第3話 再開



「お姉ちゃん」

 

 誰かが私を呼んでいる。

 私のことを姉と呼ぶのはこの世界でただ一人、可愛い可愛い妹さまだけだ。


「起きて、お姉ちゃん!」


 一生懸命起こしてくれてありがとう愛する妹よ。でもね、お姉ちゃんはもう少し眠っていたいの。覚えていないけどなんだか良い夢を見れた気がするし、このままこの微睡みに身を委ねて安らぎの楽園へと再び旅立ちたいんだ。だから、お願い。


「あと五分とは言わない、せめて三十分は寝かせて…むにゃ……」

「いい加減に起きろぉぉおおおお!! 姉ボスケぇえええ!!」

「んおっ!?」


 大きな声に驚いて、微睡んだ意識が急速にはっきりする。重いまぶたをゆっくり開けると、視界いっぱいに映っているのは眉間に皺を寄せた妹の顔だった。あ、はい、いつもごめんね、お姉ちゃんはもう起きましたよ。だからそんなに怒らないでください恐いです。誤魔化そうと思いにっこり微笑んでみると、妹は呆れてしまったのか溜息を吐いて離れていった。とりあえず、恐怖のお叱りは免れたようだ。

 シートに預けた身体を起こして周囲を見ると、どうやら目的地に着いたらしい。車での長旅だったからいつの間にかうっかり寝てしまっていたみたいだ。

 私はドアを開け外へ出てから、座りっぱなしで鈍っていた身体を大きく伸ばして同時に空気を思いっきり吸う。そしてゆっくりと吐き出し、改めて周りの景色を見渡す。


「……そっか、着いたんだ」

「はあ~、疲れたわぁ」


 運転席から降りてきた母が、ふらふらと私の隣にやってきた。

 ずっと運転していて疲れたのだろう、疲労で顔色が悪い。


「引越しの荷物が届くまでまだ時間があるみたいだから、少し休憩する?」

「賛成~っ!ずっと車に乗ってたから疲れちゃった」


 母と妹と私の三人は、真新しい一軒家の前に並び立つ。

 目の前にあるのは、今日からお世話になる新しい我が家。

 家の玄関に『早瀬』と苗字が彫られた表札を見つけたので、ここが自分達の新居なのだと実感する。

 そう、ここで私たちの新しい生活が始まるのだ。


「日向~。後で肩揉んでくれない?もう痛くて痛くて」

「いいけど、その前にちょっと町を散歩してきてもいいかな」

「迷子になっても知らないわよ?」

「大丈夫。携帯があるから」


 ポケットに入れていた携帯を取り出して母親に見せる。

 道がわからなくなればネットに繋いで地図を見ればいいし、それでも無理なら電話で連絡すればいい。


「それもそうね。でも気をつけて行きなさいよ?」

「はーい」


 新居に入っていく母と妹を見届けてから、私は散歩に出かけることにした。

 あまり遅くなると心配されるので、新居の周りを一周するくらいにしよう。



 町の景色を見ながら、ゆっくりと短い歩幅で歩いていく。

 特別珍しくもないありふれた風景なのに、胸が締め付けられるような感覚が襲ってくる。暖かいけれど、同時に冷えるような、そんな不思議な感じだった。


(懐かしいなぁ)


 先程から感じている感覚を言葉にするのなら“懐かしい”が一番最適だと思う。自分の中にある記憶が、さっきからずっと景色を見て反応しているのだ。

 私は今日、母親の仕事の都合により引越しすることになり、生まれて初めてこの町にやってきた。だから、懐かしいと感じるのは普通であれば可笑しい。来たことがないのに、この景色を知っているなんてあり得ない。

 しかし、私は知っているのだ。視線の先にある建物は私が中学生の時に建ったコンビニだとか、その隣にある街路樹の深い傷は車がぶつかって出来たものだとか、向かいのアパートの傍にある空き地にはよく猫が集まっていただとか、地元の人間でしか知らないことを私は生まれた時から知っていた。正確には、生まれる前から知っていた。



 なぜなら私は――――この町で生まれ、そして死んでいった女子高生の記憶を持って生まれた人間だからだ。



 人は生まれ、そしていつしか必ず死が訪れる。それは人によって早かったり遅かったりと個人差があるけれど、避けられない定められた運命だ。

 私は高校三年生の時、もっと先の事だと思っていた『死』が思いのほか早く訪れた。そう、私は一度死んでこの世を去ったはずなのに、何故かまたこの世界で生きている。姿や名前が全く違う別人だから、生まれ変わったと言った方が正しいのかもしれない。

 でも…私は死ぬ以前の自分の記憶をはっきりと覚えているのだった。どうして前世の記憶を引き継いで転生してしまったのかはわからない。ただ、私はこうして平凡な第二の人生を歩んでいる。


(あれから、もう十六年経つんだっけ)


 昔の私が死んでから、もうそんなに経っていたことに気付いて、時の流れの速さを身に沁みて感じた。あの時死んですぐに新しい母親のお腹の中に宿り、数ヵ月後、私が生まれたのだ。そして物心がつく幼稚園の時、前世の記憶を思い出し、今まで普通に過ごしてきた。


(またこの町に来ることになるなんて、思わなかったけど……)


 今の自分が生まれた場所は以前住んでいたこの町と結構離れていたので、来る事が出来なかった。いや、行こうと思えば行けたと思う。ただ、恐かったから、行かなかった。

 だってこの町に住んでいた私はもう死んでいるのだから。

 私を知っている人に会うのが何だかとても恐ろしくて、辛かった。

 同じぐらい、あれからどうなったのか気になっていたのも事実だったけど。


(みんな、元気にしているかな)


 前世の私を育ててくれたお父さんやお母さんは元気にしているだろうか?

