第27話 陽が昇る



 無造作に伸びた草や木の枝を掻き分けて、足場の悪い獣道を進んでいく。

 彼女が私の手を引いて何度か外へ連れ出してくれたおかげで、屋敷への道のりは覚えている。視界が悪く、そのうえ久々に通るので迷わないか心配だったが、いざ通ってみると大丈夫だった。

 しばらく森の中を歩いて、開けている場所へと辿り着く。


「意外と、変わってないわね」


 この場所に来るのは16年ぶりだった。この敷地に人が住まなくなり、管理する人間が居なくなったので相当荒れていると思っていたが、そこまで変わっていないようだ。初めてあの人と出会った思い出の場所だから、懐かしさが溢れてくる。

 ――それと同時に鋭い痛みを感じてしまうけれど。


 庭を歩きながら、目の前に建っている古ぼけた屋敷を見上げる。こんなに近くでこの屋敷を見るのはいつ以来だろうか。今の家に引っ越してから、この屋敷がある方向に来ることは少なかったし。もう二度と入ることはないと思っていたけれど、またこの屋敷に入ることになるなんて。

 ふと過去のことを思い出してしまい、胃の辺りが気持ち悪くなる。考えないようにしても心の奥に押し込んでいた絶望や憎しみ、悲しみなどがふつふつと湧き上がってしまう。唇を噛み締め、込み上げてくる吐き気を我慢し重たい足を一歩づつ前へ進めていく。そして屋敷の中へ入り、待ち合わせの場所へと向かった。



「やあ、早かったね」


 扉を開けると、あの男がだるそうに目の前に立っている。ニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべていて、不快だった。早くこの場所から立ち去って、この男を視界から消してしまいたい。

