第21話 想い影



『うっ……ううっ』


 転んで擦りむいた膝が、ズキズキと痛む。痛みを我慢することができなくて、じわりと涙が溢れてくる。


 ぽたり、ぽたり。

 自分の意思に関わらず自然と零れ落ちる涙は、私を背負っている人の背中を濡らす。


『瑠美、痛いの?』

『すっごくいたいよぉ……っ』

『痛いだろうけど、あと少し我慢してね。もうすぐ家に着くから』


 私を背負ったまま首を少しだけ動かして、優しく微笑んでくれる。姉のその顔を見たら、ほんの少しだけ痛みが和らいだ気がした。目元に溜まった涙を腕で拭って、姉の背中辺りの服をギュッと強く握り締める。温かくて柔らかい背中に自分の身体を預けて、目を閉じた。


『ありがとう、お姉ちゃん』

『うん』


 いつだって姉は優しい。

 寂しいときは傍にいてくれて、笑ってくれる。

 お腹が空いたときは、美味しいお菓子を作ってくれる。

 転んだときは、手を差し伸べてこうして背負ってくれる。


 寝てばかりで時間にだらしないところもあるけど…私の自慢のお姉ちゃん。


『帰ったら、何か作ってあげる。瑠美は何が食べたい?』

『ほ、ほんと!? えーとね、ええと、あれ! パンケーキが食べたいっ! ココア味の!』

『ココアパウダーあったかなぁ…無かったら買いに行けばいいか。よし、じゃあパンケーキ作るね』

『やったぁ!』


 姉が作ってくれるパンケーキは、程よく甘くて凄く美味しい。他にも色々なお菓子を作ってくれるけれど、私はパンケーキが特にお気に入りだ。

 私は大好きなパンケーキのことで頭がいっぱいになって、膝の痛みの事などすっかり忘れてしまっていた。早く家に帰ってパンケーキを食べたいけれど、気持ちのいい姉の背中から離れたくない気持ちもある。この感触を十分に味わっておこうと思い、姉の首に腕をまわしてギュッと身体を押し付けた。


『ふふ、瑠美は甘えんぼさんだね?』

『むぅ』


 姉のからかうような笑い方が癪に障ったので、足で控えめにゲシゲシと身体を蹴ってやった。蹴った振動がおんぶされている自分にも伝わる。


『い、痛いって! もう、そんなことすると置いて帰るからね』

『やだっ』


 降ろされてたまるかと腕に力を入れてしがみついた。

 姉は優しいので本気で置いて帰るなんてことはしないと思うけど。


『うぇっ!? ちょっと瑠美、苦しいから!』


 力を入れすぎたのか、姉が苦しそうな声を出したので腕を緩めてあげる。

 すると解放されて安堵したのか、はぁーっと深い息を吐いた。


『お姉ちゃんが酷いこと言うからいけないんだよ』

『……瑠美が最初に蹴ってきたのになぁ』

『お姉ちゃんが最初に私のこと笑ったもん!』

『はいはい、そうですね。私が悪かったですごめんなさい瑠美さま』

『む、心がこもってない~』

『ごめんってば。これでもちゃんと謝ってるつもりなんだけど』


 困ったように言う姉の声に、私の怒りが収まっていく。


『じゃあ許す』

『ありがたき幸せ』


 一度止まり、姉は私を背負いなおしてからまた歩き出した。いくら私がまだ小さいといっても、ずっと背負っているのは辛いだろうに、姉は一度も重いとか疲れたとか文句を言ったりしない。

私はいつも姉の優しさに甘えている。そんな弱い自分が嫌で強く変わりたいとは思っているけど、結局はいつも通り変わらず姉に頼ってしまう。私はいつまでたっても弱虫の甘えん坊のままだけれど、いつか。いつかきっと、姉に褒めてもらえるような強い自分になりたいと思う。そう、姉のように立派な大人になりたい。


