第26話 回想2 -side Hiori-
――あの男、鹿島雅之に初めて出会ったのは17年前。
椿と出会い、毎日に幸せを見出せることができて、充実した日々を送っていた時だった。
父の紹介で私の家庭教師として突然やってきた大学生が、鹿島だ。見た目は女性受けしそうな好青年であり、肩書きは国内でも指折りの大企業である会社の跡取り息子。家庭教師など必要ないと父に言っても聞く耳を持たず、週に数回、彼は私の元にやってきた。勉強だけを教えてくれれば鬱陶しいとは思えど何も問題はなかったが、鹿島は執拗に私に付きまとったのだ。勉強中にくだらない話をし、休みには外出に誘われることもあった。もちろん興味などなかったから断っていたし、全部無視してやり過ごしていた。
けれどあの日。
思い出したくもない忌々しいあの日に。
私は……あの男に、襲われたのだ。
体格差のある男性に小柄な中学生の少女である自分が力で敵うわけもなく、抵抗など意味を成さなかった。思い出すだけで吐き気がする。眩暈がする。あの時は、舌を噛み切って死にたいとさえ思った。
けれど――頭に響く、彼女の声が、私に生きる希望を与えてくれた。
“陽織”
声と共に再生される、彼女の無邪気な笑顔。
ちょっと馬鹿だけど誰よりも優しい、私にとって何よりも大切で、愛しい女の子。
彼女の傍にずっと居たかったから、どんなに苦しくても、死にたくなかった。
椿は、私の全てだった。
だから、そんな彼女にこの事を知られるのが怖かった。
嫌われるのが、一番恐ろしかった。
だから、隠した。
気持ちを隠すのは昔から得意だったし、嘘を吐くのだって慣れていたから。けれど、彼女は私の小さな変化に気付いてしまった。普段は鈍感なくせに、こういう時だけ敏感な彼女が憎らしい。彼女に嘘をついて騙すのは心が酷く痛んだが、嫌われるよりマシだと思って堪えた。……守るつもりがない約束も、した。知られなければ無かったことと同じなのだから、大丈夫だろうと思っていた。
――結局、全部知られて約束を破ることになってしまったけれど。
それでも彼女は変わらず私の傍に居てくれた。どうしていいのかわからなくてお腹の中に命が宿ったと告げてしまった時も、傍で支えてくれた。彼女が傍に居てくれるのならば、どんなことだって乗り越えられると、そう思った。
私はどれだけ彼女に甘えてしまったんだろう。
どれだけ悲しませて、苦しませてしまったんだろう。
―――そして、ついに罰が下った。
いつものように椿と会っていた庭に向かうと、いつもの場所に彼女が隠れるように座っている。普段なら私が近づいていくと気配に気付いて手を振ってくれるのに、この時は下を向いたまま反応してくれなかった。
寝ているのかと思った。そう、初めて会ったあの時のように。
けど、違った。
近寄ってみて、気付く、その異常な光景に。
「椿……?」
目を疑った。たちの悪い夢を見ているのかと思った。
だって彼女の腹部は真っ赤で、身体のあちこちに赤黒いものがついていて、顔色は真っ青で、荒い息を繰り返していたから。瀕死の彼女の傍に落ちているのは、赤黒い液体がついた特徴的なハサミ。
その光景が現実とは思えなくてしばらく頭が真っ白になっていたけれど、ようやく目の前の現状を受け入れて身体が弾けるように動いた。
「椿っ!!!!」
慌てて駆け寄って、彼女の身体を小さく揺さぶる。
