第36話 少女が彼女を想うということ(1)
重たい瞼を開けると、クラスメイト達が各々に帰り支度を整えていた。
机から身体を起こして目を擦りながら窓の外を見る。空はいつの間にか赤みを帯びており、グラウンドには部活動に勤しむ生徒達がいて、外から元気な掛け声が聞こえてきた。……どうやら寝ているうちに今日の授業は全部終わってしまったらしい。5限目の授業までちゃんと受けていた気がするけれど途中から記憶がないのでいつの間にか寝てしまったようだ。明日辺り先生に呼び出されて有り難いお説教喰らうかもしれない。そう思うとげんなりするけれど、居眠りした自分が悪いのだから仕方がないか。大きく背伸びをしてから、口に手を当てて欠伸をする。うっ、身体が軋んで痛い。
(先生も起こしてくれればいいのになー)
私の席は窓側で陽の光がちょうど良く当たるから、暖かくて眠くなってしまう。前に居眠りをして先生に呼び出された時にそう言い訳したら頬を軽くつねられて怒られたっけ。これでも寝ないように毎日頑張ってるつもりなんだけど、睡魔には昔から弱いのでどうしても抗えない。ちゃんと早寝しているのに、早起きできないのと授業中に居眠りをしてしまうのは何でだろう。
「早瀬」
家に帰ろうと机の中の物を鞄に押し込めていると、クラスメイトの女の子が私の席に近づいて来た。
「オハヨー。良く寝てたね」
「授業終わったんなら起こしてよ」
「だってすっごく気持ち良さそうに寝てたんだもん。先生もみんなも起こすの躊躇っちゃうくらい」
いや、起こそうよ。起きたのがちょうど下校時刻だったからいいものの、夜中だったらどうすんのさ。
彼女は私の不貞腐れた顔を気にもせず隣の席の椅子を引っ張り出し、そこに座った。それからニッコリと不気味に笑って一枚のプリントを私に差し出したので、戸惑いながら受け取る。プリントにざっと目を通してみると、どうやら進路調査票のようだった。進路調査の説明書きの下のほうに、自分の希望する進路先を第3希望まで書く欄がある。
「来週までに書いて提出しろ、だってさ」
「…進路ねぇ」
紙をピラピラと揺らしてから、机の上にそっと置いて見つめる。もう進路について考えなきゃいけない時期になったのかと思うと、寂しい気持ちになった。まだ2年に進級したばかりなので本格的に考えなければいけないのはまだまだ先のことだけど、その時がやってくるのもあっという間なんだろうな…。
「早瀬は進学するんだよね? 頭良いし、国立とか狙えるんじゃない?」
「いや、さすがに国立は無理……それに、進学するのかも決めてないよ」
「え、進学しないの!? もったいないよ!」
「だからまだ何も決めてないし、考えてもないってば」
自分の進路について考えたことがないわけじゃない。けれど自分が進みたい方向が定まらず、どこに行って何をしたいのかが決まらない。漠然とした目標みたいなものはあっても、それを明確にして進路に繋げることができなかった。まだ慌てなくてもいい時期なんだろうけど、進む先が不透明だから不安はある。
「へぇ~意外。早瀬って既に老後までの計画とか練ってそうなのに、まだ進路も決まってないんだ」
「あんたは私をどんな風に見てるんだか」
「だって早瀬って見た目は子供っぽいけど、雰囲気が大人っぽいっていうか精神的に老けてるっていうか…」
「なん…だと…」
「ごめんごめん、冗談だって」
達観してる部分があるって自覚しているけれど大人っぽいと言われるとどうも違和感を感じる。確かに同級生達よりも通算して2倍は生きているが、高校を卒業した先は未経験なので人生経験が豊富とは言えない。
私は溜息を吐き、進路調査の紙を折り曲げて鞄の中に入れる。進路のことはまた今度しっかり考えることにしよう。今考えても答えは出ないような気がするし。
