おはようメルクリウス

世鍔 黒葉@万年遅筆

「おはようメルクリウス」


   1


 竜。またはドラゴン。ワイバーンとも言うかも。

 ファンタジー定番の、伝説の生き物。どんな刃も通さない強靱な鱗、どんなものでも噛み砕く顎、ついでにかっこいい角、そして人間じゃ到底敵わない力を持っている、凶暴な爬虫類。

 でも、所詮はファンタジーの産物。そんなものは実在しないし、多分これからも現れることはないんだろう。

 そう思っていた時期が、あたしにもあった。でも、ほら、その竜っていったら、あたしの隣で寝ているよ? 鮮やかな紅蓮の鱗と、鋭い牙と角をもった、ゴールデンレトリバーぐらいの大きさの竜が。

「ん……おはよう、メルクリウス」

 あたしが布団を押し退けながら呼びかけると、その竜は伏せていた耳を立て、それからおっくうそうに体を起こした。

 あたしも起き上がり、天井からぶら下がっている照明のひもを引っ張った。薄暗かった和室に、LEDの人工的な光が満ちる。和室はけっこうな広さで、大きな障子付きの窓と違い棚と屏風。なかなかいい部屋だ。だけど、この照明はなんとかならなかったのだろうか、スイッチは部屋の入り口にあるのだけれど、元々住んでいた家主はビニールひもを照明に直接つけていた。なんかもういろいろと台無しだと思う。あたしはありがたく使ってるけど。

 和室を出て、リビングに入る。そこは打って変わって現代的な間取りで、天窓から入ってくる光と間接照明がいい感じに混ざっている。和室もあって天窓もある、うん、匠の技ってやつだね。建てるのに、いったいいくら使ったのだろう。

 今日の朝ごはんは、電子レンジであっためる系レトルトごはんと、各種缶詰。この家は燃料電池の発電設備があって、電気が使える素敵な物件だ。燃料の灯油を運んでくるのが結構大変だけど、それもメルクリウスがやってくれる。あーあ、でもこうなるんだったら少しは家庭菜園でもやっておくべきだったな。いやいや、ホームセンターにでも行けばそういうキットがあるかもしれない、今日はあそこまで行ってみようか。今後のために。

 そんなことを考えながら、ツナ缶をメルクリウスに放り投げる。メルクリウスは空中でキャッチ、前足で器用にプルトップ缶を開け、中身を食べ始める。こんな光景、親には見せられないよね?

 ごはんを食べ終えて、次にすることは洗顔だ。なんとこの家には井戸が常備してある。燃料電池発電機があるから、おふろにも入れちゃう、なんて素敵なおうちなんでしょう!

ほんっとう、いったいいくら使ったんだろうね?

 というわけで、今日の予定は決定済み、あたしはメルクリウスを連れて、外へ出た。

 そこに広がるのは、アフリカとかにありそうな熱帯雨林と、都市部の街並みが同居する、奇妙な光景。そして遠くには、「城壁」のプラズマシールドが放つ、オーロラに似た淡い光の帯。

 人間はいない。あたし一人を除いて。

 なんでこんなことになっちゃったのかを説明する前に、まずはあたしのよき友人たちを紹介しよう。

 ばさり、と巨大な何かが羽ばたく音が聞こえてきて、あたしは顔をあげた。そこには巨大な鳥のような姿でこちらを見下ろす「竜」がいて、すごい風圧をおこしている。

「頭が高いよ、フリードリヒ!」

 あたしが叫ぶと、その「竜」はホバリングをやめて地面に着地した。そして甘えるようにくるると鳴く。あたしはフリードリヒの頭を軽く撫でてやると、その首についている小型カメラを取って、メルクリウスの背中に付けたバックパックに入れた。

「偵察ご苦労様。また後でね」

 あたしが軽く頭を叩くと、フリードリヒは何歩か後退してから勢い良く飛び立った。再び強い風が吹き荒れる。スカートをはいてこなくてよかった。まあ、誰も見る人はいないけどさ。