血だらけの彼女は閉じていた目をゆっくりと開けて、焦点の合わない目を私に向けた。
「ひ、おり…?」
「椿! しっかりして、椿、椿、つばきっ!!!」
「だいじょぶだよ、そんな心配しなくても」
「だって、貴女、こんなに血が出ててっ」
彼女の身体を掴んだ時に、彼女の血がべったりと私の手についた。
どう見ても、出血は酷い。
「あは……意外と痛くないし、大丈夫だよ」
彼女は見た目に反して余裕の笑みを浮かべる。
だから私は彼女の言葉を信じてしまい、少しだけ安心してしまった。
「どうして、こんな…一体何が…ううん、それより救急車を呼ばないとっ!」
「ん、お願い」
「待ってて、すぐに呼ぶから、携帯……は部屋だわ。もう、こんな時に限って!!」
「はは、いつも冷静な陽織がこんなに慌てるなんて、ね。でも、お腹の子に悪いから、落ち着いて、よ」
「何言ってるのよこんな時に!!」
椿の携帯を借りようと思ったけど、彼女も今日に限って家に置いて来てしまったらしい。
私は、急いで携帯を取りにいこうと彼女に背を向ける。
「陽織」
後ろから名前を呼ばれる。
振り返ると、いつもの優しい笑みを浮かべた彼女が私を見ていた。
顔は汚れていて、目は力が入っていなくて虚ろだったけれど、穏やかなその笑顔に惹かれてしまう。
「お願い、ね」
「……すぐ、呼んでくるからっ」
救急車を呼ぶために急いで自分の部屋に戻り、携帯で連絡をつけてからすぐに彼女の元へと戻った。
椿は目を閉じていて、疲れたのか、眠っているようだった。
…まったく、暇さえあれば寝るんだから、椿は。
いつもそうだ。遊びに来て寝るなんてどういう神経をしているんだろうと思った。けど、安心した表情をして寝ている彼女の隣にいるのは心地よかったし、可愛い寝顔を眺めているのも好きだった。寝ている彼女の頭を自分の膝に乗せたら、起きた時に凄く驚かれて、面白かったこともあった。起こしても全然起きなくて、悔しかったからキスしてやろうかと思ったこともあった。小さな、そんな些細な思い出も、私にとっては大事な宝物。
「椿」
彼女の名を呼んでも、反応はない。
これは、いつものことだ。
彼女の隣に腰を下ろして、座る。
「いいかげん、起きなさいよ。そろそろ救急車くるわよ? そんな間抜けな寝顔、晒すつもり?」
「………………………」
憎まれ口を叩いても、彼女はぴくりとも動かない。
これもいつもの、こと、だ。
「椿」
温かな風が吹いて、彼女の髪がさらさらと揺れる。
前髪が額に張り付いて気持ち悪そうだったので、そっと払ってやった。
ついでに顔についていた血もハンカチで拭ってあげる。
「……ほんと、に、しょうがない、わね、もう……っ」
彼女の顔を拭いている手が、震えてしまう。
不意に力が抜けて、握っていたハンカチを落としてしまった。
そしてそれを拾おうと下を向いた時に、目に溜まっていた水滴が地面へと零れ落ちる。
「…はは、あははは」
零れ始めたソレは、もう、止まることはなく。
次々と湧いて、頬を伝っていく。
戻ってきた時にはもう、気付いていた、本当は。
椿が、息をしていないことに。
「…椿ぃ……っ」
認めない。
こんなの、認めたくない。
「ぁあああぁぁああああああぁっ!!!」
叫ぶ。
奥から湧き上がるものを吐き出すように。
どうして、どうして、どうしてッ!
どうして彼女が死ななければならないの!?
私が、全部私が悪いのに!
なんで彼女が、こんなになってるのよぉ!!!!