 さっさと要件を終えてしまおうと思い、口を開く。


「以前会った時に、椿に会うなと、言わなかったかしら」

「はは、つれないなぁ。別にいいだろう? 彼女は俺の子供なんだから」

「よくそんな事を言えるわね、図々しい。私は貴方を父親だとは認めていないし、認知もしていないんだから父親だと名乗る権利もないはずよ」

「それでもあの子には、俺の血が流れてるだろう?」

「……それだけよ」

「じゃあいいじゃないか。俺の可愛い子供なんだから会っても」

「ふざけないで」


 怒りのあまり、声が震える。

 私が睨んでも彼は全く動じることなく、余裕の笑みを浮かべていた。


「……………何が目的なの」

「酷いなぁ。この間言ったじゃないか、ちゃんと籍を入れて結婚しようって」

「笑えない冗談だわ。貴方が欲しいのは私でも椿でもなくて、倉坂家の財産でしょう?」

「なんだ、全部筒抜けだったか。はは、そういえばキミは昔から聡明な人だったね」


 少しだけ笑みを抑えて、探るように私を見つめる。


「貴方に会ってすぐ調べたのよ。今になって私たちに接触してきた理由をね」

「……ほう、なるほど」

「貴方の経営している会社の取引、上手くいっていないんでしょう? 損失した額も相当多いみたいね。今月末までに頭金を入れないと危ないって聞いたけど」

「まったくどうやって調べたんだか。本当に恐ろしいよ、さすがあの女の子供だ」

「………っ」


 歯が折れてしまうんじゃないかと思えるほど、強く噛み締める。

 そうか、鹿島は倉坂と強い繋がりがあったから当然あの事件のことを知ってるはずだ。


「気に障ったかい?……ま、キミの言ったことはほとんど正解だったわけだけど」


 ふう、と息を吐いてこっちに近づいてくる。


「俺だって資金に困っていなきゃ君達に近寄ろうなんて考えないさ」

「それはこっちの台詞ね。私だって二度と貴方に会いたくはなかったわ。よくぬけぬけと私の前に顔を出せるわね」


 吐き捨てるように言うと、何がおかしいのか男は声に出して愉快そうに笑った。

 ああ、変わってない。この男は根元から全身まで腐っている。


「ははは、はぁ…。まったくその通りだよ、陽織」

「……………」

「それじゃあ、交渉に入ろう。俺が欲しいのはキミが相続したこの倉坂の屋敷と土地だ」


 この辺りの敷地は立地が良く売値も高いうえに倉坂の保有する土地は普通より数倍は広い。

 屋敷も年季は入っているが、いい素材で作られているのでそれなりに高く売れるはずだ。


 けれど、私がこの男に財産を譲る義理などない。


「どうして私が貴方に財産を譲らなくちゃいけないのかしら」

「お互いの為だよ。キミが譲ってくれれば俺は二度とキミ達の前に現れないし、干渉しない」

「……断ると言ったら?」

「キミの大事な子供に全てを話す」

「脅すつもり?」


 本音を言えば、財産なんてどうでも良かった。相続した屋敷も土地も、現金も、一切手をつけていない。倉坂の財産など、欲しければくれてやると言ってやりたかった。けれど……ほんの少しだけ、この屋敷を手放したくないと思っている気持ちがあったから。

 思い浮かぶのは、あの庭で彼女と遊んだ、眩しくて優しい記憶。この世界に残っている彼女に関わる全てのモノを、ずっと手元に残しておきたかった。


「何を言われても、貴方に此処を譲るつもりはない」


 椿には、あの事を語る覚悟はある。出来れば話したくないと思っていたけれど、いつかは話さなければいけないことだから。それに財産を譲ったとしても、この男は再び私の秘密を餌に脅してくるだろう。


「なら、しかたない。強制的にお願いするとしようか」

「っ!?」

「ここで、譲ると約束してくれないと………昔のようにするよ?」


 細められた鹿島の目を見た途端、私の身体は恐怖で強張ってしまう。その様子を見て男は厭らしく笑った。忘れたくても忘れることが出来ない、あの悪夢を鮮明に思い出してしまう。ゆっくり私に近づいてきたので逃げようと足を動かしてみるが、恐怖で身体が固まって動かない。男は心底楽しそうな顔で、私を見ている。


「俺だって、こんなことしたくないんだけどね?」


 心にも思っていない言葉を吐いて、私の肩を強く掴み、顔を寄せる。

 恐怖と嫌悪感が混ざって、泣き叫んでしまいそうだった。


「譲ってくれれば、しないのになぁ?」

「…ぁ………っ」


 私の顔を覗き込んだまま、服に手をかけて脱がそうとしたところで止める。これが最後の交渉ということだろう。こんな男に負けたくはないのに、逃げてしまいたいと思っている弱い自分がいる。今すぐこの男に全てを渡して安全な場所へ駆け込みたいと、そう思っている。

 ごめんなさい、ごめんなさい、椿。

 私は、あの時と全く変わらずに生きてきてしまったみたい。

 こんな私だから、大切なものを、ずっと傷つけてきたのだ。

 大切なものを、何一つ、守れないのだ。

 

 何も言わない私に焦れたのか、男は行為を再開しようと手を動かし始め―――その瞬間。



 バリンッ! とガラスが割れる大きな音がした。



「なんだ!?」


 鹿島は行為を止めて後ろを振り向き状況を確認する。私も伏せていた顔を上げて見てみると、何者かが棒のようなもので割った窓ガラスに手を突っ込み、施錠を解除するところが見えた。ガラスの破片を踏まないように気をつけながら、器用に窓を乗り越えて誰かが部屋に入ってくる。


「おじゃましまーすっと」

「お前は……」

「…………どうして」


 意外な人物の来訪に驚いて唖然としている私たちの目の前で、この場の空気に似合わない温かな微笑を浮かべる少女。そこにいたのは、つい先日うちの隣に引っ越してきたばかりの女の子だ。

 予想できなかった事態に呆然としていると、男は私から離れて少女の方に体を向ける。


「だ、駄目じゃないか、勝手に人の敷地内に入ったりしたら」

「合意もなしに女の人を押し倒したりするほうが駄目だと思いますよ」

「ちっ」


 男の悪態にも、彼女は怯まない。

 それどころか力強い目で相手を見据えていた。


「くそ、駒を控えてたとはな……入り口のセキュリティは起動しておいたし、周囲は確認したつもりだったが」


 何を言っているんだろうか、この男は。彼女は隣に住んでる何も知らない、何の関係のない、ただの女の子だというのに。それに入り口のセキュリティを反応させずに敷地に入るには、あの抜け道を通ってくるしかない。