 と、今度は森の奥から百獣の王がやってくる。見事なたてがみを生やした、ライオンのような姿をした「竜」だ。その紅蓮の鱗も、かっこいい角も、メルクリウスやフリードリヒと共通している。

「おはよう、ビスマルク」

 あたしの挨拶に、ビスマルクはぐるると返す。

 ビスマルクは背中には鱗が生えていなくてふわふわだから、今やあたしの移動手段だ。一度メルクリウスに乗ってみたことがあったのだけれど、まったくひどい乗り心地で、丸一日は座ることもままならなくなった。

 今日の目的地は南方約2~3キロ地点、運良く熱帯雨林に浸食されなかったホームセンターだ。あたしはその旨を伝えてからビスマルクに乗り、しっかりとその背中の毛を掴んだ。動物園にいるライオンにこんなことをしたら噛み殺されても文句は言えないけれど、ビスマルクは愚痴ひとつ言わない。あたしの意志を汲んで、走り出した。

 道の悪い熱帯雨林を避けて、ひび割れた道路を走っていく。ビスマルクの足は頑丈で、たとえガラスの散乱する道路を走っても血一滴流さなかった。「竜」の躯は、どんな刃でも傷つかないのだ。

 で、なんでこうなったかって話だけど、あの日も、あたしはこんな風にバイクに乗っていたんだ。夏休みの学校で部活を満喫するために、イオノクラフト効果を用いた最新の飛行バイクで優雅に通学していた。

 断っておくけど、あたしは成績低迷気味な立派な高校生で、バイクの免許も取ってたから法的にはまったく問題なし。飛行バイクの交通ルールだって遵守してた。ただ、ちょっと道草をしただけだったんだ。あたしの街の、ある意味名物、「城壁」を見に。

 21世紀を、「ウイルスの世紀」なんていう評論家がいる。確かに新型インフルエンザが大流行していっぱい死者が出たとか、爆弾を背負った自爆テロの代わりに、自らが致死性のウイルスに感染してばらまくようなウイルステロが横行したことがあった。でもそれは授業で使う歴史の教科書に書いてあるとおり、もう過去の出来事。ここ十数年でこと「空気」に関する技術がそりゃもう進歩して、高校生が飛行バイクに乗れるようになったぐらい。おかあさんだって、数年前までは信じられないことだったのよ、と言っていたっけ。

 「城壁」は、その気流操作技術の結晶だった。天高く聳える超合金の壁と、そのさらに上を行くプラズマシールド。こんな「城壁」を越えられるウイルスが存在しないのは、歴史が証明済み。

 そう、あたしが住んでいるこの街には、その昔未知のウイルスによる大規模なパンデミックがあった。だから、こんなふうに封じ込めているらしい。それはもう恐ろしいウイルスだったらしくて、こんなもので囲うしかなかった。

 でも、あんまりにも厳重にしたものだから、中がどうなっているのか誰も分からない。たまにどっかのテレビ局の取材陣が来たり、海外からの観光客が来たりするとか、ちょっとした観光資源にはなっているらしいけれど、プラズマシールドの維持にはとってもお金がかかるらしい。差し引きではプラスなのだろうか。

 つまりは、とても近くにあるのに、よくわかっていないもの。それが、「城壁」だった。

 そして、あたしの日常の中で、そんな存在はとっても貴重なものなのだ。だって、日常だよ? 確かに、学校でテニス部の活動をするのは楽しい。でも、あたしの実力じゃ行けても県内程度。テレビの中で輝いているスター選手みたいに、どこまでも、というわけにはいかない。

 そうそう、それにさ、部活の中には絶対一人、ものすごくできるやつがいるんだよね。あの子が嫌いなわけじゃないけどさ、見てると、「ああ~」って言いたくなる。小さい頃の自分が、オリンピックで金メダルをとる! って行っていた自分を放り投げたくなる。そういえば、あの頃はバトミントンだったっけ?