まだ温かい彼女の身体を力いっぱい抱きしめる。
彼女の血が、私の服に沢山ついた。けど、そんなの、どうでもいい。
「ああああ、あ、ああっ………!!!」
声が言葉にならない。
目の前が、真っ暗になる。
無駄に広い庭に、私の慟哭だけが響く。
彼女はもう二度と、私の名前を呼んでくれない。
私の傍で笑ってくれない。
「ぁあ…ぁ……っ!」
私は、世界でいちばん大切な人を、今、失ってしまった。
その事実が呼び込む、絶望感。
そして膨らんでいく罪悪感と憎悪。
「……………………」
どれくらい、動かない彼女を抱きしめてその場に佇んでいただろうか。
私は動かない彼女を離して、そっと地面に横たえる。
この場所にそのまま置いておくのは嫌だったけれど、私には、やらなければいけないことがあった。
救急車がくるまで…少しの間、そこで我慢していてほしい。
……すぐ傍に落ちているハサミを拾って、私は立ち上がった。
調べるまでもない。椿の命を奪ったのはこの鋭利なハサミで、その持ち主は、この屋敷の中にいる。力の入らない足を気力で動かして、あの人間を探す。すれ違う使用人たちが椿の血で真っ赤になった私を見て、顔を引き攣らせ後退りをする。通るのに邪魔だったから、退かす手間が省けてちょうどいい。何か喚いているようだけど、無視をする。構っている時間なんて、ない。
ゆっくりと、ゆっくりと、あの人間が使っている部屋へ歩みを進める。
そして、すぐに辿り着いた。
この部屋の前に来るのは、久しぶりだった。
「……いるんでしょう?」
私は部屋のドアをノックもなしに開け放つ。するとその人物は私が来ることを知っていたのか、部屋の中央に立って私の視線を受け止めている。
「どうして、椿を、殺したの?」
努めて、冷静に問う。
今にも手にしたハサミで目の前の人間を刺してしまいそうになるのを必死で堪えながら。
「……………………」
力が抜けたように立っている奴は、何の感情も篭っていない表情をしている。
何を考えているのか、全く解らない。
こんな人間に、私の大切な人は奪われてしまったのだ。
「答えなさいよおぉッ!!!」
「……ごめん、なさい」
「謝って…謝って済むと思ってるのっ!? 謝ったら彼女が還ってくるとでもっ!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
感情の篭ってない声。その声で何度も何度も謝罪を繰り返す。
その謝罪は、一体誰に対してのものだろう。
「あなたは……いつだって私から何もかも奪って……そんなに、そんなに私が憎いの!? 私が、椿が、何したっていうのよ!!」
「…………………」
「何とか言いなさいよぉおおおおっ!!!!!!」
何も言おうとしない目の前の人間が腹立たしくて、持っていた凶器のハサミを床に叩きつける。
その鋭利なハサミは、目の前にいる人物がよく生け花で使っていたものだ。
「………………」
何を言っても、目の前の相手は表情を変えない。
腹立たしいほどに、私と似ている。
表情に乏しく、想いを胸の内をしまいこんで頑なに言葉にしないところや、顔つきとか。
……それはそうだろう。
目の前に居るのは、正真正銘、私の―――母親なのだから。
似ているのも当然だ。
だからこそ憎しみは増す。
自分を見ているようで、自分も同類だと言われているようで、嫌だった。
「なんで、なんで椿なのよ…私が嫌いなら、私を刺せばいいじゃないっ!!!」
「……そのつもりだったわ」
「……っ!?」
疲れたように、淡々と口にする。
目の前に居る人間が理解できなくて、恐ろしいと思った。
「けど…彼女が……命を懸けて、貴女を必死で守ったのよ」
椿、が?
私を守ってくれた?
どういう、こと?
「そんな子を…私は………」
初めて表情が悲痛なものに変わる。
母は自分の両手を見つめてから、ゆっくりとその両手で顔を覆う。
服の袖に、椿のものであろう血が付着していた。
「一体、椿と貴女の間に何があったっていうの!? どうして、椿は……!!!」
「それは……」
母が今から真実を語ろうとした時、救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。
救急車は私が呼んだけれど、警察は使用人の誰かが呼んだのだろう。
「………………」
母は窓の外を見て、屋敷に車が止まるのをじっと見ている。
「……ごめんなさい」
「ちょっと、まだ話がっ……!!」
自分と似た女は、ゆっくりと目を閉じて、何かを考えているようだった。
そして、私の静止を無視して、自首するために何も言わず部屋から静かに出て行った。
ひとり、この場に取り残される。
力が抜けて、膝だけで立っている状態だった。
何が、どうして、こうなってしまった?