『瑠美、家に着いたよ』

『お姉ちゃん! はやくパンケーキ食べたいっ』

『慌てない慌てない。膝の怪我のこと忘れてるでしょ』

『あっ』

『膝の手当てが終わってから作るから、それまで我慢しなさい』

『むー』


 玄関の扉をあけると、奥からお母さんが出てきて怪我の手当てをしてくれて、姉は約束どおり美味しいパンケーキを沢山作ってくれた。仕事から帰ってきた父はパンケーキを食べている私を見て、優しく微笑んでくれる。

 幼い私は、穏やかで幸せな毎日をあたり前のように過ごしていた。

 父と母と、たまに喧嘩するけどすぐに笑って許してくれる優しい姉が、ずっと傍にいてくれるのだと信じていた。


 けれど


 あっけなく


 突然に


私の大好きな人は、奪われてしまったのだ。





「瑠美ちゃん」


 仕事が終わって家に帰る途中、後ろから声を掛けられたので振り返ると陽織さんがそこに立っていた。


「陽織さん」

「奇遇ね。仕事帰り?」

「うん、最近は入学式の準備で忙しかったんだけど、今日は早く終わったの。陽織さんも仕事帰り?」

「ええ、私も今日は早めに仕事が終わったのよ」

「そうなんだ」


 彼女は今まで椿ちゃんを避けるためにわざと仕事を増やして帰る時間を遅らせていた。

 けれどようやく椿ちゃんと向き合うことが出来た陽織さんは、彼女と一緒の時間を過ごすために、仕事をさっさと終わらせてきたのだろう。長い間すれ違っていた2人が、ようやく向き合ってくれて本当に良かったと思う。

 ……それと同時に、彼女達の近くに居た自分が何も出来なかったことが悔しい。


「昨日は椿を預かってくれてありがとう、助かったわ」

「ううん、お父さんもお母さんも椿ちゃんが来ると喜ぶから。今度は陽織さんも一緒に泊まりに来て欲しいって言ってたよ」


 話しているうちに途中まで一緒に帰ることになったので、彼女の隣に並んで歩き出す。姿勢正しく歩いている陽織さんは相変わらず凛としていてとても綺麗だ。初めて陽織さんと会った時は、あまりにも綺麗な人だったから挨拶も忘れて見入ってしまったんだっけ。姉さんの友達にこんな綺麗な人がいたなんて知らなくて驚いた覚えがある。


「思えば貴女……それに、赤口のご家族には随分と迷惑をかけたわね」

「私は別に迷惑だなんて思ったことないよ」


 私の言葉に、彼女は悲しそうな顔で首を横に振った。


「本当なら、私は赤口の人達に会うことも、家に近づくことも許されないはずなのに。それでも、貴方達は大事な家族を奪った恨むべき私のことを気にかけて、支えてくれた」

「だって姉さんが死んだのは陽織さんのせいじゃないから」

「同じことよ」


 違う。陽織さんは悪くない。姉さんが死んでしまったのは彼女のせいではないのだから。

 けれど


「私のこと、憎いでしょう?」

「!」


 ドキン、と胸が跳ねてしまう。そんなことはないと言うはずの口は、何故か固まってしまって動いてくれない。

 私が何も言えずに黙っていると、陽織さんは瞼を伏せてごめんなさい、と小さく呟いた。


「私は椿を……貴女の大好きなお姉さんを奪ってしまったんだから、当然だわ。私が彼女を巻き込まなければ、あんなことにはならなかった。貴女も、赤口のおじさまもおばさまも、そして彼女も、きっと私を恨んで――」

「違う」


 全て自分の責任として背負い込んでいる彼女に、私ははっきりと言う。貴女のせいじゃないと昔から何度も言っているけれど、彼女は頑なにありもしない罪を背負っている。


「姉さんはきっと、巻き込まれたなんて思ってない。私の知ってる姉さんは、“自分から巻き込まれに行く”人だから」


 私の姉さんは、大切なモノの為なら自分を省みず火の中に飛び込んでいくような、とんでもないお人好し。

恨むだなんてとんでもない。あの姉さんなら、死んだのは自分が悪いのだからしかたがないと笑ってしまいそうだ。そして、最後まできっと、自分のことじゃなく他人の心配をして逝ったに違いない。


