第38話 少女が彼女を想うということ(3)
「……あれ」
目を覚ますと、まず最初に飛び込んできたのは彼女の不安そうな顔だった。
どうしてそんな顔をしているのかが先に気になったので、陽織の顔が私の視界いっぱいに映っていても取り乱すことはなかった。
起きたばかりのせいで頭が回らないから、しばらく彼女の綺麗な顔をぼーっと眺めていることにする。そのままずっと見ていたら何だかよくわからない顔をされて睨まれてしまった。
「馬鹿」
「はい」
「大馬鹿」
「おっしゃるとおりで」
何を言われてもしょうがない。何もないところで転ぶとか情けなくて、すごく恥ずかしい。間抜けなところを見られて泣きたくなってくる。間抜けなところなんて今まで何度も見られているから今更なんだけど。
……んー、今更といえば、私は今ソファに座っている陽織に膝枕されている状態みたいです。しばらく寝ぼけてて気付かなかったけれど、頭に当たってる柔らかい感触とか、自分の体が仰向けになってて真上に陽織の顔があるとか、どう考えても膝枕されてますよね。テーブルにぶつけた頭がズキズキしてるけど、そんなことが吹き飛ぶくらい今の状況がむず痒くてヤバイ。心臓が暴れててとってもヤバイ。
この状況を打破する為に起き上がろうと思ったけれど、緊張で身体が固まってしまって身動きできない。けっしてこの温かくて柔らかい膝枕をもっと堪能していたいからという邪な理由のせいではない……と思う。うん、そう思いたい。
私が黙っていると、髪の毛をさわさわと撫でられた。それがとても気持ちが良くて、自然と目を細めてしまう。膝枕という嬉し恥ずかし状態だけど、頭を撫でられると不思議と心が落ち着いてきた。
「頭、どこか痛む?」
「ううん平気」
頭に手をやってぶつけたところを探ってみると、少しだけ膨れている部分があって、触れるとちょっとだけ痛みが走った。これくらいだったら、明日にはもう治ってるだろう。
「そそっかしいんだから」
「おっしゃるとおりで」
軽口を言うと、ぺシッとおでこを叩かれた。ふざけるなって、言いたいのかな。
ぶつけたのは頭だったし、打ち所が悪ければ死んでた可能性だってある。私が気を失っていた間、陽織はずっと心配してくれていたんだろう。
「ごめんね、心配かけて」
「別に心配してない」
さっきまで不安そうな顔をしていたくせに、そんなこと言っても全然説得力がない。
私が小さく笑うと、陽織は拗ねた表情をして顔をふいっと逸らした。ふふ、こういうところ昔と変わってないなぁ。
「そういえば、昔の夢を見たよ。陽織と初めて出会ったときのこと」
私にとって過去は大事な宝物だけど、陽織にとって過去は辛かったことの方が多すぎるから、思い出したくないのかもしれない。ひょっとしたら私と初めて出会った時のことなんて忘れてるかも。
「初めて出会ったのは……貴女がうちに不法侵入して庭で昼寝してた時だったわね」
「ごめんなさい」
しっかり覚えられていた。
勝手に人様の敷地に忍び込んだり知らないところで寝たりするなんて、小さい頃の自分はなんて危機感のない子供だったんだろう。いくら昔のことだからといっても恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「来るなっていっても来るし、勉強の邪魔はするし、遊びに来たと思ったら一人で寝るし、散々私を振り回してくれたわね」
「すみません」
返す言葉もございません。
あの時は必死だったから、いっぱい迷惑をかけた。陽織と仲良くなりたくて強引に遊びに行ったし、笑った顔を見たくて色々なことをやった。優しい彼女は冷たい言葉を吐きながらも私に付き合ってくれたけれど、本当は迷惑だったろうに。
私は昔からずっと、自分のことしか考えてない自己中心的な人間で。
だから―――
「でも、嬉しかった」
「え?」
「ずっと独りで寂しくて、誰か傍に居て欲しいと願ってたその時に、貴女は傍に居てくれた。