 泣き虫だった妹はどんな風に成長しているだろうか?

 学校でふざけ合った友達はどんな進路を進んでいるのだろうか?

 そして、彼女は――――


「………………」


 会ってどうするというんだろう。

 今の彼女を知って、今の私に何が出来るというのだろう。

 もう私は『私』であって『以前の私』ではないのに。

 私に出来ることはもうないし、そんな資格もありはしない。

 私は十六年前のあの時に死んで、全てを失ってしまったのだから。


(………家に帰ろう)


 そろそろ荷物が届く頃合だし、引越しの片付けをしなければいけない。私は来た道を戻ろうと踵を返すと


(―――え)


 見覚えのある人物が、すぐ目の前に佇んでいる。

 心臓が大きく跳ね、冷や汗が頬を伝い、頭の中は真っ白になった。

 口が震えて、呼吸も上手く出来ない。


(お、落ち着け私!)


 目を凝らしてよく見てみると確かに彼女に似ているが、私と変わらない年齢の少女だ。あれからもう十六年は経っているのだから私の知っている彼女ならもう三十近い歳のはず。だから人違いなのだ。彼女のわけがない。そう自分に言い聞かせて、暴れていた心臓を落ち着かせる。でも、彼女からどうしても目が離せない。


「あの」

「うひぃぃいぃっ!?」


 いきなり声をかけられて、落ち着きつつあった心臓が再び大きく跳ねた。

 私の大げさな驚き方につられて、目の前にいる少女まで驚かせてしまったようだ。

 可哀想なくらい、怯えた表情をしている。


「ごっごめんなさい!」

「へっ!? い、いや、こちらこそ変な声出してごめんなさい!!」


ペコペコ、ペコペコ。

なぜかしばらく謝罪合戦が繰り広げられた。なんだこれ。


「いきなり声をかけてしまって、その、驚きましたよね」

「だ、だだだだ大丈夫! 私の心臓は固めに出来ているので心配ご無用ですぞん!!」


 駄目だ、混乱して頭がおかしくなっている。元からおかしいけど、普段の倍はおかしいと思う。

 ひとまず落ち着くために彼女から目を逸らし、深呼吸を何度も繰り返して速やかに息を整えた。

 ……よし、大丈夫、落ち着いてきたぞ。

 なんとか平常心を取り戻すことができたので、改めて声をかけてきた少女の方を見る。


(うっ)


 やはり、似ていた。別人だと解ってはいても、自然と鼓動が速くなってしまう。なんだか懐かしくて目頭まで熱くなってきてしまった――って、駄目駄目。そろそろ本気で落ち着こうか私。


「私に、な、な、何か御用ですか?」


 ぎこちない笑顔を作って、怪しまれないように自然な対応を心がける。顔は引き攣り声は裏返っていて、こんなに怪しい言動が自然な対応だとはお世辞にも言えないけども、これが私の精一杯なのだ。


 相手はしばらく不思議な顔をしていたが、すぐに握っていたものを私に向けて差し出した。


「?」

「これ、もしかしたら貴女の物じゃないかと思いまして」

「あっ…」


 彼女の手のひらの上に乗っている地味なハンカチは、確かに私のものだった。キョロキョロと景色を見ながら歩いていた時に、気付かず落としてしまったのだろう。それを偶然通りかかった彼女が拾ってくれたわけか。


「うん、それ私のだ。拾ってくれてどうもありがとう」

「いえ。大したことじゃありませんから」


 そう言って彼女はにっこりと微笑む。


「………………」

「?・・・あの?」


 私が黙って見つめていたのを不審に思ったのだろう。

 彼女は不思議な顔をして首を傾げた。

 おっといけない、ちょっと見詰めすぎた。


「ごめんね、ちょっと知り合いに似てたから」

「そうですか。大丈夫ですから気にしないで下さい」

「うん、そう言って貰えると助かるよ」

「それでは」


 丁寧に頭を下げてから、少女は背を向けて私から遠ざかっていく。

 その後姿が幼馴染の少女のものと重なり、結局姿が見えなくなるまでずっと見つめてしまった。


「……うーん。姿はそっくりだけど、中身は似てないなぁ」


 少なくとも私の知っている彼女はあんな丁寧な言葉遣いはしないし、穏やかに笑ったりしない。

 今、この町に居るであろう彼女はあの少女のように笑ってくれているだろうか。

 幸せに、過ごしているだろうか。


(私にはもう、そんなことを願う資格もないのに)


 無意識に握り締めていた手をひらくと、じっとりと汗ばんでいた。


「…帰ろ」


 これ以上考えないように頭を振って、見えない何かから逃げるように自宅へ向けて歩き出した。



 ――今日からまたこの町で、暮らしていく。


 私がまだ違う名前で呼ばれていた頃の思い出が沢山詰まったこの町で、今度は違う人間として。

 これからどうすればいいのかなんて、わからない。


 『早瀬 日向はやせ ひなた』という人間として生まれてきたからには、今の人生をただひたすら精一杯に生きるしかなかった。

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