「でもさ、大人っぽいと言っても早瀬の恋の話は今まで聞いたことないなー」
「え?」
「一年の時からあんたと同じクラスだけど、恋愛っ気が全然ないんだもん」
「なんでいきなりそんな話に……」
あれ、今まで進路の話をしていた気がするんだけど、脈絡なく恋愛話になったね。まぁ別にいいんだけど、恋愛の話は得意じゃないからちょっぴり返答に困るかもしれない。
「寂しい高校生活送ってるみたいだから心配してんのよ。青春真っ盛りの時期なんだから、もっと色のある時間を過ごさないと!」
「えぇ~別にいいよ。寂しくないし」
恋人なんていなくても、私には友達や家族がいるから別に寂しくなんてない。寂しいどころか毎日充実してて楽しい生活を送っている。
「何言ってんの!青春できる時期なんて限られてるんだから、逃したら後悔するわよ?」
「そう言われてもね」
「昨日だって、うちのクラスの細浜さんが隣の高校の男子に告られてみんなキャーキャー騒いでたじゃない」
「ああ、そういえばそんなことあったね」
なんでもうちのクラスの細浜さんという女の子が、密かに気になっていたらしいイケメン男子に告白されたらしく、その噂を嗅ぎつけたクラスの女子みんなが当人を中心に騒いでいた。恋愛の話をしている女の子達はみんな目が輝いていて、確かに楽しそうだった気がする。一際楽しそうだったのは、頬を染め照れ笑いを浮かべていた細浜さんだったと思う。疑いようもなく嬉しそうで、その表情は見ているこっちも幸せになってしまいそうなくらい魅力的だった。ああいうのを恋する乙女っていうのかな。
「いいよね~細浜さんは。恋人できて幸せそうで。やっぱり幸せな日々を送る為には恋をしないとね!」
うんうんと一人で頷いている。私はどんな反応をすればいいのか解らずに、苦笑いを浮かべて彼女を見ていた。
「そんで、早瀬は好きな人とか気になる人はいないの?」
「……特にいないし、今のところ恋愛に興味はないかな」
「か、枯れてるっ……!! こいつ、草食系ってレベルじゃない…! 現代日本にこんな女子高生がいていいの!?」
いきなり席を立って大げさに驚いている彼女は、私を指さして「ありえない!」と連呼していた。むぅ、なんて失礼なヤツ。別に恋愛したくないってわけじゃないんだよね、一応私も女の子ですし。自然に恋愛する派?だから行動しないだけで。待ってれば運命の出会いがそのうちあるかもしれないって、そう思ってる。……今まで誰かを恋愛対象として見たことが無いってのは、問題あるかもしれないけど。
「んー早瀬はもしかしたらさ、ただ気付いてないだけで実は好きな人がいるかもしれないよ? 身近に特別な人とかいない?」
「……………………」
特別な人と聞いて一瞬『彼女』の顔が浮かんだけれど、これは、そうじゃない。彼女は確かに私にとって誰よりも特別で大切な人だけれど、そういう好きなんかじゃない。はず。最も近い言葉にするのならやっぱり“親友”や“幼馴染”だろう。気持ち的にはそれ以上……家族のように特別で、守りたくて、傍にいたくて。けれどなぜだろう。近いけれど、何かが違う気がする。そんなよく解らない感じが頭の片隅で引っかかっていた。
「おやおやぁ、どうやら心当たりがあるご様子ですな?」
「はははまさかそんな」
ニヤニヤと顔を近づけてくるクラスメイトの顔を押し返して、鞄を掴み席を立った。
「お、逃げるつもり?」
「帰るの。椿と一緒に帰る約束してるし」
「ああ四組の倉坂さんね。いつも仲良いよねぇ」
「まあね」
後ろ向きの格好で彼女に手を振ってから、そそくさと教室を出た。椿のクラスは私のクラスと離れていて、階を上がらないといけない。一年の時は違うクラスでも教室が隣だから良かったのに、二年になってから更に教室が遠くなったので悲しい。今年こそは同じクラスになれたらと思っていたのに、結局二年になっても違うクラスになってしまった。まったく、クラス分けを考えた先生達を呪ってやりたい気分だ。……それでもお昼休みには頻繁に椿のところへ遊びに行っているからいいけど。
