第25話 隣に咲くふたつの春
「…ん……?」
力の入らない身体をゆっくりと起こして、辺りを見渡す。まどろんでいた意識がだんだんハッキリしてきて、ようやくここが自分の家ではないことを思い出した。
(ああ、そっか)
どうやら陽織と椿を待っている間にうっかり寝てしまっていたらしい。ソファで寝ていたせいか、少しだけ身体が痛かった。
「ふあぁ……でも良く寝たなぁ」
「あら、起きたのね」
「んー……」
「ご飯にします?お風呂にします?それとも…タ・ワ・シ?」
「……………」
大きく背伸びをしている時、目の前に不審人物が居ることに気付いてそのまま固まってしまう。その人は悪びれもせずニコニコといい笑顔を浮かべてこっちを見ていた。というか手に持っているタワシをどうするつもりなんだろう。いや、ここは突っこんだら負けだ。スルーしよう。
ああでも突っこみたい! 微妙にネタが古いことにも突っこみたい!
……などと心の中でどうでもいいことを葛藤しつつ、表面は冷静を装っている私です。
「……で。なんでここに居るの?お母さん」
私の記憶が確かなら、お母さんと小姫の二人は和食レストランへ食事に行くと言っていた筈だ。それがなんでどうして、椿の家にいらっしゃるのですかね?
ふと耳を澄ませば台所の方から小姫と瑠美と椿の話し声が微かに聞こえてくる。
(椿、帰ってきてたんだ)
帰りが遅くて心配していたので、安心した。
それより今はどうしてお母さんがここに居るのかが気になる。
「やっぱり、大事な娘をひとり置き去りにして豪華な料理を食べに行くなんて鬼畜なこと、お母さんには出来なくて……ね……」
悲しそうな表情を浮かべて、わざとらしい泣き真似をしている。
あの、バレバレなんですけど。せめてもうちょっと真面目に騙そうよ。
「はいはい。で、何でここに居るの?」
「まぁひどいっ! お母さんのこと信じてないのね!!」
「信じられる要素がどこにあるのか聞いてみたいな」
「お母さんの目を見なさいっ! これが嘘をついている目だと思うの!?」
暑苦しい顔を近づけてきたので、横を向いて顔を逸らす。
しかし母は諦めず自分の方を向かせようと、私の顔を両手で掴んで力を込めた。
「ひーなーたぁああーっ」
「いーやーだぁああーっ」
私の顔を掴んでいる母の手を両手で掴み、私も力を込めて抵抗する。
うああ痛い…地味に顔と首が痛いぃ…。
「何やってんの?ふたりとも」
部屋に入ってきた小姫は、膠着状態の私たちを見るなり憐れむような視線を向けてきた。うぅ、やりたくてこんなことやってるわけじゃないのにっ。そんな妹の登場に興が削がれたのか、母はようやく諦めて私の顔を解放する。
あぁ…助かった……小姫ナイス!
「いや、どうしてお母さんと小姫がここに居るのか聞いてたんだけどさ」
痛めた首を解しながら聞くと、小姫は急に不機嫌になり渋い顔を作った。
「あーそれがさぁ、お店が混んでたら嫌だから予約しようと思って電話したの。そしたらなんと今日は定休日だったんだよね」
「ほう」
「てへ☆」
母は笑って誤魔化そうとしているが、最初からバレバレだったので正直どうでもいいです。でも、お店がお休みだったなんて運の悪いことで。
「それで違うところに食べに行こうって話になって、外に出たら椿さんのお母さんがちょうど家から出てきたの」
「椿のお母さん?」
あれ、そういえば陽織の姿が見えない。台所の方からは椿と瑠美の話し声しか聞こえてこないし、自室に篭ってるのかな。でも小姫が外で陽織に会ったって言ってるし、また出掛けたんだろうか?
「で、レストランが定休日だった云々の事情を話したら一緒に夕食どうですかって誘われたからここに居るわけ」
「へーそうだったんだ夕食を…一緒に……ってあああっ!?」
「ちょ、どうしたのお姉ちゃん」
忘 れ て た !
そういえば椿と一緒に夕食を作ろうって言ったのに、すっかり寝過ごしてしまった!