どんなに拒絶しても、諦めずに何度も貴女は来てくれた。傍で笑ってくれていた。それがどれだけ支えになっていたか」
「…………………」
急に真剣な表情になったかと思えば、信じられないような言葉を口にした。
驚きのあまり何も言えず、そのまま彼女の顔を見ていることしかできない。
私の顔がおかしかったのだろうか、陽織は少しだけ口の端を吊り上げる。
「貴女は、そんなつもりはなかったんでしょうけど……感謝してるのよ、凄く」
「あ、うん…どういたしまして?」
なんだか、照れちゃうな。
陽織の言うとおり自分のことしか考えていなかったから、陽織が感謝する必要はないんだけど。
それでも、彼女の支えになれていたのなら、嬉しい。
「……ん」
陽織の髪が私の顔にかかったので、思わず手を伸ばして彼女の髪に触れた。触った感触が気持ちよかったので梳くように撫でると、彼女はくすぐったそうに身を捩じる。調子に乗ってしばらくそのまま触っていても、陽織はされるがままで何も言わない。
なんだろう、悲しいわけじゃないのに、今すごく泣きたい気分だ。
簡単に手が届くのに、なぜか届いていない気がして、胸の奥がぎゅっとなる。
「変な顔してるわね」
「元からだよ」
「じゃあ、すっごく変な顔ね」
「ひどいなぁ」
考えている事や気持ちがすぐ顔に出てしまう自分の癖には困ってしまうが、数十年頑張っても治らないからもう諦めている。素直なのはいいことだと褒められても、心の内が透けてしまうのは恥ずかしい。
なんとか感情を悟られないように表情を作ろうと奮闘していると、陽織に頬を摘ままれた。
「いひゃひゃ」
「無駄な足掻きね。観念して何を考えていたか吐きなさい」
「そういわれてもねぇ」
適当にかわしても納得できないみたいで、ぐいっと顔を近づけてきた。
……綺麗な顔のどアップは本気でやめてください。
「たまにはお節介を受ける身になってみなさいよ」
「…………えー」
「大丈夫だから。遠慮しないで我儘くらい、ちゃんと言って」
どうして陽織が寂しそうな顔をするんだろう。そんな顔をして欲しかったわけじゃないのに。
ただ彼女に、幸せになって欲しいだけなのに。
「私が我儘を言ったら、きっと陽織を困らせるだけだよ」
「それは楽しみね。いい退屈しのぎになるわ」
言っては駄目だと思う。伝えてもただお互いに傷つくだけ。彼女を想うのであれば、黙っていることが最善だ。
そう何度も何度も自分に言い聞かせて、湧き上がる衝動に耐える。彼女の為ならば、耐えられるはずだ。
絶対に堪えないと。だって、陽織は私の大切な人なんだから。幸せになって欲しいんだから。
「……――っ」
陽織のことが好きだから。
好きだからこそ。
「ごめん」
「どうして謝るのよ」
無理なんだ。
「好きになりました」
「……え?」
これでもう、後戻りは出来ない。するつもりもない。
ここで自分の気持ちを言わないと、いつか本気で後悔しそうな気がしたから。
名残惜しいけれど、彼女の膝からようやく身体を起こして隣に座り、姿勢を正す。
何を言われたのか理解していない陽織の顔を見つめながら、意を決して、次の言葉を紡ぐ。
「陽織のことが、好きです。友達とか家族とかの好きじゃなくて、特別な意味で、好きです」
「……っ!」
彼女の目が驚きで見開かれる。そりゃあ、いきなり幼馴染みの女の子に告白されたんだから、驚くよね。それに……困るよね、こんなこと言われても。言えた私はスッキリするけど、言われた陽織は戸惑うだけだ。
「だけど、私のことなんて陽織は全然気にしなくていいよ。陽織はもっといい人を見つけて、もっと幸せになって欲しいから。気になる人がいるのなら応援するし、いないのならお見合いしてみるのも有りだと思う」
「……何、言って………」
「私はまた陽織に会えて、こうして話せてるだけでも十分幸せだから。陽織はちゃんと自分のことを考えてさ」
「待ち…な、さいよ」
「椿のためにも、やっぱり――」
「日向っ!!」
「は、はいっ!?」
急に怒鳴られて、ビクッと肩が跳ねた。
今までにない彼女のすごい剣幕に怯んでしまう。
