第43話 辿って拾ってもう一度



 今日は娘が生まれた日。

 だから今日は赤口の家に集まって身内だけでお祝いをすることになっていた。

 これまでずっと娘を避けてきたので誕生会は必ず欠席していたし、ようやく向き合うことができた去年は様々な事情が重なってきちんと祝うことができなかった。だから今年の誕生日こそは気合を入れたものにしようと意気込んでいたのだけど。


「わあ。とってもいい香りがするね」

「あら瑠美ちゃん。正直に焦げ臭いって言ってもいいのよ?」


 にこりと微笑んで瑠美ちゃんを見ると、彼女は素早く目を逸らした。

 それからわざとらしく鶏の唐揚げを箸でつまんで、熱心に見つめている。


「い、いやいや! 凄いよ陽織さん。今まで真っ黒な料理? しかできなかったのに、この揚げ物ちゃんと色がついてるもん。……キツネ色を通り越してタヌキ色になってるけどまあそれは置いておいて」

「ふふふ、褒めてくれてるのかしら」


 瑠美ちゃんは大袈裟に首を縦に振って肯定している。まあ、別にどっちだって良いけれど。

 赤口夫妻と娘はテーブルに並べられたご馳走+αを摘まみながら、私たちのやり取りを眺めてクスクスと笑っていた。出来は悪いが、みんな文句ひとつ言わず私が作った料理を食べてくれているので安堵する。おば様が作った料理よりも多く食べてくれる娘を見ていると、くすぐったい気持ちになるけれど。


「美味しいです、お母さん」

「そう。良かったわ」


 作ったと言っても、ただ揚げただけだ。それでも私にとっては格段に進歩したと言える。

 ……昔から家事は苦手だった。あまりの酷さに、あの温厚な娘が怒って匙を投げてしまう程である。

 今日はおば様が隣で根気よく指導してくれたおかげで、どうにか料理と呼べるものが出来たけれど、成功と言うにはほど遠い。教わった通りにやったはずなのに、どうして上手くいかないのだろうか。これまでずっと家事をやってくれていた娘を手伝いたくて家事の練習しようかなと呟いたら周りの人たちに真剣に止められてしまった。きっと私には家事の才能というものが絶望的にないに違いない。家事は諦めることにして、私にできることで娘の手助けをした方が良さそうだ。


「凄い、見た目はアレだけど全然食べれる。えぇ、うそ、美味しい。奇跡なの?」

「瑠美ちゃん。今度ふたりでゆっくり話しましょうね」

「やー私これでも忙しいからなー。真面目で熱心な教師だからなー」


 白々しい言い訳に呆れつつ、私も並べられた料理に手を付ける。

 久しぶりに食べるおば様の料理はやはり美味しくて、優しくて、慣れ親しんだ味だった。

 この家でお世話になっていた時に何度も味わっていたし、それに娘が作ってくれる料理と味付けが似ているのだ。小さい頃からずっと教わっていたらしいので、味が似るのも当然だ。


「そろそろケーキを持ってくるわね」


 食事を終えて一息ついてから暫くして。バースディケーキを用意しようとおば様が立ち上がったので、手伝うよ、とおじ様が一緒に台所へ向かった。私も手伝おうとしたが座ってていいよと言われたので、大人しく娘と一緒に待つことにする。瑠美ちゃんはご機嫌な様子で人数分のシャンメリーを準備し始めた。それ、シャンパンじゃないわよね? アルコール入ってないわよね?


「今回もいつものケーキ屋さんのケーキでしょうか?」

「そうね。いつもそこで予約されてたみたいだし。美味しかった、ものね」


 正直に言えば味は覚えていない。毎年食べていたはずなのに、欠片も記憶に残らなかった。有名なお店で美味しいと評判のお店だという情報だけが頭の片隅にあるだけだ。娘の誕生日に義務的に口にするだけで、味わうことをしなかった。作ってくれた職人にはとても申し訳ないことをしたと、今になって思う。


 白い生クリームで綺麗に包まれたシンプルなホールケーキがテーブルに置かれる。

 ロウソクを17本立てて火をつけた後、電気を消して誕生日を祝う言葉をかけて、今日の主役が息を吹いた。

 火が消えて真っ暗になったので電気をつけて、改めておめでとうと声をかけると、娘は嬉しそうに笑う。

 もう17歳。ほんとうに、あっという間だ。娘との思い出が少なすぎるのは、長い時間を無駄にしてきた自分が全て悪い。今更どれだけ後悔しても、これまでの17年の時間を取り戻すことはできない。それでも娘は、椿は、これから沢山の思い出を作っていけばいいと、私を赦してくれた。これから積み上げても遅くはないのだと教えてくれた。幸せそうに、私の手を掴んでくれた。駄目な母親である私には勿体ないほど、とても優しい娘に育ってくれたと思う。大事に育ててくれた赤口の人たちには、多大な感謝と申し訳なさで頭が上がらない。