 とにかくそんな日常には、ふう、とどこかで息をつく場所が必要だったんだ。楽しいよ? でもね……。

 「城壁」のすぐそばにある百貨店の、駐車場。ここなら、ある程度高度をとりつつホバリングできる。巨大な「城壁」のプラズマシールドの部分を正面から間近で見られるわけだ。

 異界の入り口。きっとこの先には七不思議的な謎に包まれた世界が広がっていて、新種の生物が続々とあたしたちを出迎えるんだ。自然に浸食された住宅地は暴走したロボットによって作り替えられ、そこには巨大な猿の化け物が……。なんて、プラズマだからなのか時折雷のような光の筋を引くシールドを見ながら妄想する。

 手を伸ばした。特に意味があるわけじゃないし、すぐに片手運転したことを後悔することになったのだけれど、この時だけは、あたしの心はその世界の中にあった。つまり、あたしがこの後「城壁」の中で暮らすことになるなんて、まったく考えてもいなかったんだ。

 突風が、吹いた。

 ハンドルから片手を離していたあたしは、為すすべもなく流されてしまう。風を遮るものが何もないのだからあたりまえだ。そしてその流される先が、プラズマシールドの輝きだった。

「ええっ! ちょっと!」

 さすがにあれにぶつかるのはまずい。何が起こるかわからない。しかしハンドルを握り直したときには既に、あたしの乗ったバイクはシールドのすぐそばにあった。必死に方向転換して、アクセルを入れる。けれどバイクはシールドに引っ張られるようになってしまって、言うことを聞かない。あたしはかたく目をつむった。

 それがいったい何秒間の出来事だったのか、あたしは知らない。気が付いたら浮遊感があたしを支配していて、つられて目を開ける。

「え……」

 森があった。それも、アフリカとかにありそうな熱帯雨林が。と、驚く間もなく、あたしとあたしを乗せたバイクは落下していく。

 声も出なかった。内蔵がひっくり返るような恐怖でのどが詰まったようになって、ただ迫ってくる地面を、目を見開いて待つことしかできなかった。

 もちろん、あたしは死ななかった。死んでいたら昔人が住んでいたであろう住居に勝手に住むことでもできないし、こんなふうにビスマルクに乗ってお出かけすることもできない。これは後で知ったことだけれど、あたしの乗っていたバイクには落下したときのためのセーフティが付いていて、落下していることを感知すると自動的に落下速度と衝撃を緩和するように働くらしい。それでも地面に落ちたときの衝撃を完全には殺せなかったようで、あたしはその後数分間の記憶がない。

 次に気が付いたとき、あたしは途方に暮れるしかなかった。だって、周りは巨大樹ばかりで下草ばかり。おまけにバイクは壊れていて、ケータイも圏外。先生、こんなとき、どうすればいいんですか?

 あ、そういえば、大きな地震があったときの訓練って名目で、学校での合宿があったっけ。地震が起きたら、揺れが収まるまで机とかの下で動かない! 揺れが収まったら、校庭とかの広い場所に避難。交通機関が麻痺している可能性があるから、自宅が遠い生徒は学校で待機。二次災害とかを防ぐために、余計な外出はしない!

 うん、なるほど。とりあえず、下手に動かない方がよさそうだ。あたしは努めて息を落ち着かせ、周りを見渡した。

 落っこちながら見たときと同じ、アフリカとかにありそうな熱帯雨林。それだけだった。

 と、どこからともなく葉っぱがこすれるような音がして、あたしは耳を澄ませる。そうして音源の位置をなんとなく絞ったところで、それはいきなり飛び出してきた。

 紅い。そのくらいしかわからなかった。とにかく飛び出してきたその何かは、五メートルくらいは飛んだかと思うと、その勢いのまま木の葉へと突っ込み、それからあたしの近くに着地した。

 だいたい、ゴールデンレトリバーぐらいの大きさ。その口には果物らしきものがくわえられている。地面からジャンプして木の実を取るなんて、信じられない跳躍力だ。それに、この生き物をなんと呼べばいいのだろう。大きさと形こそ大型犬だけど、鮮やかな紅蓮の鱗に全身が覆われていて、鋭く尖った角もある。