 彼女は何故、私とあの人しか知らない抜け道を知っていたんだろう。どうして今、ここに彼女が居るんだろうか。


「陽織」


少女は私の姿を確認すると、ゆっくりと近寄ってきた。


「大丈夫? どこも、怪我してない?何もされてない?」

「え、ええ。大丈夫よ」

「間に合って良かったぁ」


 私の無事を確認すると、先程までの険しい表情を崩して嬉しそうに笑い、安堵の息を吐いた。そんな少女の笑顔が、私のよく知っている彼女のものと重なって見えてしまい、心臓が大きく跳ねた。私は何を、考えているんだろう。あの人はもう、この世にはいないのに。

 頭を振って己の幻想を振り払う。それより、目の前にいる少女が何故ここにいるのか気になった。


「ねぇ、どうして貴女はここに来たの?」


 私の問いに彼女は口を噤んで何も答えず、ただ困ったように笑うだけだった。

 そして乱れていた私の髪と服を元に戻して満足そうな顔をする。


 ――――よくよく考えれば、不思議だった。


 この少女は、まるで全てを知っているような素振りで私たちのことを気にかけていた。この子が居てくれなければ、きっと椿とも関係を悪化させていたかもしれないし、あの男の言いなりになっていたかもしれない。私達のことを知っているのなら納得できるが、この少女はつい先日この町に引っ越してきたばかりで、知り合って間もないはずだ。

それなのに彼女は、私の身近な人でさえ知らないようなことを知っているような口振りだった。


 私の前にいる優しい目をした少女は……一体何者なんだろうか。


「俺と彼女は今、大事な話をしているんだ……邪魔になるから子供は早く帰りなさい」

「邪魔するためにここにいるんですよ、鹿島雅之さん」


 彼女は再び表情を硬くして、男の方を向く。


「……墓地でも俺の邪魔してくれたよな。ったくお前、どこまで邪魔すれば気が済むんだ」

「陽織の幸せを邪魔するつもりなら、何度でも」


 彼女と男…鹿島はお互いに睨み合う。

 先程までとは違い、鹿島に余裕はなく険しい表情をしていた。

 反対に彼女は堂々とした態度でその場に立っている。


「お前はどこまで知ってるんだ? なぁ、この女が人殺しの娘だってことも知ってるのか?」

「っ!?」


椿にも話していない真実の欠片を、鹿島は私たちの過去に何の関係もない少女に告げる。

誰にも知られたくなかった事実を聞かれてしまい、体から力が抜けてしまった。


「…………」


 しかし少女は動揺することなく、目を鹿島から逸らすこともなく、ただ黙っていた。


 どう思われてしまうだろう。殺人者の子供である私を、そしてその娘の椿のことを、どう思うだろう。犯罪を起こした人間の血を引いている私達を、嫌悪するに違いない。そして、やがて離れていく。椿はまだ出会ったばかりの彼女によく懐いていたから、そうなったら酷く悲しむだろう。娘の悲しむ顔を想像して、胸が痛くなる。


「そんなことはどうでもいいよ。とにかく、あんたが最低の馬鹿野朗ってことは、よーく知ってる」

「……ああ?」

「駄目っ!! 逃げなさいっ!」


 殺気立った鹿島は少女に近づいていき、胸倉を掴んで自分の方に引き寄せる。

 彼女を助けようと思っても、恐怖の抜けない私の体は動いてくれなかった。

 このままでは、彼女が傷ついてしまう!!