「どうして一人で勝手に決めて、納得して、終わらせようとしてるのよ! 信っじられない! 馬鹿じゃないの!?」
「いや、だって……」
「大体どうしてすぐ諦めるのよ! まさか簡単に諦められるような軽い気持ちで好きだって言ったの貴女!?」
「そ、そんなわけない! 陽織のことは、すっごい好きだけど……だけど、私のことは、いいよ」
「そうやってすぐ自分のことは後回しにして! 一番大事なのは自分の気持ちでしょう!? 貴女は、もっと欲張りなさいよっ」
「…陽織」
違うよ。
私はいつだって欲張りで我儘だよ。
私が今一番望んでることは、陽織が幸せになること。
お節介だと思われても、どうしても叶えたい。
私がそう言うと、陽織は首を横に何度も振って、違うと否定する。
「自分の願いじゃないのよ、昔から。貴女のそれは『他人の為の願い』なの」
「……それは」
違う、とは言えなかった。
今まで他人の為じゃなく、自分の為にやってきたはずなのに。
陽織の言うことを完全に否定できない。
「大体、どうして私の気持ちを無視して話を進めるのよ」
だって聞くまでもないから。彼女が私のことが好きだなんて、そんなことありえるわけがない。想像もつかない。
陽織は呆れたような、けれど蒸気した赤い顔で、大きく息を吐いた。
「私は……私は、ずっと前から貴女のことが好きだったのに」
「……………」
え?
「……な、何か言いなさいよ」
何も言わず呆けていると、さらに顔を赤くして恥ずかしそうに顔を伏せる陽織。
一方私は彼女が言ったことがあまりにも予想外で、うまく理解することができなかった。
え、なにこれ、どういうこと?
好きって、私のこと?
「……好きって…え、私?」
「ほかに誰がいるのよ」
「ほんとに、私?」
「信じられないっていうの?」
「だって」
「前にも好きって言ったことあるけれど、貴女は普通に流したわよね」
言われたことあったっけ!?
あ、いや、確かに1年くらい前にそんな言葉を聞いた覚えがあるけど、あれは友人とか家族としてって意味だとばかり。それにあの時の私はまだ自分の気持ちに気づいてなかったから解る筈もない。そうだとしても、陽織の気持ちを考えなかったのは申し訳ないと思う。
「ご、ごめんなさい」
「あの時は伝わればいいな位に思ってたけれど、別にきちんと告白するつもりはなかったから。でも、今は…その、“そういうつもり”で、言った…わ」
「う、うん…」
ということは、両思いってこと…だよね。わぁ。びっくり。
「…………っ」
自分と同じ気持ちだったと聞かされて、顔が熱くなる。
激しい運動した後のように鼓動が速くなる。全身に鳥肌が立つ。
私はまだ気を失っていて、これは夢なんじゃないのかと思ってしまうほどに現実味がない。
言葉で表現できないほど凄く嬉しいのは確かだけど…。
でも。
「陽織が好きって言ってくれたのは嬉しいよ。でも、さっきも言ったように私なんかじゃ――」
「それ以上言ったら許さないから」
「……………」
強い口調に圧倒されてしまい、次の言葉が出てこない。
陽織は険しい顔つきを悲しいものに変えて、静かに涙をこぼした。
「陽織」
「わたしがどんな気持ちで長い間ずっと貴女を想っていたか知っているの?どんなに貴女のことが好きか、解るって言うの?好きな人が死んでもう会えないと思っていたのに、また会えて、叶わないと思っていた想いが通じて、それが今、どれほど嬉しいか……ねぇ、わかる?」
「………」
「それに私の幸せは貴女が決めるんじゃなくて、私が自分で決めるわ」
いつか私が彼女に向けて言った似たような言葉を、今度は彼女が私に言う。
……そう、だったね。私のやっていることは、幸せの押し付けでしかないよね。
「ごめん、陽織」
彼女の瞳から零れる雫を、そっと人差し指で拭う。
「たとえ貴女が何を言おうと、譲らない。聞いてあげないっ。………私は、貴女が好き…っ……だからっ」
「うん。私も好きだよ」
必死で懇願する彼女を見ていると切なくて、胸が苦しくなる。