「さあ、どうぞ召し上がれ」


 切り分けられたケーキが目の前に置かれる。

 私は、あの人の作るケーキが自分の中で一番美味しいと思っている。多少、幼馴染で恋人だから贔屓があるかもしれないけれど。いや、たぶん多少どころではないかもしれない。恥ずかしいから誰にも言うつもりはないが。

 心の中で照れながら、ひとまずケーキを一切れ食べてみる。ふわりと口の中に広がる優しい甘さ、素材の風味と、滑らかな舌触り。美味しい、とすぐに理解する。

 そして、すぐに気付いてしまった。


「これ」


 隣で食べていた娘も、すぐに気付いたんだろう。

 このケーキが、いつものケーキ屋さんのものでないことに。


「おば様が、作ったんですか?」


 私は今までおば様が作った料理を食べたことはあっても、お菓子を食べたことはなかった。

 娘も食べたことがないし、教えてもらっていないはずだ。娘はたまにお菓子を作るけれど、たしかレシピ本を見ながら作っている。

 でも、私たちはこの味を知っている。食べたことはないけれど、似ているのだ、とても。

 

 「すごく美味しい、です」


 あの人が、いつも作っているお菓子の味に、とてもよく似ている。


「ふふ、お口に合ったみたいで良かったわ。久しぶりに作ったから心配だったけれど」


 似てるのも当然だ。

 あの人は母親にお菓子作りを教わったと言っていたのだから。


「ほんとうに、よかった」


 目元を緩めて私を見つめるおば様の真意と優しい配慮に気付いて、胸に熱いものが込み上げた。

 思わず、ひゅ、と喉が鳴る。

 

 おば様は、きっと自分の娘――赤口椿が亡くなってから、お菓子作りをしなくなった。

 娘のことを思い出して辛くなるからなのかもしれない。それが、きっと真実なのだろう。でも、彼女はケーキを食べて美味しいと言った私を見て安堵した。正確には、馴染みのある味を食べて取り乱さなかったことに安心したのだ。


 思い出すのが辛かった。

 思い出させるのが辛かった。


 だから、彼女はお菓子作りをやめた。


 けれど今日、おば様は自分の手でケーキを作った。それが意味するは何なのだろう。自身の心に区切りがついたのか、それとも私を見てもう大丈夫と思ってくれたのか。真意は解らないけれど、少なくとも私の気持ちを汲んでくれていたことは間違いない。細かな部分まで配慮してくれていたことに嬉しくも申し訳ない気持ちになる。

 

「私の好きな、懐かしい味がします」

「はい。私も、大好きな味です」


 私と椿がそう言うと、おば様は驚いたように目を見開いてとても嬉しそうに笑う。

 笑顔があの人にそっくりで、やはり家族なのだなと思った。


 ケーキを食べ終えると、おじ様は自室へ、娘は瑠美ちゃんと一緒に自分が使っていた部屋へ行った。どうやら昔の赤口家のアルバムを見るらしい。私に気を使って興味がない振りをしていたけれど、やはりあの人のことを知りたいと思っていたのだろう。いつか話さなければと思っているが、どうもタイミングが難しい。

 アルバムで思い出したが、おば様に返そうと思っていたお見合い写真を今日持ってきていた。必要ないので、さっさと返すつもりだったが、すっかり忘れていたのだ。玄関の隅に置いておいた紙袋を持って居間にいるおば様の元へ向かう。


「すみません。これ、返すのを忘れていました」

「あらあら、そういえばそうだったわね。私も忘れていたから気にしなくてもいいわよ」

「はあ」


 付き合いで仕方なく、とのことだったので彼女の顔を立てるために渋々今回のお見合い写真を受け取ったのだが、写真を渡すだけで責務は果たされるとのことで、縁談については断ってくれて全然良かったとのこと。私が断ることは想定済みだったらしく、あまり気にしていないようだ。そういえば、今までいい人を見つけてはどうかとか、言われたことがない気がする。ずっと私の精神状態がそれどころではなかったのだから、言い出せなかっただけかもしれないけれど。