「ちょ、お姉ちゃん!?」
「あらあら」
慌てて台所に向かうと、瑠美と椿が並んでそれぞれ料理をしていた。
うおぉ、美味しそうないい匂いがするよ夕食楽しみー…じゃ、な・く・て!
「ごめんっ!!」
思いっきり頭を下げて謝る。
するとようやく私がここに居ることに気付いたのか、二人は驚いた声を出した。
「ひ、日向さんっ!? え、ちょっと、あの、とりあえず頭をあげて下さい!」
「一緒に作ろうとか自分で言っておきながら一人のんびり寝てるなんて無礼をしてしまった私をお許し下さい!!」
「あの、だから、頭を……って何土下座し始めてるんですかーっ!?」
「こうしないと気がおさまりません! あ、いっそ罵ってくれてもいいよ! 遠慮なく!」
「え、ええええっ!?いや、あのっ」
「……日向ちゃん、寝起きでまだ寝ぼけてるんじゃない? ほらほら、いい加減にしないと椿ちゃんが困っちゃうから」
額を床に擦り付けていた私の頭を、瑠美に優しく叩かれる。恐る恐る顔をあげると、何故か椿が泣きそうな顔をしていた。おぉい、謝罪するつもりが逆に泣かせてしまってどうする。困っている椿の顔を見ていたら段々と暴走していた気持ちが落ち着いてきて、頭がすっきりした。
「その、ごめんなさい。寝ちゃってて…」
「そんなに気にしないで下さい。元々、日向さんはお客様なんですし、ゆっくりしてて大丈夫ですから」
「でもなぁ」
「そうそう、椿ちゃんの言う通り今日は日向ちゃんたちの歓迎パーティなんだからどっしり構えててよ」
うん? あれ? いつの間に私たちの歓迎パーティになったの?
「そういうことだから、ここは私たちに任せて主賓の方々は部屋でくつろいでてね~♪」
「え? …わ、ちょっと、まって…」
有無を言わさぬ笑顔で台所を追い出されてしまったので仕方なく部屋に戻ると、母と妹がまるで自分の家のように思いっきりくつろいでいた。お母さんは勝手にテレビつけて爆笑してるし、小姫はソファに寝転んで家から持参したらしいファッション雑誌を読んでいる。あの、よそ様のお家なんだからもうちょっと遠慮してくつろごうね……自分も図々しく寝てたから口に出して言えないけどね……。
ため息をひとつ吐いて、空いているところに座る。
夕食が出来上がるまでまだまだ時間がありそうだから、何をして時間を潰そうかな。
「………………あ」
先日この家に遊びに来た時には飾ってなかったと思われる写真立てが、ふと目に留まる。写真に写っているのは陽織と小学生くらいの幼い椿だった。陽織はいつも通りの無愛想で、椿は笑顔を浮かべている。どこかぎこちないけど、それは紛れもない『家族写真』だった。多分、撮影したのは瑠美だろう。陽織は写真を取られるのが嫌いだったから、無理矢理撮らされたんだろうなぁ。そういえば昔、携帯で陽織の写真をこっそり撮ろうとしたら見つかって一日ずっと口を利いてくれなかったこともあったっけ。そのくせ自分は遠慮なく私をパッシャパッシャ撮ってたな…。私は逆に写真に写るの好きだから、気にしなかったけど。
昔の事を思い出して、懐かしい気持ちでいっぱいになる。しばらく昔を思い出しながら写真を眺めていると、後ろから控えめに肩を叩かれた。後ろを振り返ってみると、そこには台所に居るはずの椿がいた。
「日向さん」
「あれ、どうしたの椿?」
まさかもう夕食が出来たのだろうかと思ったが、さっき台所を覗いた時はまだ作り始めだったみたいだしそれはないだろう。椿は何やら真剣な顔をしていたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「日向さんの好きな食べ物を聞きに来ました」
