。しかしそれは大変な時間を要した。

焦げた木の匂いとむせかえるような熱に、怒りと愛おしさで気が変になりそうだった。

すっかり呼吸を飲みこむ事が出来るようになってからも、その場に倒れ込んだまま

ルークはしばらく動く事ができずにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る