「日向さん」
階段に足をかけたところで上のほうから聞き慣れた声が聞こえた。顔を上げて見ると階段の一番上に椿がいたので、手を振って応えたら彼女はパァッと表情を輝かせて階段を慌てて降りてくる。そんなに急いで階段を降りると危ないよ――と言おうとしたところで、短い悲鳴のようなものが彼女の口から漏れた。案の定、足を踏み外して椿の身体がぐらりと傾く。
「椿!」
階段を急いで駆け上がり、彼女が落ちる前に両手で身体を支えてあげたので、落下することはなかった。ぎゅっと目を閉じて私の体にしがみついている椿を見て、ホッと胸を撫で下ろす。ああ、とにかく間に合ってよかった。すぐに反応できた自分を褒めてやりたい気分だ。それと口には出せないけど腕に椿の全体重が圧し掛かっていて、実はその、お、重いです。情けないことに腕がプルプルと震えている。このままだと2人とも落ちてしまいそうなので、力の入らない腕でどうにか身体を押してあげて、彼女の体勢を立て直してあげた。
「あ、ありがとうございます、日向さん」
「うん。無事で良かった」
「迷惑をかけてごめんなさい」
顔を青くして申し訳なさそうな表情で謝ってくる椿の頭を、よしよしと撫でてあげる。階段の一番上辺りから落ちそうになったから恐かったのだろう。身体が小刻みに震えていた。私も椿が足を踏み外したときは、心臓が止まるかと思ったよ。まあでも、ほんと無事で良かった。未だに震えている彼女の手をきゅっと握る。
「さて、それじゃあ帰ろっか」
「はい」
……元気ないな。繊細な椿のことだからさっきのことをまだ気にしてるんだろうけど。
よし、そういうことなら――
「あのさ、さっき名前を呼ばれて上を向いた時、実は椿のスカートの中身が見えちゃったんだよね。椿はそういうとこ無防備だから今後気をつけたほうが――」
はっ!?
……何を言ってるんだ私!?
しゅんとしている彼女を元気にしてあげたくて冗談でも言って笑わせよ☆と思っていたのに、言わなくてもいい事を口走ってしまった! いや、でもこれは今言っておかないと今後もしかしたら椿の下着が誰かに見られてしまう可能性があるわけで注意しといた方がいいかもしれないし身内同然の大切な子の下着を見られるなんて、断じて許せないし。うん。こういうの何て言うんだっけ? 親心ってやつ?
「……………ぁ」
しばらくキョトンとしていた彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。そして恥ずかしかったのだろうか、普段の彼女からは想像できないような速度で逃げ出した。
……ってどこに行くのー!?
「ちょっと椿ーっ!」
赤くなった顔を両手で押さえながら彼女は私を置いて一人走り去ってしまう。ついに椿の姿が見えなくなってひとり残された私は、呆けた顔でこの場に佇んでいた。女の子同士なんだから恥ずかしがることないのにね、と通りすがりのクラスメイトに同意を求めると、「よく解らないけど早瀬が悪いんじゃない?」とのお言葉を頂きました。
………………。
さて、と。
きっと時間が経ったら戻ってくるだろうけど、この場にいても暇だし、椿の後をゆっくり追いますか。
*
あれからようやく椿に追いついて合流した後、私達は並んで帰り道を歩いていた。先程まで真っ赤になっていた彼女はすっかり元通りになっている。どうやらさっきの事には触れて欲しくないらしく、当たり障りのない話題を次々に話していた。椿が元気になってくれればそれでいいので、掘り返すのはやめておこう。
「あ、そうだ。椿って進路調査票はもう書いた?」
「それなら今日貰ってすぐに書いて提出しました」
早っ!?