 あの時と同じように、今度は彼女が―――


「……っ!」


 少女は慌てることなく、そっと男の両腕を掴んだかと思うと、素早く動き、足を引っ掛けて払い、自分よりも大きな男の体を流れるように床に押し倒す。

 ズドンっと大きな音がして、埃が舞った。


「あぐぅっ…っ!?」


 彼女は掴んでいた男の腕を離し、傍に立って鹿島を見下ろしている。

 男は床に打ちつけた背中が痛むのか、寝転んだまま背に手を当ててうずくまっていた。


「今は持っていないけど、昔は柔道の段位を持ってたんだよね」


 パンパン、と服を叩いて埃を落としている。

 そしてニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべて、鹿島を見下ろしていた。


「くっ…おまえっ……こんなことして、いいのか!? この女の秘密を言いふらしてやる…!!」

「…………」

「ずっと付きまとって、陽織もっ、その子供もっ! 犯罪者の血縁らしく陽の光の当たらないようにしてやるっ!!」

「ほんと、最低なやつ」

「なにぃ!?」

「その時は、こちらも脅迫罪で訴えるよ。幸い、法律関係に明るい身内がいるからね」


子供とは思えないしっかりとした口調で、目の前の男を圧倒する。


「はぁ? そ、そんなことで、警察が動くわけないだろ。俺は大企業の社長の息子なんだ、警察なんて金でどうとでもできるっ」


 腕で体を支えながら上半身だけを起こして、見下ろしている少女を弱々しくも睨んでいた。


「うちのお母さんの知り合いにまあまあ偉い人がいてね。その人の勢力に頼めば、どうなるか解らないよ?」

「はあ?」


 鹿島は馬鹿にしたような呆れ顔で少女を見ているが、少女は気にせず冷静に男を見据えている。


「うちの母親は弁護士で、なんでか人脈も広いんだよね。……で、もし陽織たちに何かしたら、その時はこれを証拠に訴えるのでよろしく」


 彼女は携帯を取り出して、ボタンを押すと、私と鹿島、そして彼女の声が流れ始めた。どうやら先程の会話の一部始終がしっかり録音されているようだった。彼女の言う人脈とこの証拠があれば、私達は有利に違いない。


「うっ、く、くそ……くそぉおおおおおおお!!」

「もう二度と、陽織と椿の前に現れないで」

「ふざけるなっ!! 簡単に諦めてたまるかよ!」


 鹿島は悔しそうに痛みの抜けない体を揺らしてふらふらと立ち上がり、そして少女と再び対峙する。しばらく無言でお互いに睨み合い、緊迫した息苦しい空気がこの部屋を支配していた。


「陽織を襲った時のように、私にも同じことをするつもり?」

「………それはお前次第だ」


 凄んだ鹿島の言葉にも彼女は怯えることはなくて、不愉快な顔を隠さずに相手を睨んでいる。


「私は貴方を一生許さない。陽織を苦しめた貴方を、絶対に許さない」

「憎んでもらって結構だよ。お前に憎まれてようが俺はどうとも思わないからな」


 怒りで満ちていた少女の顔は、ほんの少しだけ悲しそうに歪む。



「……陽織のお母さんは、貴方の事を本気で愛していたのに」


え?


「っ!?」


 これ以上ないほどに鹿島の目が見開かれる。

 私も開いた口が塞がらない。

 彼女は今、何と言っただろう? 誰が、誰を愛してたって?


「な、なんで…なんでそんなこと…知ってる…? その事を知ってるのはあの女と、あいつだけのはず」

「それなのに全てを陽織に押しつけて…………ひとり、逃げたんだ」

「なんだよ、お前………なんなんだよぉっ!!」


 激昂した鹿島は彼女を壁側に追いやり、強い力で肩を押さえつけた。


「……っ!」


 少女は苦悶の表情を浮かべる。

 苦痛に歪む顔を、男は気持ちの悪い笑みを浮かべて眺めていた。


「やめてっ!!!」


 動けない。

 彼女を助けたいのに、どうしても身体は恐怖で動いてくれないっ!!


「…っ、どうして……!」

「……くく、お前はそこで黙って見ているんだな」

「………っ」


 男は彼女を壁に押しつけたまま、目線だけをこちらに寄越した。

 あの男の鋭い目を見ただけで、情けないほどに身体が竦んでしまう。


「で、誰に聞いたんだ。あいつら以外に知ってる人間がいたとはな」

「……………」

「答えろよ」

「……………」

「痛い目を見ないと、解らないのか?」


 顎を持ち上げて、顔を近づける。

 それでも少女は何も言わず男の視線を真正面から受け止めていた。

 衰えることのない、強い意志の宿った彼女の瞳。

 彼女は大の男に睨まれて恐怖を感じないのだろうか?