「好きな食べ物…? それなら、ロールキャベツとか好きだけど」
「……トマトソースで煮込む派、ですか?」
「うん、そうそう。もしかして椿もトマトソース派?」
「はい」
コンソメで味付けする家庭が多いって聞くけど、私は断然トマトソースで煮込んだロールキャベツが好きだ。甘くて酸味があって、ご飯に良く合うんだよね。
「あ、そうだ。ひお……椿のお母さんは? 一緒に帰ってきたんだよね?」
「はい。でもさっきまた出かけていきました。夕食までには帰ってくると言ってましたけど」
「そうなんだ」
一体どこをほっつき歩いているんだろう……夕食の前くらいゆっくり家に居ればいいのに。相変わらずの協調性のなさに呆れながら椿を見ると、なぜか彼女は不安そうな顔をしていた。
「椿?」
「あっ……いえ、何でもないです」
明らかに何でもないとは思えない表情で言われても、気になってしまう。何か気になることでもあるのだろうか。
「言えないこと?」
彼女の目を見て優しく言うと、口をもごもごとさせて言うべきかどうか迷っているようだった。少し間をおいて、ようやく踏ん切りがついたのか口をゆっくりと開く。
「……大したことじゃ、ないんですけど」
「うん」
「その、出掛ける時、お母さんの様子が少しおかしかったから、気になって……」
「様子がおかしかった?」
「なんだか、いつもと違うというか…上手く表現できないんですが…嫌な予感がして。あ、でも、そんなに深刻なものじゃなかったので、やっぱり気のせいかも…」
気のせい、か…。
陽織は表情があまり変化しないから、感情を読み取りにくい。
だから本当の気持ちを隠すが上手いんだけど。
「心配しすぎですよね、きっと。あ、私そろそろ台所の方に……」
「あっ、椿…!」
台所に戻ろうとする椿をひき止めようと腕を掴んだら、驚いた椿がバランスを崩してしまった。
「きゃっ!?」
「わっ!!」
このままだと転んでしまう!
無理矢理に体勢を立て直して椿を自分の方にひっぱり、腕の中に彼女を収める。…なんとか転ばずに踏ん張ることが出来たので良かった。あのまま転んでいたら、テーブルで頭を打ってたかもしれない。ほっと安堵の息を吐く。
「ひ、日向さんっ」
「ごめんね、急に掴んで。…大丈夫?」
「はははいっ、問題あり、あり、ません」
「?」
腕の中に居る椿を覗き込むと、ほんのり顔が赤くなっている。
きつく抱きしめすぎて息が苦しいのかもしれないことに気付いて、慌てて離してあげた。
「ごめん、苦しかった?」
「いっ、いえ! そんなことはないです」
赤い顔のまま勢い良く手を振って否定している椿。ま、何にせよ無事で良かった。
「もーイチャつくなら影でこっそりやってよねー。この部屋の温暖化が深刻なんだけど~」
「ふふ、日向ったら奥手だと思ってたけど意外に大胆なのねぇ。さすが私の娘、早瀬家の長女だわ」
ちょ、私が一体何をしたっていうの!?
転びそうな椿を支えただけだよ!?
「お姉ちゃんって実はムッツリだと思うんだけど」
「あらまあ、やっぱり小姫もそう思う?」
ヒソヒソとある事ない事失礼な事を囁いているうちの母と妹。会話を聞いた椿がさっきよりも顔を赤くして今にも沸騰しそうだった。と、とにかく、誤解を招きそうな会話を続けている2人をどうにか黙らせないと取り返しのつかないことに…!!