「進路はもう決めてるの?」
「はい。高校に入学した頃から近くにある大学の教育学部に行こうって決めてたんです。私の学力だと、もうちょっと頑張らないといけないんですが」
「そっ、そうなんだ」
教育学部って国立大にあるイメージだったけど、私立でもあるんだ…。あれ、教育学部ってことはもしかして教師になりたいのかな、椿。
「日向さんは卒業した後どうするか決めてるんですか?」
「……まだ何にも考えてなかった」
「二年生になったばかりですから、まだ大丈夫ですよ。慌てないでゆっくり考えればいいと思います」
「うん」
焦って考えたって結論が出るわけじゃない。それは解ってる。
時間だってまだまだ沢山ある。それも解ってる。
頭ではそう思っていても、不安な気持ちは消えてくれなかった。
「……ごめんね椿。ちょっと用事思い出したから先に帰っててくれる?」
「あ、はい。わかりました」
椿と別れてから来た道を戻り、途中にあった人気の少ない公園のベンチに腰掛けた。特に用事があったわけじゃない。ただ、一人になって考えたいことがあったからここに来た。
「………」
鞄から取り出した進路調査票を見つめる。名前の欄は埋まっているけれど、その他は全て空欄だ。椿はもう自分の進む方向を決めているのに私は何ひとつ決めていない。私が赤口椿だった時は進路を適当に考えていたから迷うことなんて無かったけれど、『今』は違う。一度失った“未来”がどんなに大切なモノなのかを十分思い知ったから、安易に決めることが出来ないんだ。昔の自分は適当な大学に行って、適当に就職して、生きるためのお金を稼いで、気楽に暮らせたらそれでいい。そう思ってた。今の自分もやりたいことがないのなら、同じように進むのもいいかもしれない。適当に決めた進路でも、そこで自分のやりたい何かが見つかるかもしれないし。両親だって、私が行きたいところに行けばいいと言ってくれてる。
(でも)
そう思っても、迷ってしまう。自分でも何を迷っているのか解らないから、答えが出てこない。
「あっ」
進路調査の紙を手からうっかり離してしまい、風に煽られて空へと舞い上がった。ゆらゆらと変則的に動きながら、紙は数メートル先の離れた場所へ落ちていく。慌てて紙を追い駆けると、私より先にそれを拾ってくれた人がいた。多分五十代くらいであろうおじさんはしばらく拾った紙に目を通していたけれど、私のことに気付いたのか視線をこちらに向けた。
「…………………」
真っ直ぐで、透き通った瞳。
優しい口元。
「これは、君のものかな?」
穏やかで心地よい低めの声。
「はい」
「そうか。それじゃあ君があの早瀬日向ちゃんか」
「どうして私の名前を?」
「この紙に名前が書いてあったから。ごめんね、勝手に読んでしまったよ」
申し訳なさそうに拾った紙を渡してくれる。
「いえ、拾ってくれてありがとうございました。それより私のこと知ってるみたいですけど、どうして……」
ドキドキと鳴っている心臓を押さえて、彼を見る。
驚いている私とは反対に、目の前の男性は落ち着いていた。
「赤口瑠美を知っているだろう? 私はその娘の父親なんだ。君のことは娘から聞いていたからね」
目を細めて人の良さそうな笑みを浮かべる。あれからもう何年も経っているから当然なのだが、皺も増え、白髪も目立っているその姿を見て、確かな老いを感じた。けれど根本的には何も変わらないから、全身が震えるようにとても懐かしい気分になる。
「私は赤口壬影だ。娘共々、今後もよろしくしてもらえると嬉しい」
「あ、はい、もちろん」
(……お父さん)
赤口壬影。
私が赤口椿であった頃の、父親。
(それにしても瑠美のやつめ)
親には私のことを何も伝えてないと言っていたのに、どういうことだろう。何も言わないでと約束したはずなのに。もしかしたら赤口椿に関することは何も話さないで、早瀬日向のことだけを話したってことだろうか。