「食後の紅茶でもどう?」

「いただきます」


 席に着くと、かちゃりと小さな音を立てて、琥珀色の液体が入ったカップが私の前へ置かれる。おば様は対面の席に座り、にこにことご機嫌な様子でカップに口をつけた。


「こうして二人でゆっくり話すのも、随分と久しぶりね」

「そうですね。その、今までずっとご迷惑を……」

「いいのいいの、そういうのは。陽織ちゃんが昔みたいにうちで笑ってくれるんだから、どうだっていいの」

「っ、そういうわけには」

「そう? なら教えて欲しいことがあるんだけど、いいかしら。とても大事なことよ」

「はい。包み隠さずお答えします」


 何でも答える覚悟はできている。彼女には返しきれない多大な恩があるのだ。乞われれば、どんなことでも話そう。


「陽織ちゃんの恋人ってどんな人?」

「黙秘します」


 覚悟はすぐに爆発して粉々になった。


「包み隠さないって言ったのに」

「限度というものがあります。無理なものは無理です諦めてください」


 ちょっと待っておかしいでしょう、どういうことなの。

 恋人ができたことはまだ赤口のご両親には話していないはずなのに、どうして知って――


「瑠美にはいろいろ話してるんでしょう? いつも楽しそうに話してくるんだから私もどんな人か気になっちゃって」


 やはり彼女とは一度、腰を据えて話し合いをしなければいけないらしい。


「すみません、いつかは話すつもりでいました。その、色々な事情がありまして今は紹介できないんです」


 娘と同い年で同性の恋人ができたなんて報告したらおじ様はともかく、おば様は卒倒するかもしれないと思って、しばらく恋人の存在を隠すことに決めていた。それに日向はまだ未成年なので、せめて成年になってから紹介しようと考えていたのだが。

 

「なら、楽しみにその時を待っているわね。椿に似ているみたいだから、早く会ってみたいけれど」

「…………瑠美ちゃんからお聞きになりました?」

「そうねぇ。でも、貴女に恋人ができたって聞いたとき、似てるかもしれないとは思ったわね」

「あの、それはどういう――」

「だって陽織ちゃん、ずーっとうちの子のこと大好きだったでしょう」

「ごふっ」


 口にしていた紅茶を噴き出した。

 タイミングが悪すぎる。おば様はさっきからずっと楽しそうな顔だ。


「そそそそうですね、彼女のことは友達として好きでしたよ。ええ、友達として」

「今でも好きでいてくれているのよね」

「…………」

「貴女の気持ちは知っていたの。あの子がまだ生きていた頃から」

「そぅ、で、すか」

「あの子は全く気付いていなかったけれどね、陽織ちゃんの態度はとても解りやすかったから」


 すぐさま両手で顔を覆った。きっと顔は真っ赤になっているだろう。

 あの人が鈍感だからといって、両親も同様に鈍感とは限らない。むしろ二人は鋭い方だと思う。

 

「ねえ陽織ちゃん、正直に答えてね。今、お付き合いしている人のこと、本当に好きだと言える?」


 早瀬日向のことは、好き。

 赤口椿のことも、今でも好き。

 心は同じでも、彼女たちは他人。

 違う人間なのだ。


 どう思っているかと聞かれれば間違いなく二人とも好きだと言えるけれど、恋人は貴女の娘の生まれ変わりなのだと、言うわけにはいかない。それだけは絶対に駄目なのだ。もし告げる時が来るのだとしたら、それは私ではなく本人が自らの意志で言うべきことだと思っている。

 しかし困った。今の恋人が好きで、でもあの人のことも今でも好きだなんて言ったら、未練を断ち切れず二股してるみたいに思われてしまう。その場しのぎの嘘で誤魔化そうかと考えて、それも駄目だとすぐに取り消す。ずっと見守ってくれていた恩人を欺くわけにはいかない。