「昔は…子供だったころは、正直に言うと陽織さんのことを恨んだよ。だってそうしないと、やり場のない気持ちをどこに向ければ良いのか分らなかったから」

「…………」


 確かに、陽織さんに関わらなければ姉さんは死ぬことはなかった。

 けれど、彼女は何も悪いことはしていない。

 お父さんとお母さんは大人で、陽織さんを憎むどころか、自分の娘のように彼女を支えた。それでも私は納得できなくて、大好きな姉を奪った人間を憎まずにはいられなくて。


「けど、ね。姉さんが命を賭けて守った陽織さんを恨むのは、違うんじゃないかなって、思ったの」


 姉さんが死んで、陽織さんはとても悲しんだ。

 憎いはずの相手なのに心配になるほど、彼女は酷く落ち込んでいた。

 放っておいたら姉さんの後を追うんじゃないかと思うくらい、あの頃の彼女は不安定だった。


 そして、彼女は私と同じように大切な人を失ったんだと、ようやく気付く。


 守らなきゃと思った。

 姉さんが守っていた2つの命を、今度は私が守らなければ、と。

 私に何が出来るのか解らなかったけど、姉さんの大切な人を放っておくわけにはいかなかった。

 ――それに、姉さんの分まで、生きて貰わないと。

 そう思うようになって、陽織さんと椿ちゃんの二人をずっと傍で見守ってきた。


「今はもう、憎しみなんて全然これっぽっちもない。二人はもう私にとって家族同然の、大切な人なんだから」


 私が立ち止まってはっきりと告げると、陽織さんは驚いた顔をして、ゆっくりと困った表情を作る。


「お姉さんに似て、とんでもないお人好しね」

「ま、妹だから」


 笑って言うと、彼女は呆れたような…でもどこか嬉しそうな顔をしていた。私も、姉さんに似ていると言われると嬉しい。姉さんはいつまでも私の自慢の姉で、誇りだから。


「貴女が居てくれなかったら、きっと今こうしていられなかったわ。ありがとう、瑠美ちゃん」

「でも、私は何も出来なかったから……」


 お礼を言われるほどのことは何もしていない。

 陽織さんが苦しまなくていいように、二人の仲が上手くいくように試行錯誤したけれど、結局全て空振りに終わってしまった。そんな私はただ、長い間見守っていることしか出来なかったのだから。

 それにしても私の両親でさえ彼女たち親子の仲を縮めることは出来なかったのに、一体どうして急に彼女は逃げるのを止めて前向きに進む決心がついたのだろう。何があったのか気になったけど、2人が打ち解けて仲の良い親子になったのなら、それでいい。