こんなに……こんなにも、私は彼女に想われていたんだ。
無理に本音を隠して、逆に彼女を悲しませる結果になってしまった。
色々と考えていた自分が馬鹿みたいに思える。難しく考えなくても、よかったんだ。
「陽織」
彼女の名前を呼んで、華奢で温かい身体をそっと抱き寄せる。
それだけで愛おしい気持ちが体の奥底から湧き上がって溢れてくる。
陽織はビクッと身体を震わせて驚いていたみたいだけど、すぐに両腕を背中に回しておずおずと私を抱きしめてくれた。腕の中にある彼女の温もりが、心地いい。
「ずっと好きでいてくれて、ありがとう」
彼女は長い間ずっと私のことを想っていてくれたという。
私が自分の気持ちに気づいていなかった昔から――そして死んでも尚、それでもずっと、ずっと。
決して想いが届かないと知っていても、それでも彼女は想うことを止めなかった。それがどんなに辛くて苦しいことなのか、それは彼女にしか解らないことだけど、想像するだけで悲しくなる。
私のことなんて忘れてくれてよかった。
そうすれば、楽になれたはずなのに。
新しい幸せを見つけてくれてよかったのに。
「ありがとう」
でも、どうしようもなく、嬉しい。
嬉しくて感極まったのか、自然と涙が頬を伝っていく。
抱きしめてる状態なので泣いている顔を彼女に見られないのが救いだった。
泣いている自分を悟られないように、もっと強く抱きしめる。
「貴女が私の幸せを願ってくれてるのなら、私は貴女の願いを叶える。だから……私を幸せにして、日向」
「うん」
「ずっと傍にいて」
「うん、私なんかでよければ」
「いい加減自分を卑下するのはやめなさい」
「っえ?」
喉が震えて変な声が出たけれど、彼女は気に留めていないようだった。
泣いてるの、バレちゃったかな?
「私の好きな人を、“なんか”って言うのは、本人だろうと許さないから」
「恥ずかしい台詞だね」
「黙りなさい」
「あはは。でも、嬉しいよ」
ああ、やっぱり。
私は彼女じゃないと駄目みたい。
これから先も、死んでもずっと、何度生まれ変わっても、きっと彼女しか好きにならない。
「陽織」
抱きしめていた身体をゆっくり離してから、お互いの息が届きそうな近い距離で彼女の顔を見つめる。すぐ近くにある真っ赤な陽織の顔。きっと私の顔も彼女に負けないくらい赤いと思う。
いくら鈍感な私だって今の空気ぐらい読める。ここで間違えたら一生彼女に口をきいてもらえないかもしれない。あと私に必要なのは、行動する勇気だけ。
のぼせてしまいそうな雰囲気に負けそうになりつつ、私は片手を彼女の頬に滑らせて、もう片方は彼女の手を握った。何をされるのか理解した彼女は少し戸惑ってから、ゆっくりと目を閉じていく。彼女に触れた手から緊張が伝わってくる。同じように私の緊張も彼女に伝わっているかもしれない。それは凄く恥ずかしいけれど、嬉しい。
覚悟を決めて徐々に距離を縮めていく。
なにか物音がした気がするけど、気のせいだろう。
神経を一点に集中させてゆっくりと目を閉じ、震えている陽織の唇へ自分のものを重ねようと近づけていく。
そして触れるか触れないかのところで
「ただいまかえりました」
突き飛ばされました。
「うぉん!」
「日向さんっ!?」
ドンッと勢い良く押されて私は華麗にフローリングの床に倒れこむ。受け身をとったのであんまり痛くないけど…急だったから凄くびっくりしました……。
持っていた荷物を置いた椿は、床に這いつくばっていた私の元に慌てて駆け寄って上半身を起こしてくれる。陽織の方に目を向けると、彼女はソファの上で荒くなった息を一生懸命に整えていた。
「大丈夫ですか?」
「平気! 全然平気! おかえり椿、早かったね!」
誤魔化そうと咄嗟に私を突き飛ばしたのはいいんだけど、もっと優しく引き剥がしてくれても良かったと思う。突き飛ばした張本人を睨みつけると、目を逸らされた。
「あの、二人で何をしていたんですか?」
「「別になにも」」