「言えます。私は今でも椿のことが好きです。でも、今、傍に居てくれるあの人のことも好きです」


 包み隠さず話すと決めた覚悟を再構築して、私はおば様と向き合う。


「あの子のことをずっと想ってくれているのは嬉しいけど、それはお付き合いしている方に対して不誠実ではないかしら」

「そうかもしれません。それでも私は、一途に想っているつもりです」


 そう答えるしかない。これが、私の本当の答えなのだから。

 あの人でないと駄目だった。

 あの人じゃないと嫌だった。

 これまでも、これから先も、好きになるのはただ一人の心だけ。


「……相手の方はうちの子のことについて知っているの?」

「はい。お互いに全て納得しています」

「そう。貴女たちが納得して一緒にいるのなら、これ以上は何もいう必要はないわね。ごめんなさい、不躾に立ち入った事を聞いてしまって」

「いいんです。おば様にはその資格はありますし、私たちのことを心配して下さって嬉しいです」

「陽織ちゃん」


 紅茶の入っていたカップの中は、お互いに空っぽになっている。今度は私が淹れてこようとテーブルに手をついたところで、目の前の彼女は私の手首をつかんで立ち上がる動作を止めた。


「あの子は。椿は、陽織ちゃんのことが好きだったわ」

「…………」

「気休めじゃないからね。確信があるから、きっと間違っていないわ。この事を貴女に伝えるべきかずっと悩んでいたけれど、今の陽織ちゃんならきっと受け止めてくれるだろうから」

「そう、でしょうか」


 いつから私のことを好きだったのかそれとなく聞いたことがあるけれど、日向は「椿だった頃から好きだったかもしれない」と曖昧に答えていた。鈍感を極めたあの人のことだから、自分の気持ちに全く気付いていなかったとしても不思議ではないし納得できる。


「あの子って、お人好しだったでしょう?」

「ええ、はい」

「小さい頃からそうだったわ。やんちゃで元気な子だったけど、他人の気持ちに寄り添って、迷わず手を差し伸べるの。瑠美が生まれてお姉さんになってからはもっと顕著になっていたわね」


 今でもお人好しな性格は変わっていない。誰かを助ける為に躊躇いなく行動できることは彼女の美徳であるし誇らしく思うけれど、もう少し自分の方に比重を置いてほしいと思っている。日頃から自分を優先しなさいと言っているが、小さい頃から培われていたという他者優先な精神を変えていくことは、そう簡単にはいかないのかもしれない。


「とても優しい自慢の子だった。でも、優しすぎるところは不安もあったわ」

「そうですね。私も、彼女の自分よりも他人を優先するところは気になっていました」


 おば様は困ったように微笑む。

 私に向けられた視線に、何か意味が含められているような気がした。


「椿はね、執着心が薄い子供だったの。誰かが欲しがっていれば、迷いなく差し出すのよ。どんなに自分が好きなものでも、大切にしていたものでも譲ってしまうの」

「え?」


 そうだっただろうか。確かに自分の物を譲っている場面を何度か見てきたけれど、彼女の好きなお菓子に関しては妥協していなかった気がする。私のお菓子を欲しがったことだってあったはず。


「あ、陽織ちゃんと出会ってからね。執着心を覚えたのは」

「…………」

「一目惚れだったのかもしれないわね?」

「容赦してください」


 恥ずかしくなったので机の上に顔を伏せてから両腕で頭を隠す。穴があったら入りたい。

 

「あの子は陽織ちゃんに執着した。特別に思っていた。だから、最期まで譲らなかった」

「――最期まで、譲らなかった?」


 私は伏せていた顔を上げておば様を見る。彼女はもう微笑んでいない。

 ただ、悲痛な表情で私の視線に応えている。


「ごめんなさい、陽織ちゃん。私たちがもっと早く椿の説得を聞き入れていたら、間に合っていたのかもしれない。違う未来が、あったのかもしれないの」

「あの、もしかして、椿が、何か――」


 何のことを言っているのか解らない。解らないけれど、胸騒ぎがする。

 私が知らないところで、あの人は何かをしようとしていた?


「あの子が亡くなる数ヶ月前――その頃、どこか様子が変だったの。思い詰めた顔をすることが多くなって心配になったから問い質してみたんだけど、頑なに何もないの一点張りで隠そうとしたわ。椿は嘘が苦手で下手な子だったから、全然隠せていなかったけれど」


 おば様は隣の椅子の上に置いていたのか、一冊の本を机の上に乗せる。それは、いわゆるマタニティ雑誌と呼ばれる妊婦さん向けの本だった。


「この雑誌とか育児書とか名付け本とかが娘の机に置いてあったら、さすがに慌てちゃうでしょう?」

「それは慌てますね」

「所々に付箋が挟んであって熟読してるみたいだったから余計にね」


 見つけた時はとにかく大混乱だっただろう。妊婦向けの書籍がたくさん部屋に置かれていたら、誰だってお腹に赤ちゃんが出来てるかもしれないと思うはずだ。その時のおば様の心中を思うと気の毒でならない。