 竜だ。

 あたしはほとんど直感でそう思った。

 その「竜」は、手に入れた果物をくわえたまま、地面に落として手で押さえることもせず、そのまま噛み砕いた。ぐしゃ、という音。すごい顎の力だ、鋭い牙もある。

 そう思った途端、原始的な恐怖があたしを襲った。これは竜だ、きっとあたしのことなど、いとも容易くバリバリと噛み砕いてしまえるに違いない。その考えを裏付けるかのように、木の実を食べ終えた「竜」は、こちらにゆっくりと近づき始めた。

「ひっ」

 逃げればいいのに、その時、あたしの足は動かなかった。金縛りって、きっとこういうことを言うのだろう。あたしは目を見開いたまま、ただその「竜」をじっと見つめることしかできなかった。

 「竜」が手を触れられる距離まで近づき、その茶色い瞳でこちらを見る。そして、「竜」はその場でごろんと仰向けに転がり、お腹を出して、嬉しそうに尻尾を振り始めた。

 声が出なかった。でも、この時あたしは、猛烈な既見感を覚えていた。去年の夏に死んでしまった、柴犬のメル。あの子も、こんなふうに「お腹なでて」のポーズをよくしていたっけ。人間を信頼していなければ到底できない芸当だ。

 あたしは、糸に引かれるようにして、その「竜」に手を伸ばした。





   2


 そうして、その「竜」はあたしに付き従うようになり、あたしはその「竜」をメルクリウスと名付けた。どこかの神話に登場する、商売とかを司る神の名前。特に意味があったわけじゃなくて、今は亡き柴犬のメルにちなんでみたというわけだ。我ながら安直だね。

 さて、目的のホームセンターに付いたわけだけれど、当然のように無人だった。べったりとついた赤い染みがところどころにある通路を抜け、目的の園芸コーナーにたどり着く。

 あったあった、二十日大根、赤蕪、トマトなどなど。値札はあるけれど、素直に支払う気はない。それこそ、お金をドブに捨てるようなもの。教訓、経済とは、一人では成立しない。

 床のところどころにある血痕は、園芸のコーナーにも、ペットショップのコーナーにも等しく付いている。犬や猫のいたケージのほとんどは壊され、かつて血溜まりがあったことを暗示する色に染まっていた。

 愛犬のメルも、こういうペットショップで出会った。まだ生まれたての姿で、「お腹なでて」のポーズをすることもなかったけれど、当時幼稚園生だったあたしは一目惚れしたものだ。そこであたしはお父さんに必殺泣き落としを使って、メルを我が家にご招待したのだ。

 それが原因というのはちょっと短絡的だけれど、あたしはドラマでも映画でも動物モノに弱い。南極観測隊の犬たちのお話とかは、まわりが引くぐらいに大泣きしたものだ。

 不思議と、ヒューマンドラマではそこまで感動したことがない。そういうのも見ないわけじゃないんだけど、闘病ものとかのドラマを家族で見ていても、あたしとその他の温度差にはたまに驚くことがある。

追憶を振り切るようにしてホームセンターの二階に上がり、乾電池や保存食などを拝借していく。例によって、持っていくのは後ろに控えるメルクリウスだ。

「ねえ、メルクリウス」

 あたしは、メルクリウスの背中にくくりつけてあるバックパックに品物を詰め込みながら、なんとなく話しかける。

「保存食とか、あとどんぐらい持つだろうね? 売場は結構減っちゃったけど……あ、でも倉庫とかあるか」

 メルクリウスは、こちらの手の臭いを嗅いでくるだけだ。あたしは食べ物じゃないよ。

「あんたは木の実くらいしか食べないもんね。こんな立派ななりをしているのに、草食系じゃない」

 昔メルにそうしたようにあごのあたりをなでると、メルクリウスはぐるると警戒音をたてる。これはなかなか凄みがあった。

「ああ、ごめんごめん」

 あたしはホームセンターを後にし、ビスマルクに乗って家に帰る。不思議なことに、ビスマルクは一度行った場所の位置を完璧に覚えていて、しかもそれを言葉で理解する。「家に帰ろ」の一言で、家までの直行便を運行してくれるのだ。