「ううん。私も椿も、貴女が支えてくれたから今がある。どんなに感謝しても足りないぐらいよ」

「そんな大袈裟な」

「今まで心配をかけてごめんなさい。――もう、目を逸らして逃げるのはやめにするわ」

「陽織さん」

「これ以上情けない姿を晒すと、本気で椿とあの人に嫌われそうだしね」


 陽織さんはこれからいい方向に変わっていくんだろう。

 今までずっと彼女に張り付いていた暗い影が、少し薄くなっているような気がする。悲しみで虚ろだった瞳も、今は力強い光が宿っていた。


 ……もう、大丈夫なんだろうか。

 ようやく彼女は、幸せのある方向へ向かってくれるんだろうか。

 ああ、そうだとしたらこんなに嬉しいことはない。

 きっと姉さんが最期に願ったことは、彼女自身の幸せだろうから。

 もちろん私も、私のお父さんとお母さんも彼女の幸せをずっと願っていた。

 あれから十六年も経ったのだ、そろそろ幸せになってくれないと困る。


「陽織さんは新しい人を見つける気はないの?」

「………私は、今は椿が居てくれたらそれでいいわ。それに」


 本当は彼女がどう答えるかなんて解りきっている。

 これから先、陽織さんが新しい幸せを見つけることはないと思う。

 いくら彼女が過去と向き合って、前を向いたとしても、きっと彼女は死ぬまであの姉を離さない。


「知ってるよ。陽織さんが、昔から姉さんのこと大好きだってこと」

「…………」

「私は姉さんと違って鈍感じゃないもの」


 いつだって無表情で冷たい印象を与える彼女の顔だったけど、姉さんと一緒に居るときだけは、ほんの少し緩んでいた。姉さんに向けて口にする言葉も冷たいけれど、ちょっとだけ気をつけて聞いていれば優しさが含まれているのがわかる。なにより姉さんに向けている視線は、いつだって穏やかで優しいものだった。そして姉さんが死んでしまった時の態度は、親友が死んだ時のソレではなく、それ以上だったから。彼女が死に関わっていたというのもあったけど、それを差し引いても、だ。


「私はあの人以外を好きになるつもりはないわ」

「けど、姉さんはもうこの世界には居ない」


 自分で口にしたその言葉が、胸をきつく締めつける。

 何だかんだ言って、私もまだ過去から抜け出せていないのだろう。


 私は姉が死んで、立派な大人になることを目指した。学生時代は勉強ばかりして、ただひたすらに努力して、念願の教員免許をとって、夢であり目標だった教師になった。辛い事や大変な事も沢山あるけれど、教師という仕事はやりがいがあって楽しい。姉さんに語った夢を叶える事が出来たし、自分で言うのもアレだが立派な大人にだってなれたと思う。自分が望んだ未来を、私は順調に辿ることができて満足した。……けれど、達成感や充実感を得ることができても、心の隅っこに空いた小さく深い穴は塞がることはない。夢や目標を叶えることが出来れば自然と塞がっていくんだと思っていたのに、結局は穴を見ないフリすることしか出来なかった。ふとした瞬間に穴の存在を思い出して、心がズキズキと痛んでしまうのだ。一体どうすれば、この穴は塞がってくれるんだろう。

 私が顔を伏せて考え込んでいると、陽織さんは空を見上げながら苦笑した。

 彼女だって姉さんのことを思い出すと、悲しいに決まっている。


「それでも、私はまだあの人のことが好きだから」

「…………」

「あの人を想う資格なんて私にはないのかもしれないけど、この先ずっとこの想いは変わらない」

「…辛くないの?」

「私は、この想いが消えてしまう事のほうが辛いわ」


 こんなに深く想われている姉は、あっけなく彼女の傍から居なくなってしまったのに。

 それでも彼女は何年経ってもずっと想い続けているんだ、何があっても。

 人は、そんな彼女を愚かだと言うかもしれない。

 いくら想っても、どんなに焦がれても、彼女の想いは永遠に届くことはないのだから。


「私より瑠美ちゃんの方こそ、いい人いないの?」

「ううっ」


 私だっていつまでも子供じゃない。

 けれど今まで恋愛や結婚について真剣に考えた事はないし、興味もなかった。いつかそういう気になるだろうと思っていたけど、未だに相手はおらず、仕事のことだけで頭がいっぱいだ。……もう20代半ばなのに全く結婚の気配がない娘を、親がこっそり心配しているのを知っている。


「出会いがないので、そういう人はいないかな。まぁ、なるようになるでしょ」


 職場は既婚者か髪の薄いオジサンばかりだし、仕事で忙しくて友人と飲みに行く回数も少ないから出会いは期待できないんだけど。別に一生独身でもいいかなぁと思ってたりもするけど、こんなこと言ったら親が泣くかもしれない。


「……恋愛ごとに疎いところも、似てるのね」


ほっといてください。


「ああ、そうだ。今日の夕食はうちで食べて行かない?」

「んー、誘ってくれるのは嬉しいけど遠慮しようかなぁ。椿ちゃんと家族水入らずで過ごしてほしいもの」

「変に気を使わないでいいわよ。それに、もう一人お客さんを呼んでいるから」


 あら、彼女が夕食にお客さんを呼ぶなんて珍しい。

 私と両親以外を誘うなんて初めてではないだろうか。


「……うーん、それならお邪魔しようかな」

「ええ、食べていってくれると嬉しいわ」

「それで、お客さんって、どんな人なの?」


 人と関わる事があまり好きではない彼女が、わざわざ夕食に誘った相手が気になったので聞いてみる。もしかして、その人物が陽織さんと椿ちゃんの関係を変える後押しをしたのだろうか?