「なかなか口を割らなかったけれど、すぐに吐かせたわ。それで、貴女が置かれた状況を私たちは知ったの。……あの事件が起こる前に、陽織ちゃんの家庭環境やお腹の子供についてもすでに把握していた」

「そうでしたか」

「知ったからと言って、私たちが出来ることは少ないと椿には言ったわ。倉坂家と赤口家はまったく交流がなくて、複雑な家庭の事情に口を出せる立場ではなかった。それに当時の貴女はまだ学校に通っている子供で、支えてくれる存在も居ない。だから、酷いことを言ってしまうけれど、その、お腹の子は堕ろしたほうがいいと私はあの子に告げた。貴女にもそう言うつもりでいたわ」

「いえ、間違っていないと思います。それが正しい判断だって解ります」


 私は何もできない子供で、椿も同じようにまだ子供だった。人の命を感情だけでどうにかしようとしていた私たちは、あのまま突き進んでいたらどうなっていただろう。うちの娘が立派に育ってくれたのは、赤口家の手厚い支援があってこそだった。

 もし、それがなかったら――――――


「それでも。どんなに説得されても、産んでいたと思いますよ。後悔もきっとしなかったと思います」

 

 苦笑してしまう。

 椿と一緒ならどんなことでも乗り越えていけると、馬鹿馬鹿しくて子供じみた自信があった。

 その自信は今でも変わらず胸の内にあって、消える予兆もない。


「そうね。あの子も、貴女と同じように強い意志と覚悟があった。何度説得しても諦めなくて、譲らなかった。あの子が頑なに自分の意見を押し通すなんて初めてで困ってしまったけれど、嬉しくもあったわ。だから私たちも根負けして、とにかく陽織ちゃんのご両親に相談してみることにしたの」


 そんな話が進んでいたなんて全然知らなかった。私には何かを隠してる素振りなんて見せてなかったのに、妙なところで隠し事が上手いんだから。これからはもう少し気をつけておこう。


「でも話し合う前に事件が起きてしまった」

「…………はい」

「もう少し早く貴女のお母さまと話していれば、と後悔しているの。すぐにでも会って話を進展させていれば、あんなことにはならなかったんじゃないかって」

「おば様は何も悪くないですよ。悪いのは私の母親と、椿を頼って巻き込んでしまった私です。おば様が悔やむ必要はありません。それより、私たちのことを考えて動いて下さってありがとうございます。私と娘が一緒にいられるのは、赤口の方々のおかげですから」


 私と赤口家の面識はそれほど多い方ではなかった。たまに彼女の家に遊びに行ったときに挨拶する程度で、深い繋がりがあるわけではない。それなのに、親族すら見放した私をすぐに引き取って、最後まで面倒をみてくれた。自分の子供を刺した人間の子なのに、恨みごとのひとつも言わず寄り添ってくれた。どうしてそこまで親切にしてくれるのか、ずっと理解ができなかったけれど、自分自身が親となった今でも理解できる気がしない。私が同じ立場に立ったとしても、きっと同じことは出来ないだろう。


「椿との約束もあったけれど、貴女の力になるって決めていたの。それに私たちも、貴女と椿ちゃんと一緒に過ごせて救われていたわ。自分の子供が増えたというか、娘のお嫁さんと孫が出来たみたいで嬉しかったわね」

 「げほっ」


 カップに中身が入っていなくて本当に良かった。また紅茶を噴いてしまうところだった。

 なんと返せばいいのか迷って口をもごもごさせていると、彼女は慈しむような優しい瞳で微笑んだ。我が娘はおじ様やおば様のことをおじいちゃんとおばあちゃんと呼んでいるが、私にそんな度胸はない。


「貴女はもう私たちの大事な家族。そんな貴女を射止めた方とも、仲良くできたらと思っているわ」

「ええと、そうですね。そうなると、嬉しいです、はい」


 もしかしたらすんなりと受け入れてくれるかもしれないけれど、まだ紹介するには早くないだろうか。最低でも日向が学校を卒業してからがいいかもしれない。まだ先になってしまうけれど、そこは待ってもらうしか。

 心の中で色々な葛藤をしていると、おば様はリモコンを操作してテレビの電源を入れた。すぐに映ったのはドキュメンタリー番組で、興味がなかったのかチャンネルを変えてニュース番組にしていた。


「そろそろかしらね」


 ぽつりと無感情な声が聞こえた。なにか目当てのコーナーでもあったのだろうかと気になって、私も一緒にテレビを見つめる。天気予報が終わったところで、速報が入ったのか、緊張した面持ちのキャスターが映った。