「誰にも何も聞いてない」

「はあ? じゃあなんだ、お前はあの時あの場所で全てを見ていたって言うつもりか?」

「…そうだよ、って言ったら?」

「は、ははははははははっ! 何言ってるんだお前。頭おかしいんじゃないのか? えぇ?」


 彼女はあの時生まれていなかったはずだから、あの場所に居たなんてことは絶対にありえない。

 鹿島もそれを解っているから、笑い飛ばしているのだ。


「言え。誰に、あの時のことを聞いた?」

「赤口、椿」

「え!?」


 突然あの人の名前を出されて、鼓動が跳ねた。


「それもありえないな。あいつはあの時死んでいるから、会ったことはないはずだ」

「名前、知ってたんだ」

「面倒な事にならないようにあの子供の事は後で調べたからな」


 ちょっと、待って。

 どうして鹿島が赤口椿のことを知っているの?

 椿には鹿島のことを話したけれど、会わせたことは一度もないはずだ。

 私が知らない間に、椿は鹿島と接触していたっていうの?


「この屋敷の死角にある庭の端で、偶然貴方と陽織の母親が密会しているのを見つけた少女が、赤口椿。合ってるよね?」

「…………………」

「その時、2人は揉めてた。陽織の妊娠に気付いた母親が相手が貴方であることを見抜いて、問いただしてる最中だった」

「なにを……っ」

「鹿島雅之さん、貴方は陽織のお母さんと関係を持ってたんだよね」

「っ!?」


 みるみる鹿島の顔色が悪くなり、呼吸が荒くなっていって、動揺を隠せないようだった。母とこの男が交際していたなんて、私は全く知らなかった。父だって、屋敷の使用人だって知らなかったと思う。まるでその時のことを思い出すかのように、少女は私の知らない真実を語る。


「陽織のお母さんがどういうことなのか問い詰めたら、貴方は『自分は悪くない、誘惑してきたのはアンタの娘のほうだ』って言って全て陽織が悪いように言ったよね」

「…………………」

「自分がした行為を全部押し付けて、お母さんの憎しみの矛先を陽織に向けさせた」

「……な、なん、で…知って…」

「虚ろな表情でハサミを握り締め、娘の元へ行こうとしている彼女から、逃げ出したんだっ!!」

「お、俺は悪くないっ!!」


 必死な形相で、鹿島は叫ぶ。

 目は血走っていて、口元は歪んでいた。


「倉坂の全てを手に入れるために優しくしてやっただけなのに、あの女、利用されてるとも知らず本気にしやがって……はは、笑えるよなぁ!!」

「…………」

「あの女が、勝手にやった事だ!! 俺は何もしてない! 悪くない!」

「…………」

「あの女のせいで倉坂は没落し、俺の練ってた計画は失敗したんだ。そう、そうだ、俺は被害者なんだ!」


 狂った男はブツブツといい訳ばかりを並べている。


 ああ。


 夫にも愛されず、娘にも愛されず、こんな最低の男にまで愛されることはなく。

 どれほどの孤独を抱えて、あの人は生きていたのだろう。

 どれだけあの人は、心を凍てつかせていたのだろう。

 そんなの想像もつかない。


 なんて、不器用なのだろうか。


 母も、私も。


「……ふざけないでよ」


 ふつふつと熱い感情が湧いてくる。

 それは怒りか、悲しみか、それとも後悔か……解らないけれど。

 今まで動かなかった身体が、戒めから解き放たれたように、動いてくれる。

 力が入らなかった足を動かして、鹿島に少しづつ近づいていった。

 目を逸らさないで、目の前にいる男を睨みつける。


 もう、恐怖など、微塵も感じない。


「母も、私も……アンタなんかの玩具じゃないっ!!!」

「ひっ!?」


 鹿島を彼女から引き剥がして、両手を男の首元に添えて力強く締め付ける。

 さらに力を込めると、喉が振るえ、口から苦しげな声が漏れた。


「ぐうぅ…!?」

「陽織っ!」

「……大丈夫よ。こんな男、殺してやる価値もないから」


 本当は、感情に任せてこの男の首をそのまま絞めてやりたいと思った。

 それほどまでに、憎い。心の底から、葬りたいと思っている。


(けれど私は、独りじゃないから)


 これから守っていかなければいけない、かけがえのないものがあるから。

 こんな男に、私の人生を捧げるつもりはない。


「げはぁっ…がはッ!!」


 解放してやると、鹿島は怯えるように私たちから距離をとって部屋の隅へと移動した。さっきまでの威勢はなりを潜め、身体を小刻みに震わせている。


「ははは、や、やっぱり、お前、あの女の娘だなっ! 俺を殺す気か!」

「………そうね。私はあの人の娘。それは未来永劫変わらないわ」


 私は母に愛された記憶なんてない。

 私は母を愛した記憶なんてない。

 母は私に愛された記憶なんてなかっただろう。

 母は私を愛した記憶なんてなかっただろう。


 それは、本当に?