誤解を解こうと口を開こうとして、ピピピ、と高い音がした。
なんだろう。凄く懐かしい音だと思ったけれど、何の音だか思い出せない。
「あ」
音がした方向を見ると、どこかで見たことのある携帯電話がテーブルの上に乗っていた。見覚えがあるのは本体だけじゃなくて、付属しているストラップにも覚えがある。
「これって……」
携帯を手にとって見つめる。あちこち傷だらけで薄汚れていて、一昔と言わずかなり古いタイプの機種だ。サブディスプレイにはアラームの文字が表示されているので、さっきの音はアラームだったみたい。
「それ、お母さんのもうひとつの携帯なんです」
「椿のお母さん、携帯を2つ持ってるんだ」
「はい、ずっと前から大事にしてるみたいです。契約していないので電話やメールは使えないのですが、いつも持ち歩いているんです。でも、ここにあるということは忘れて行ったみたいですね…」
「そっか…」
携帯のストラップが揺れる。
無意識に携帯の画面を開くと、懐かしい写真がディスプレイに表示された。
馬鹿みたいに屈託なく笑っている『椿』と、渋々といった感じでカメラ目線の陽織。
コレは確か、昔、ずっと頼み込んでようやく撮らせてもらえた貴重な写真だ。二人の写真が嬉しくて待ち受けに設定したんだけど、恥ずかしいから消せって怒鳴られたんだっけ。それでも陽織にバレないように、この写真をずっと待ち受けにしていた。それほど、この写真を気に入っていたから。
「………………」
私は昔自分が使っていた携帯を閉じて、椿に渡す。
これはもう私の物じゃないから、私が持ってて良い物じゃない。
「勝手に開いちゃった、ごめん」
「いえ、それより日向さん」
「ん?」
今さっき渡したばかりの携帯を渡される。
「え、なんで……」
「図々しいお願いかもしれませんが、この携帯をお母さんに届けてくれませんか?」
「いいけど、どうして急に…」
「この携帯は母にとってお守りみたいなものなんです。昨日、母がそう言ってました。
さっきも言いましたけど、何だか胸騒ぎがして不安なので、迷惑でなければ届けてもらえませんか?」
「届けるのは構わないけど、お母さんがどこに行ったか知ってるの?」
「あっ、ええと」
どうやら行き先は知らないらしい。
赤い顔を伏せて恥ずかしそうにしている椿はとても可愛いかった。うむ、眼福眼福。
「携帯に連絡してみたら?」
「あ、そうですね」
椿はさっそく携帯で連絡を取ろうとするも、電源が切られているのか繋がらなかった。
「出掛ける前に充電していたはずなので、バッテリー切れではないと思います。ということは電源を切らなければいけない場所にいるんでしょうか」
「……」
なんだろう、私も嫌な予感がするな。
「椿のお母さんは他に何か言ってなかった?」
「いえ、特には。ただ、出掛ける前にお母さんの携帯が鳴ったんです。そのあとすぐに、出掛けていきました」
そうなると、陽織は誰かに呼び出されて出掛けて行ったと考えられる。
そして椿が感じたという不安。
私が感じている嫌な胸騒ぎ。
「夕食までに帰るって言っていたのなら、そんなに遠くは行ってないかもね。散歩がてら探してくるよ」
「でも……」
「あ、もし入れ違いで帰ってきたら連絡してくれればいいから」
「は、はい…」
行かなければ後悔するような気がした。
何かある確証はないけれど、何もなければそれでいい。無駄な徒労に終わろうと、何もないのが一番だ。
「じゃあ、行ってきます」
外に出る為に玄関へ向かう。
靴を履いていると、台所に戻ったと思っていた椿が傍に寄ってきた。
「すみません、面倒なことをお願いしてしまって」
「いいよ、これぐらい」
恐縮してしまっている彼女に微笑むと、表情を緩めて少しだけ笑ってくれた。
「あの……」
「うん?」
「いえ、気をつけて行って来てくださいね」
椿の言いかけた言葉が気になったけれど、手を振ってくれたので応えるように私も手を振り返す。
「日向さんっ!!」
玄関のドアに手をかけて外に出ようとしたら、彼女にしては大きめな声で名前を呼ばれた。
振り返って、驚いてしまう。
「日向さん」
「つば…き…?」
目の前に居る彼女は、切羽詰った――今にも泣きそうな表情で私を見つめている。
どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだろう。
私が、何か余計な事でも言ってしまったんだろうか?
「その…私……私…」
「…………」
私がそのまま何も言わず彼女を見つめていると、椿はゆっくり目を閉じてから、一呼吸置いてすぐに開いた。そして、しっかりと私の目を見て、言葉を紡ぐ。
「私、生まれてきて、良かった…っ」
ポツリと、言葉が零れる。
しっかりと、私の耳に届いてくる。
「だから…ありがとう」
椿のまっすぐな瞳から目を逸らす事が出来ない。
どうして…私にその言葉を伝えるのだろう。
彼女にとって私は数日前に出会った、ただの隣人のはずなのに。短い時間でそれなりに仲良くなったとは思うけど、それでも、その言葉を伝える相手に自分が相応しいとは思わない。私にとって椿は特別な存在の一人だけど、彼女は私のことを友達程度にしか思ってないはず。
そんな相手に、どうして、真剣に、本気で、感謝を――私に伝えるの?