「この間うちの隣に引っ越してきた子よ」

「もしかして日向ちゃん?」

「あら、知ってるの?」

「まぁ一応」


 ああなんだ、呼ばれたのは日向ちゃんだったんだ。きっと椿ちゃんが呼んだんだろう。誰にでも普通に接するけれど、実は人見知りのあの子がほんのわずかな間であんなに懐いている子は初めてだ。不思議とあの子なら彼女の家に呼ばれるのも納得がいく。


「あら、噂をすれば」

「あ」


 陽織さんが見つめている先を辿ると、そこには買い物袋をいっぱい提げた日向ちゃんが立っていた。

 誰かを待っているようで、暇そうにお店のほうをじっと見つめている。


「日向ちゃん!」

「あれ、陽織さんに瑠美さん。こんにちは」


 こちらに気付いた彼女は、にっこりと笑って丁寧に挨拶をしてくれた。


「お買い物?」

「はい。椿と一緒に夕飯の買出しに来ました」


 と、いうことは日向ちゃんが待っているのは椿ちゃんだったんだ。初めて会った時も2人で出掛けていたし、本当に仲がいいんだなぁ。


「それで、あの子は?」

「買い忘れがあったみたいで、慌てて店のほうに戻って行っちゃいました」


 日向ちゃんはお店のほうを気にしながら、苦笑いをしている。

 しっかりしているようでどこか抜けているところがあるのよね、椿ちゃん。

 ……人のこと言えないけど。


「仕方ないわね。待たせるのも申し訳ないから、あの子は私が連れて帰るわ。貴方達は先に帰ってて」

「え、でも」

「それじゃ、お言葉に甘えて先に帰ろうか日向ちゃん。倉坂家の合鍵なら持ってるし」


 少し渋った様子を見せた彼女だったけれど、すぐに何かに気付いたようで私の方にやってくる。


「そうですね。それじゃあ椿のこと宜しくお願いします」

「ええ」


 今まで2人で居る時間が少なかったあの親子に気を使ったつもりだったけど、日向ちゃんもそれに気付いたようだった。彼女もあの親子の事情を少し知っているみたいだけど、それにしても聡い子だと思う。


「行きましょう、瑠美さん」

「あ、うん。荷物、半分持つから貸して」

「すみません、助かります」


 遠慮がちに差し出された荷物を受け取ってから、二人並んで歩き出す。受け取った半分の荷物は結構重そうに見えたけれど意外と軽かった。チラリと日向ちゃんが持っている荷物を見ると、私と変わらない量だったが重量のある瓶などが詰まっている。それに比べて私の袋の中身はパンやお菓子といった軽いものばかり。


「日向ちゃん、そっちの荷物重くない? 交換しようか?」

「有難うございます。でも、こう見えて力はあるほうなんですよ。いつも馬鹿力って言われてるんで平気です」


 何度か交換を試みたけれど、彼女は遠慮して譲ろうとしなかった。年下の子に重いものを持たせるのは申し訳ないけど、せっかくの好意なので遠慮せずに受け取ろう。


(早瀬日向ちゃん、か。いい子だよね……)


 この子の傍にいると、椿ちゃんが懐くのもなんとなく解る気がする。どこから見ても子供なのに時折見せる大人っぽさと、不思議と感じる安心感。まだそんなに深く付き合っていないのに、彼女が優しくていい子だと私はどこかで確信している。