「…………」


 そんなのもう解らない。

 だって確かめようにも、あの人はもうこの世に居ないんだから。


 私は親に愛されたことがないと思っていた。決め付けていた。

 だけど――もしかしたら、ほんの少しだけでも愛してくれていた時も、あったんじゃないかって、いまさら思った。辛いことや嫌なことが多すぎて、記憶がないだけで、もしかしたら。いまさら…そう、いまさらだ。そんなこと考えても、もう手遅れだけど。今でも憎んでいるし、この先あの人のしてきたことを許すつもりなんてないけれど。少しだけ、ほんの少しだけ、信じてみたいと思った。自分の、母親のことを。


「私は……母とは違う道を行くわ。途中まで同じ道を辿ってきてしまったけれど」


 ここは分岐点だ。

 最良の未来の為に私は今、自分の足で自分の歩くべき道に一歩踏み出さなければいけない。

 そして、進むのに要らないものは、整理して置いていこう。


「鹿島。この屋敷を貴方にあげるわ……私には、もう必要のないものだから好きにしなさい」


 屋敷なんかなくても、思い出ならこの胸の中にちゃんとあるから、大丈夫。

 未来を犠牲にして過去を守るのは、今日でお終いにする。


「正式な手続きは後で代理人を立てて行うから、もう二度と、顔を見せないで」

「……………」

「……その顔を再び見せたらその時は……我慢できないかもしれないわ」


 強く拳を握り締める。

 すると鹿島は表情を強張らせて、焦り始めた。


「……っ!! わ、わかったッ……俺だって金さえあればお前らなんかと関わりたくなんてないからなっ」

「早く…その口を閉じて、消えなさい」


 鹿島はじわじわ後退りをしながら部屋のドア辺りまで来ると、逃げるように慌てて出て行った。あんな惨めな男に今まで恐怖を感じていた自分が情けない。


(……終わった)


 厄介ごとがようやく片付いたので、肩の力を抜いて大きく息を吐く。開放感が全身を駆け巡って、心地良い。心なしか随分と気分が軽くなった気がする。ああ、これで私は、何も気にすることなくあの子と一緒に生きていけるんだ。そう思うとじんわりと喜びが湧き上がってきたので、その感覚に身を任せて浸っていた。


「おつかれさま」


 あんなことをされたのに少女は何もなかったような顔で、私の傍に寄ってくる。まだ子供なのに随分と肝の据わった子だった。


「頑張ったね」


 その言葉は、私の心を大きく震わせた。

 まるで私の過去を労わってくれるように、彼女は優しく言うものだから。

 今まで背負ってきたモノとか、悲しみとか、寂しさとか、後悔とか、私が抱えていたものを解っているかのように。

 『全て』を見守っていたかのように。


「貴女は……貴女は、どうしてここにいるの?」

「偶然通りがかった」

「ありえないわね」

「あ、あはは、やっぱ誤魔化せない?」


 彼女は、知っていた。

 目の前にいる少女は当事者である私が知らないことを沢山知っていた。

 だからこそ、私は知りたい。


 彼女が、何者なのかを。


「……一応、ここに来た理由ならあるよ」


 そう言うと彼女はポケットから何かを取り出して、私に差し出した。


「これは…」

「椿に頼まれたんですよ。嫌な予感がするからこの『お守り』を持っていってくださいって」


 彼女から手渡されて私が握っているのは、赤口のご両親から譲ってもらった大切なもの。いつも肌身離さず持ち歩いて、お守り代わりにしている、あの人の携帯だった。


「そう……わざわざ、ありがとう。でも、それは私に会いに来る理由であって、此処に来る理由にはならないわ」


 瑠美ちゃんからこの屋敷のことを聞かされていたのなら納得できるんだけど。それでも正面は人が入れないようになっているし、抜け道は隠されていて見つけるのは非常に難しい。この少女は、『赤口椿』しか知らないことを、知っている。