二人同時に答えて、怪しさが増した。うぅ、気まずい。
けれど椿は不思議な顔をして首を傾げただけで、それ以上何も聞いてこなかったから上手く誤魔化せたのだろう。安心したので私と陽織は同時に息を吐いた。
「えっと、椿は夕飯の買い物に行ってたんだっけ?」
「はい。今日はシーフードカレーを作るつもりで材料を買ってきたんですけど…カレーでいいですか?」
「もちろん。あ、私も作るの手伝うよ」
腕をまくって床に置かれた荷物を拾い上げると、すかさず椿に奪い取られてしまう。
「日向さんはお母さんとゆっくりしてて下さい」
「え、でも」
「この前は日向さんが作ってくれたので、今日は私が作ります」
ニッコリと極上の笑顔で言われてしまっては何も言えず、言われた通りゆっくりすることにした。
とりあえず、陽織が座っているソファに腰掛ける。やたら静かで間が持たないので、テレビでもつけようかなぁ。
「……………」
「なんでしょうか、陽織さん」
隣から刺さるような視線を感じて、耐え切れず声をかけてみる。
ちらりと表情を盗み見ると、とても不機嫌そうな顔をしていた。
「日向って……椿に甘いわよね。すぐデレデレするし、やたら過保護だし」
「そ、そうかな? ああでも、うん、そうかも。だってほら、椿ってとってもいい子で凄く優しくて……それに陽織の子供だから私にとっても大事な子供? みたいな?」
「……なによ、それ」
苦し紛れの言い訳に不服そうだったけれど、顔をほんのり赤らめて顔を逸らした。怒ってるのか照れてるのか、よくわからない。…少なくとも機嫌は治ったみたいだけど。
「たまには…料理、手伝ってこようかしら」
「ちょっと待った」
ソファから立ち上がって台所に行こうとする陽織の腕を、慌てて掴む。
「な、何よ」
「いや…陽織は座っててよ。やっぱり私が手伝ってくる」
「貴女は椿に止められたじゃない。それともなに、私に料理をさせたくないの?」
「…………」
「どうして目を逸らすのよ」
陽織は器用で何でも出来る人だけど、人間だからもちろん苦手なことだってある。
その苦手なモノのひとつが、料理だ。
何を作らせても出来上がるのは食べ物と呼べるものじゃなくて、調理の手順を一から教えても不思議な事に失敗してしまうほどの腕前だ。陽織の作った手料理なら残さず食べたいとは思うけど、以前無理して食べて地獄を見たからなぁ…。あの時のことは、思い出したくもない。
「手伝うぐらいなら大丈夫でしょう?」
「うう…不安だ」
「そんなに心配なら貴女も台所に来て見てればいいじゃない」
「はいはい、そうするよ」
私もソファから立ち上がる。
今日の晩御飯を謎の物体にしないようにちゃんと見張っておかないと。
あれ……そういえば3人で台所に立つのは初めてかもしれない。
「日向」
「ん?」
名前を呼ばれたので、彼女の方を向く。
陽織は私の傍に寄ってきていきなり両手で顔を挟んだかと思うと、額に素早く口付ける。ほんのわずかな間だったけれど、柔らかい感触が額から伝わってきて、その部分が熱くなった。
……キスは嬉しかったけど、なんでおでこ?
「大好き」
普段滅多に見せない蕩けるような笑顔で、普段言わない言葉を言われれば、顔が赤くなるのもしょうがない。不意打ちされた不満はあるけれど、嬉しかったのも事実なので何も言えない。まあ細かい事はどうでもいいやと思ってしまうのは、惚れた弱みというやつだろうか。
まだやっぱり自分でいいのかって不安はあるけど、それ以上に好きって気持ちが強いから、きっと大丈夫。
「私も、大好きだよ」
恥ずかしいけれど、彼女に倣って私も自分の気持ちを伝える。
すると彼女は、満足そうに笑ってくれた。
私が大好きな彼女の幸せそうな笑顔。
ずっと見ていたい、そして、守りたいと思う、その表情。
つられて私も笑みを浮かべる。
私たちは、お互い真っ赤な顔で笑い合う。
――今この瞬間が、まるで夢のようだった。
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