 『速報です。幅広く事業展開を行っている大手企業、鹿島グループの幹部による不祥事が発覚したとの事です。内部告発により脱税、贈収賄、粉飾決算など様々な不正の疑いにより、今朝未明、グループ会社社長の鹿島秀之を逮捕しました。また幹部数名も関わっているとして現在取り調べを行っており――』


「鹿島?」


 鹿島。

 二度と聞きたくなった名前が耳に入り、条件反射で身体が震えてしまう。

 不祥事。社長の逮捕。幹部の取り調べ。複数の情報が頭に流れ込んでくるけれど、処理しきれない。モニターの向こう側ではスーツの男たちが取材陣に囲まれ、質問攻めにされている。ニュースでよく見る光景だ。

 

「ごめんなさい。本当はもう、貴女には関わらせたくなかった。このまま何も知らず幸せな日々を過ごして欲しかった。けれどきっと、私も貴女もまた後悔する、そんな予感があったから」


 おば様はテレビの画面から目を逸らして、真剣な表情で私と向き合う。


「今日の夕方以降に鹿島グループの不祥事が明るみになることは、告発した関係者から事前に聞いていたの。大丈夫だと思うけれど、この日は家から出ないで大人しくしてるように指示もあったわ。陽織ちゃんと椿ちゃんは特に気をつけるように言われてる。……鹿島雅之さんも、間違いなく逮捕されるだろうから」

「――――そう、なんですね」


 それは朗報ではないだろうか。あの男の罪が暴かれ正しく裁かれるというのなら、溜飲も少しは下がるというものだ。ざまあみろと心から思う。


 でも。

 ああ、でも、なんでだろう。

 何かが引っ掛かる。

 結果だけを見ればいいニュースだ。

 でも、どうしてだろう、嫌な予感がする。

 どうして。


「……日向?」


 そう、どうして、彼女の姿を思い浮かべてしまうのだろう。




 ―――― 何言ってるの、陽織はもっともっと幸せにならないと駄目だよ。




弾かれたように、勢いよく立ち上がる。

一分でも一秒でも早く、私はあの人に会わなければならない。

今すぐ日向の元に駆けつけないと、きっと、後悔してしまう。

気のせいだったらそれでもいい。そっちの方がいい。何もないのが一番だけれど、確信に近い予感が心を掴んで離さない。


「ほんっと、こんな時ばかり嘘が上手なんだから、あの馬鹿!」


 急にバイトを始めたと思ったら、しばらくしてシフトを多めに入れたと言って忙しそうにしていた。本当にバイトもあったんだろうけれど、別の理由もあったに違いない。何をやっていたかは解らないが、あのお人好しは今回の鹿島の件に絡んでいる。ああ本気で腹が立つ。嘘を吐かれたことも、会える時間を減らされたことも、私に黙って何かしていたことも、私の気持ちを無視して全力で幸せにしようなんて考えてることも。全て腹立たしくて、許せなくて。

 だからこそ、どうしようもなくあの人のことが好きで。

 絶対に失ってなるものかと、心の奥底から声なき叫びが溢れ出す。


 あの人がどうしても私の幸せを願い続けるというのなら、そんなあの人を守るのが私の役目だ。


「行っては駄目だ、陽織さん。警察が動いているが、万が一という事もある」


 いつの間にか居間に来ていたおじ様が、私の行く先に立ち塞がる。私の身を案じてくれているのは嬉しいけれど、今ここで足踏みをしていたら手遅れになるかもしれない。もう二度とあんな思いはしたくないのだ。今度は絶対に間に合わせてみせる。そう決意して、おじ様と向き合う。


「ごめんなさい、それでも私は――」

「お父さん! お母さん!」


 大きな声で両親を呼びながら、瑠美ちゃんがドタドタと慌てて居間に駆け込んでくる。

 余裕がない様子で、息を切らせながら彼女は私たちの元へやって来た。心なしか顔色が悪い。



「ごめん! うたた寝してる間に、椿ちゃんがいなくなっちゃった!」



 聞いてすぐに体が反応した。

 考える時間すら惜しい。


「っ! 待つんだ陽織さん!」

「陽織ちゃん!」

「え、ひ、陽織さん!?」


 制止の声を振り切って私は赤口家を飛び出し、暗くなり始めた住宅街を全速力で駆けていった。

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Warm Place ころ太 @corota

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