「そうだね。……陽織も自分の力で過去から歩き出したみたいだから、もういいよね」

「………」

「あ」


 少女は部屋で何か見つけたのか、急に動いて棚の上から何かを持ってきた。

 埃を被っていたようで、数回掃ってから私にソレを見せる。


「ルービックキューブ?」

「賭けをしよう」

「賭け?」


 楽しそうに、少女は笑う。

 先程までの大人びたものではなく、年相応のあどけない笑み。


「このキューブの全面の色を揃えたタイムを競争するの。タイムが早いほうが勝ちってことで」

「何を賭けるの?」

「陽織が勝てば、陽織が知りたいことを全部教えてあげる」

「………」

「どうする?」

「わかったわ」

「まずは私からやるね。えーと、キューブの面をバラバラにして欲しいんだけど」


 キューブを受け取って滅茶苦茶に面を回し、これでもかというほど色をバラバラにする。

 それを彼女に渡すと、数秒だけ面を眺めてから納得したように顔をあげた。


「じゃあさっき渡した携帯でタイムを計ってね」

「ええ」

「よーい、スタート!」


 彼女は素早くキューブを回して、バラバラになった色を順調に揃えていく。大雑把に回しているように見えるが、どこをどう回わせば色を揃うのかを考えながらやっているのが解る。カチャカチャとキューブを回す音だけが、この静かな部屋に響き渡っていた。


「はい、完成」


 しばらくして出来上がったキューブを私に見せる。

 キューブの全面は綺麗に色が揃っていた。

 …速い。

 タイムを見てみると、私が過去計ったときの記録より少しだけ速かった。


「昔も今もずっと練習してたからね。……悔しかったから」

「…………………」

「さ、次は陽織の番だよ」

「ええ」


 キューブを彼女に渡して、色をバラバラにしてもらう。

 この遊びをするのも随分と久しぶりだ。子供の頃の、あの時以来だろうか。

 少女が一生懸命バラバラにしているのを見つめながら、あの頃を思い出していた。

 私のタイムを追い越そうと躍起になっていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。


「はい、どうぞ」


 私は色がバラバラになったキューブを受け取り、面を少しだけ見つめて、彼女にスタートの合図を送る。


「よーい、スタート!」


 掛け声と共に、私の指はキューブを動かし始める。

 懐かしい感覚。冷静に面を見つめ、頭の中で計算しながら素早く回していく。

 昔からこの遊びは得意だったけれど、久しぶりにやるから思うように動いてくれない。

 でも……きっと大丈夫。


「できたわ」


 色が全面揃っているキューブを見せると、彼女は目を細めて小さく笑った。


「やっぱり敵わないなぁ。いっぱい練習したのに、不公平だ」

「そんなこといわれても」


どうやら私のタイムの方が早かったらしい。彼女は負けたというのに全く悔しそうな素振りを見せず、最初からこうなることを知っていたような顔をする。そして、何故か今のやり取りを懐かしいと感じてしまう。どこかで誰かと、過去に同じやり取りをしたような、そんな気がして。


「それじゃあ教えてもらいましょうか。貴女がどうしてこの屋敷に来たのか、そして、どうして色々知っていたのかを」


加速する鼓動を抑えながら、さっそく賭けの報酬を貰うとする。


「うん。もう、“罰ゲーム”は終わりにしよう」

「……………え?」


 彼女はルービックキューブをそっと棚に戻してから、私の正面に立つ。

 しばらくお互い見つめ合ってから、彼女はようやく口を開いた。




「私の名前は早瀬日向。16年前に死んだ赤口椿の生まれ変わりだよ」




「生まれ…変わり…?」



「うん」


 真面目な顔で、冗談みたいなことを言っている。


「だから屋敷の入り方だって知っていたし、陽織が知らない母親と鹿島のことや、あの事件のことも知ってた」


 ありえない、そんなこと。

 そんなことは、ありえるはずがない。


「ふ、ふざけないで……」

「やっぱり信じてくれないかぁ」


 彼女はどこか悲しそうに笑っている。

 それでも少女は自分の言ったことを撤回しようとはしない。

 冗談だとは言ってくれない。


「信じてくれなくていいよ。けれど、本当の事だから陽織の質問にはこう答えるしかないよ」


 私は、非科学的なことは信じていない。だから、この世界に彼女が居るはずないと思っている。二度と、会えないと思っている。目の前にいる少女が椿の生まれ変わりだなんて、そんなこと信じられるわけがない。