 けれど、少しだけ…ほんの少しだけ引っかかっている、違和感。彼女を見ていると、どうしても『何か』が引っかかって気になってしまう。その『何か』が解らないので、確かめようもないのだけど。まあ、嫌な感じじゃないから、無理に確認しなくてもいいかもしれない。


「はい、どうぞ」

「えっ?」


 考え込んで呆けていた私に、日向ちゃんは何かを差し出した。

 自然と受け取って、ソレを見つめる。


「これ……」

「さっきお店で買ったんです。よかったらひとつどうぞ」


 私の手が握っているのは、棒の先に飴が付いているペロペロキャンディ。

 飴を包んでいる包装紙にはメロンソーダ味と書いてある。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして」


 隣を歩いている日向ちゃんを見ると、同じキャンディを口に含んで味わっているようだった。このキャンディが好きなのか、とっても満足そうな表情をしている。せっかく貰ったので私も舐めようと包装紙に手をかけたはいいけど、勢い良く剥がしてしまったせいで滑ってしまい、キャンディを地面に落としてしまった。


「わっ、ご、ごめん」

「あちゃぁ…」


 すぐに拾ったけど、飴の部分は土が沢山ついていて、もう食べれそうにない。せっかく日向ちゃんがくれたのに、私は何て罰当たりなことをしてしまったんだろう。

 私のこういうドジな部分は、大人になっても治らない。死んでも、治らないのかもしれない。


「さ、三秒ルールでいけるかな」

「いや、もう無理だと思います」


 土を払って綺麗にしてみたけど、やっぱり食べるには無理がありそうだ。残念だけど、諦めるしかないみたい。


「…ごめんね。せっかく貰ったのに落としちゃって」

「んー、しょうがないなぁ」

「えっ」


 日向ちゃんはポケットから『何か』を取り出すと、私の持っている汚れたキャンディを取り上げて、代わりに『何か』を握らせる。新しく貰った物を確認すると、一瞬で頭が真っ白になった気がした。


「そっちあげます」

「…………あ、ありが」


 ありがとう。

 その言葉が、出てこない。

 身体の奥から熱いモノがこみ上げてきて、喉のところ辺りで詰まっている感じがする。


「瑠美さん?」


 彼女が怪訝な顔で、私を覗き込んでくる。

 その大きな瞳の中に、『何か』を見つけた気がした。

 ああ、そうか、ようやく解った。

 彼女に会ってから感じていた違和感の正体が。


 違和感の正体は、“懐かしさ”


 彼女は―――姉さんに似ているんだ。


 私は日向ちゃんが代わりにくれた『小豆キャラメル』を強く握り締める。

 これは、姉さんが好きだったお菓子の、ひとつ。

 姉さんからよく貰ったけど、私には甘すぎて実はあまり好きにはなれなかった。

 けれど、姉さんが好きなものを嫌いと言うのが嫌で、いつも無理して美味しいって言っていた。


「えと、嫌いでした?」

「ううん」


 袋を開けて、キャラメルを口に放り込むと、すぐに小豆の風味とキャラメルの甘さが口いっぱいに広がる。このキャラメルを食べるのも、随分と久しぶりだった。やはりあまり好きにはなれないけれど。


「美味しいよ。ありがとう」

「いえいえ」


 日向ちゃんは、はにかむように笑ってから正面を向いたので、気付かれないようこっそりその横顔を盗み見る。……顔は全然似ていないけれど、彼女と居ると少しだけ姉さんを思い出してしまう。どこが似てるのかを聞かれても、上手く答えられる自信はない。でも確かに、どこか似ている。だからなのだろうか。陽織さんも椿ちゃんも、彼女に心を許しているのは。


(ううん)


 そう考えて、その考えを止める。

 姉さんに似ている云々じゃなくて、日向ちゃんが日向ちゃんだからだろう。

 彼女の人柄が、きっと二人を惹きつけたのだ。



私は彼女の横顔をしばらく見つめながら、ほんの少し懐かしい気持ちになって帰り道を歩いた。



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