起こった事を理解できなくて、理解したくなくて。
頭の中はぐちゃぐちゃで、上手く整理できなくて、気持ち悪い。
胃の中のものがこみ上げてきて吐き出しそうになるのを我慢する。
再び、涙が溢れた。
皮肉にも、理解できたのは。
もう二度と、彼女に会えないということだった。
それから。
母は殺人の容疑で捕まり、父は母が事件を起こしてすぐ倉坂家の全てを捨てて失踪した。残ったのは私と、倉坂の財産と、私のお腹に宿っている子供。私には…椿が亡くなってからの数ヶ月の間の記憶がほとんど抜けていた。虚ろで、何もかもが夢のようで、現実味がなくて、生きている感触が無かった。
親族は落ちるところまで落ちてしまった倉坂家を切り捨て、接触を絶った。頼るアテも無い、そんな私の面倒を見てくれたのが椿の家族だった。
どんな気持ちで、私の世話を焼いてくれたのだろう。大切な家族を奪った人間の娘を、どうして、見捨てて置かなかったのだろう。
優しい人達だから。
そんな人達だから、私のことを憎めなくて、放って置けなかったに違いない。
私のことを憎めない椿の家族が、可哀想だと思った。
憎む事が出来たのなら、もっと楽だったはずなのに。
家族を失って悲しいはずなのに嫌な顔一つせず私を笑顔で迎えてくれた赤口の人達に感謝せずにはいられない。
しばらくして。
優しい人達に囲まれ支えられて、無事に子供を出産することが出来た。産むつもりは無かったけれど、結果的に椿が守ってくれた命を無駄にするわけにもいかず、椿の家族も産むことを強く望んでくれたから。子供には、椿から名前を貰って、彼女の名前をつけることにした。彼女の両親も名前をつけることを快く承諾してくれた。彼女を忘れないよう、彼女のように優しい人間に育ってくれるよう、たくさんの願いを込めて。
それから色々あったけれど……私は今、生きている。
褒められるような生き方ではなかったし、たくさん周りに迷惑をかけてきたけれど。
あなたのおかげで、こうして生きているわ、椿。
――結局。
母は殺人の容疑を掛けられたものの何故か証拠不十分で釈放され、別の知らない誰かが捕まったらしい。きっと倉坂家かその取引先が偽装工作でもしたのだろう。あまり関わらない方がいいと赤口のおじさまに忠告されたので、真実はわからない。釈放された母は倉坂に戻ることなく、実家の方へ戻っていったそうだ。
母に会う決心がつかなくて、面と向かって話したのは、騒動があったあの時が最期だった。周りが落ち着いてようやくあの時のことを知ろうと思ったときには、母はもうこの世にいなかった。詳しい事は解らないが、病にかかって静かに息を引き取ったらしい。母の死を聞いた時は、まるで他人の死を聞かされたような気分だった。悲しいとか、そんな感情は全く起こらなくて。ああ、そうなんだと、簡単に受け入れてしまった。
あの事件は強盗殺人事件として公表され、周囲は私の母が少女を刺したなんて知らない。本当のことを知っているのは屋敷の人間とごく一部の人だけだ。その人たちも情報を漏らさないよう、色々な手で口止めされているのだろう。犯罪者の娘である私がこの町で普通に暮らせているのは、皮肉にも倉坂家の情報操作のおかげだった。
……あの時、母と椿の間に何があったのだろうか。
どうして、あんなことになってしまったのだろうか。
事件の真相は多分、当事者しか解らない。
だから誰も、あの日の真実を知らない。
もう、解らないのかもしれない。
――事件の全てを知っている人はもう、この世にはいないのだから
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