 それじゃあどうして、この子を見ていると彼女のことを思い浮かべてしまうんだろう。とても懐かしい気持ちになってしまうんだろう。少女が見せるちょっとした仕草や口調が彼女のものと同じなのは、偶然なのだろうかとか。赤口椿しか知り得ないことを知っていたのは、どうしてなのだろうかとか。

彼女の言葉を信じるのなら私の疑問は全て解決するけれど、けど、どうしても、心が受け入れてくれない。


「……っ」


 私はずっと願っていたから。

 幽霊でも、夢でも、幻でも、妄想でも、何でもいい………彼女に会いたいと。

 そんな資格がないことは十分理解しているけれど、それでも会いたくて。

 彼女の明るい声を聞きたくて、困った顔を眺めていたくて、陽だまりのように暖かい笑顔を向けて欲しくて。


「陽織」


 本当は解っていたのかもしれない。

 もしかしたらって、どこかで気付いていたのかもしれない。

 でも、私には彼女に会う資格なんてなくて。

 だから気付かない振りをしていたのかもしれない。

 今思うと、そんな気さえする。


「昔、約束を破ったら……嘘ついたら暫く陽織に会いに来ないって、指切りしたよね」


 約束を破った罰をずっと背負っていくつもりだったのに。覚悟していたのに。

 それを彼女はあっさりと解き放つと言うのか。



「もう、いいよ」



 途端、涙が溢れる。

 いろんなものが、崩壊する。

 子供みたいにポロポロと雫が溢れて頬を伝い、落ちていく。


「…………ぁ」


 心の奥から熱いものが込み上げてくる。

 それは罪悪感とか、寂しさとか、懐かしさとか、愛しさとか様々なもので。

 ずっと溜め込んでいたものが溢れてきて、止めることが出来なかった。


「つば、き?」


 目の前には優しい笑みを浮かべた、女の子。

 私の記憶にある幼馴染みとは全く違う顔で、体格も声も似てないけれど…。


 信じられないけれど。


 鳥肌が立つ。


「本当に、椿?」


 視界が涙でぼやけてしまって彼女の表情は解らないけれど、きっと困った顔をしているに違いない。そんな気がする。


「遅くなって、ごめんね」



 会いたかった。


 会いたかったよ。


 ずっと会いたかった。


 生きていてほしかった。


 傍に居てほしかった。


 自分勝手な我儘ばかりで、ごめんなさい。

 でもこの数年間、隠すことは出来てもこの想いはずっと消えることはなかった。

 それを今、ぶつけても、いいんだろうか?

 本当に、もう、いいんだろうか?


 いろいろ考えて、頭がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからなかったけど――


 もう、我慢の限界だった



「椿っ!!!」


「陽織」



 すぐ傍に居た彼女を力いっぱい抱きしめると、彼女も同じように抱き返してくれる。暖かくて、優しくて、そんな感覚にまた涙腺が緩み、涙が零れてしまう。腕の中に納まっている温もりが……ただただ、嬉しくて愛しい。


「あれ、陽織はこういう非現実的なことは信じてないんじゃなかった?」


 からかうように言うこの言い方も、椿らしい。全てが懐かしくて、愛しくて、長い間空いていた心の穴が塞がっていくのを感じる。今でも彼女が椿だなんて信じ難いけれど、理屈ではなく本能が彼女だと認めていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい椿…………会いたかった」

「私も、ごめんね。大変な時に傍に居てあげられなくて」

「っ!」


 その言葉に感極まって、叫ぶように声を上げて泣いた。

 椿は子供をあやすように私の背中を優しく撫でてくれる。

 年下の子供を抱きしめて大声で泣いている姿は、さぞ滑稽なことだろう。

 でも、そんなことは、些細な事だ。


 そう


 目の前に在る奇跡に比べたら、どうでもいい小さなこと。


 

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