「いつも瑠美や椿ちゃんから君の話を聞いているよ」
父が近くのベンチに座ったので、私もその隣に腰掛ける。
一体彼女達がどんな風に私のことを語っているのかすごく気になるけれど、聞くのも恐い。
「ずっと会いたいと思っていたんだけど、なかなか機会が無くてね」
まあ、会える機会は何回かあったかもしれないが、私が意図的に避けてましたから。瑠美から何回か誘われたけどそのたびに逃げた。だって気まずいし、照れくさいんだもん。それにうっかり余計な事を喋ってしまいそうだから。
「ずっと言いたいことがあったんだ。陽織さんと椿ちゃんのことや、瑠美の相談に乗ってくれたそうだね……ありがとう」
ほんと、何を話したんだ瑠美と椿のお二方は。
「いえ私は何もしてませんから」
「そうかい? 二人とも凄く君に感謝していたし、陽織さんも君と出会ってから随分と明るくなった」
「いやいや。それはきっとご自分の力で乗り越えたんだと思いますよ」
「君が気付かれないようこっそり傍で支えてくれたおかげでね」
「……あの、だからですね、違うんですよ」
言い訳できなくて、言葉に詰まる。ああそうだった。父は陽織に負けず劣らず言葉巧みな人だった。陽織と違っていつも笑みを浮かべているけれど。
私が黙っていると、父は私が持っていた進路調査表に目を向けた。
「進路について考えていたのかい?」
「はい」
「進路が全部空欄みたいだけど……悩んでいるのなら相談に乗るよ? 役に立てるのかどうかは解らないけどね」
「…………………」
にこにこと機嫌良さげに笑っている。
「実は……」
本当は誰にも頼らず自分で考えようと思っていたけれど、久しぶりに父親に会ったからか、甘えたくなったのかもしれない。私は重い口を開いて、悩んでいたことを掻い摘んで話した。
「ふむ、なるほどね。やりたいことも見つからず進むべき道も解らず、どうすればいいか迷ってるわけか」
「はい」
父は少しだけ考えて、すぐに口を開いた。
「君は迷ってるんじゃない。これから先訪れる将来から目を逸らして逃げてるだけだよ」
真っ直ぐな父親の瞳とその言葉に、心臓が跳ねた。まるで自分でも知らなかった弱点を突かれたようで、心がズキリと痛む。
「本当はもう心の奥底で決まってるんだよ、自分の進みたい道が。やりたいことが……あるんだろう?」
「……それは」
「それを認めて、君はようやく迷うことができる。そこから先どうするかは自分でじっくり考えるといい。まだまだ時間はあるんだから」
相変わらず何でも見透かして、全てを解っているんじゃないかと思わせる人だ。昔からそうだった。悩んだり迷ったりしていると、お父さんは決して答えをくれないけれど、求める答えまでほんの少し導いてくれる。厳しくて、優しくて、少し不思議なところもあるけれど、そんな父が私は大好きだった。
「私のやりたいこと」
私が望む未来。
それは朧げだけれど、確かに私の中にある。
やりたいこと。欲しいもの。望んでいるこれから先の“かたち”。
――もう少しで、何かが掴めそうだった。
「さて、そろそろ私は帰るとしよう」
父はベンチから立ち上がる。背中を向けたままで、こちらを振り返ることはなかった。
「良かったら今度家に遊びに来なさい。陽織さんと椿ちゃんも一緒に。瑠美もアイツも、きっと喜ぶだろうから」
「はい」
「ああ、そうだ。最後にひとつだけ聞いてもいいかい?」
「え?」
少しだけ私のほうを見て、微笑む。
「今、君は幸せか?」
父の質問にどんな意図があるのか解らないけど。
「はい、幸せです」
私は今、幸せすぎるくらい、幸せだと思う。これ以上ないって程に。
だから迷わずに胸を張って答えることができた。
「そうか。それは、良かった」
「はい」
私の答えを聞いて、父は満足そうな表情を浮かべる。
そんな父の姿を見て、何かが引っかかった。
(今が幸せ…?)