「………………」
何て言葉を返せばいいのか解らなくて、ただ椿の視線を受け止めることしかできなかった。頭の中はごちゃごちゃで、混乱しているから上手く考えがまとまらない。椿はどういう意図で、私に言ったんだろうとか、なんで私が感謝されてるんだろうとか、疑問ばかりが湧いてくる。いつも周りから鈍いと言われるだけの事はあるよ、まったく。
「私も、生まれてきてよかった、かな。うん……―――椿に、会えてよかった」
とにかく、深く考えないでありのままの気持ちを彼女に伝える。
その言葉に込めた想いは伝わらないかもしれないけど、それでもいい。
私が言うと、椿は満面の笑みを浮かべた。嬉しそうな顔がくすぐったくて無性に照れくさいから視線を逸らし、頬をかく。
「なんて――」
「日向さん」
言ったことを冗談にして誤魔化そうとしたけれど、私の名前を呼んで遮られた。
穏やかだけど、どこか真剣で、不思議と気迫を感じてしまい緊張が走る。
「日向さん」
吐き出したいのを堪えるように、喉に何か詰まったような掠れた声で、私の名前を呼ぶ。
「ありがとう」
抑え切きれなくなったのか、ついに彼女の目から涙が零れ出した。
そして私は、ようやく在り得る筈がない小さな可能性に気づいてしまう。
「……椿…もしかして…」
気付いた、の?
答えを聞くのが怖くてその先を言うことができなかった。
彼女は私のことをあえて何も聞こうとしないし、言おうとしない。
ただ、心から感謝を何度も『私』に伝えてくる。
勘違いかもしれない。
けれどもし、彼女が『私』に対して感謝しているのだとしたら。
報われる?
罪の意識が消える?
自分の行いが正しかったと胸を張って言える?
ううん、そんなんじゃなくて。
彼女は今私を「赤口椿」としてではなく、ただの「早瀬日向」としてでもなく、「赤口椿」であった自分を含めた「早瀬日向」として見ているのかもしれない。だから彼女は何度も「日向」と呼んでくれてるのかもしれない。何も聞かずに、言わずに、ただ私で在れば十分なのだと。私が過去に誰であっただろうと、私は『私』でしかないのだと。
普通は生まれ変わりなんて超現象を信じる人間なんていないし、こんなこと、私が勝手に考えた願望だけれど。でも、そうだとしたら、なんて――――
「お母さんを、迎えに行ってあげてください」
しっかりと告げられた言葉が、胸の奥に響いた。
「……ぁ」
もう、いいのかな。
“罰ゲーム”はもう、終わったのかな。
陽織と同じ場所に私が立っても、いいのかな。
隣に……並んで、いいの、かなぁ。
頬が冷たかったので手のひらで触ってみたら、湿った感触がした。
自分で気付かなかったけれど、どうやら泣いていたみたいだ。
ポタポタと溢れ出す雫を腕で拭う。
何度も何度も拭っているけれど、次々と零れてきりがない。
「日向さん」
優しく身体を抱きしめてくれる。
『私』の存在を認めてくれる。
もう、十分だ。本当に、もう。
「ありがとう、椿」
たとえ陽織に『私』の存在を明かしても意味はないかもしれない。
もしくは悲しませて不幸にしてしまうかもしれない。
信じてもらえないかもしれない。
否定されるのは、凄く、怖い。
でも、認めてくれる人が、たった一人でも此処に居てくれるのなら。
受け入れてくれる暖かい場所があるのなら。
私は、行こう。
「椿に会えて良かった。一度も会えないと思っていたから、会えて、本当に嬉しい」
「私も、嬉しいです。貴女に会えて、嬉しいです」
「椿……」
強く、愛しい存在を抱きしめ返す。
こうして君を抱きしめることが出来るなんて、夢にも思わなかった。
無事に生まれて成長した君を見ることが出来ただけでも、幸せだったというのに。
ああ、困ったな。幸せを超えた幸せを、何と言えばいいのだろう。
「帰ってきたら、話したいことが沢山ある」
「はい。楽しみにしています」
名残惜しいけれど、腕の中の温もりを離す。椿も残念そうな顔をしてくれていたので、子供をあやすように頭を撫でた。すると照れくさそうに顔を赤らめて微笑んでくれる。もっと傍に居たいけれど、今は他に優先しなければいけないことがあった。
「いってきます」
彼女を、迎えに行こう。
幸せを噛み締めるのは、その後だ。
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