時が流れれば、否応なしに変わっていくものがある。
それは目に見えるものであったり、目に見えないものだったり。
――ああ、そうなんだ。
私は無意識に未来に進むことを拒絶していたのかもしれない。
だから、先のことを何も決められずにいた。
今のままで満足して、現状を維持していたかったんだ。
私が望む未来を選択して、失ってしまうものがあるかもしれないから。
幸せな今のままで、いたかったのかもしれない。
恐かったんだ、未来が。変わっていくことが。
進んでしまったら、戻れないから、余計に。
進路も、そして何より―――――彼女のことも。
「じゃあ、私はこれで。気をつけて帰りなさい」
考え事をしていた私に、父は優しく語りかける。
「はい。あの……ありがとうございました」
私が会釈すると、父は少しだけ笑みを深めて頷いた。それから再び背中を向けて、ゆっくりと帰っていく。昔と変わらぬその後姿を…私は黙って見送った。緊張したけれど、父の独特の雰囲気のせいか意外と落ち着いて話すことができた。父に会った時はどうしようかと思ったけれど……
会えて、良かった。
「あはは……はぁ」
空を見上げて嘆息する。
まったく、自分の鈍さ加減には呆れるしかない。
長い間どうして気付かなかったんだろう。
進路のことよりも大切なことに気付いてしまった。
気付いたからには、向き合っていかなくちゃいけない。それは望むところなんだけど、なんだか恥ずかしいというか、くすぐったいというか。こう、気を抜いてしまうと悶えそうな感じ。初めて体験するこの感情に戸惑ってしまう。なんだろうね、凄く不思議な感覚だ。
――人と人との繋がりにはいろんな形がある。
それは友情であったり、愛であったり、憎しみであったり、悲しいものであったり。
それは揺るぎない強いモノであったり、消えそうなほど儚い結びつきのモノもあったり。
それは偶然だったり、必然であったり。
不確かで、決して目で見ることは出来ないけれど。
どんな形であろうと、繋がりがなければ人は生きていけないと思う。
今、私と彼女の繋がりの形はどんなものなんだろう。今まではずっと『家族』だと信じて疑わなかったけれど、どうやらそうではないらしい。陽織は私のことを家族のようなものだと思っているかもしれないけど。でも、私は違ったんだ。
ずっと、ずっと好きだった。
ずっと昔から、私は陽織に恋していたんだ。
誰よりも大切で。
狂おしいほどに愛しくて。
いつまでも傍にいたくて。
命懸けで守りたくて。
たった一人の、特別。
家族のようだけど、少しだけ何かが違う。彼女のことを考えると、焦がれるような想いとか切なさとかが襲うから。今までソレの正体が解らなくて持て余していたけど、気付いてしまえばソレが“恋する気持ち”なんだと理解できる。恋なんて縁遠いものだと思っていたのに、ずっと私の中にあったなんておかしな話だ。
気持ちに一区切りつけて、手に持ったままだった進路調査の紙を鞄の中にしまう。進路のことは、とりあえずだけど、大丈夫だ。何のことはない。私がやりたかったことは、自分でも気付かないうちにずっと前から決まってたみたいだから。「自分のことにはとことん鈍いヤツ」と皆に言われて釈然としなかったけれど……その通りだったみたい。あはは、どれだけ鈍いんだろうね私。うん。でも、心の奥でずっと燻ぶっていたものの正体が解ってスッキリした。それを今後どうすればいいのか考えなきゃいけないけれど。
(でも、わくわくする)
現状が変わっていくのは恐いけれど、同じくらい楽しみでしかたない。今のままで十分幸せだけれど、もしかしたらそれ以上に幸せになれるかもしれないから。もちろん失ってしまう可能性だってあるけれど、逃げて後悔だけはしたくない。
先のことはわからないけれど。
今はただ、この愛しい気持ちを、大事にしよう。
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