 家に帰ったら、さっそく家庭菜園の開始だ。ちょうどヴィルヘルムが遊びに来ていたので、庭の土を掘り返してもらう。長い耳と大きな後ろ足を持っていて、ものすごいジャンプ力を持つけれど、前足で穴を掘るスピードも侮れない。やっぱり、君はウサギなのかな? 紅蓮の鱗と角を持つウサギなんて聞いたことはないけれど。

 肥料を土に混ぜて、種まき。じょうろで軽く水をまいたら、完了だ。ヴィルヘルムにはここに立ち入らないようにきつく言いつけて、あたしは部屋へと戻る。

 やるべきことは、フリードリヒが撮ってきた画像のチェックだ。手元の地図と見比べながら、十倍速で流していく。十倍でも問題ないのは、単に住宅やお店がある場所が森に浸食されているか否かを知るためだからだ。最初のうちは地図が当てにならなくて、拠点からなかなか動けなかったものだ。ビスマルクがいなければ、迷子になっていたかもしれない。

 そうそう、家を見つけるのだって大変だ。運良く森に浸食されていなくても、家中血痕だらけでとても住めるものじゃないところだってある。その点、この物件は本当に恵まれている。正直ここから動きたくない。

「あー、疲れた!」

 一通り画像を眺めて、あたしは伸びをする。いつのまにか窓の外は暗くなっていて、少し驚いた。おなかも減ったし、ごはんにしようか。

「おーい、メルクリウス!」


 それから一週間後、手作りの畑から出た数センチほどの芽たちは、一様に枯れ果てた。まるで呪いにかかってしまったかのように、一晩で黒くしなびてしまったから、多分、普通の理由じゃない。何にせよ、もう一度育てる気にはなれないほど、呆気ない終わり方だった。

 畑が全滅した晩、あたしは久しぶりに枕を濡らした。この世紀末的な森林地帯、城壁内に迷い込んでから、もう一ヶ月以上も経っている。あたしの他に、生きている人間を見つけることはできなかった。死体すらない。あるのはただ、怨念のようにこびりついている血痕だけ。

 ちょっと過保護なお母さんのことだ。もう失踪届が出されていて、警察による捜索がなされているに違いない。望星(みぼし)美香(みか)、十七歳、部活へ行くと言ってホバーバイクで家を出たあと、行方がわからなくなっています。そうやって報道されているかもしれない。

 このまま、一生、あたしはここから出られないかもしれない。そうでなくとも、食料や燃料には限りがある。それに、どこに行ってもこびりついている血痕だ。きっとこの城壁内には、何かがいるのだ。

 そんなことを考えていたからだろう。まどろみながら、恐ろしい夢を見た。なんと形容すればよいのかまるでわからない恐ろしい怪物に喰われる夢だ。この城壁に入ったときのように、あたしは恐怖で金縛りになり、一歩も動けなかった。そして怪物の口から発せられる生暖かい息が全身にかかり……。

 そこで、あたしは目を覚ます。自分でもびっくりするくらい息が荒くなっていて、嫌な汗がじっとりと額を濡らしていた。

 頭ががんがんする。気持ちが悪い。寝るということが、こんなにも恐ろしいことだなんて知らなかった。呆然として、上体を起こしたままの姿勢で違い棚を見つめる。

 と、左手に何かが当たって、あたしはびくっとなる。見ると、メルクリウスが鼻であたしの手をつついていた。

 あたしは脱力して、布団に横たわった。メルクリウスは顔を近づけてきて、きゅうきゅうと情けない鳴き声を発する。まるで、寂しがっているかのように。

「あなたも、なの?」

 言いながら、あたしは思い直す。メルクリウスはひとりぼっちじゃない。あたしがいるし、他の「竜」たちもいる。それは、あたしも然り。

「そうだよね」

 あたしは手を伸ばし、メルクリウスの額に触れた。意外にも滑らかな鱗は彼が恒温動物であることを主張するかのように溌剌と熱を放っている。その生暖かい吐息が顔にかかり、くすぐったかった。

 いのちの暖かさだ。

 その温もりが、あたしの恐怖を、少しずつ、少しずつ、解きほぐしていった。





   3


 初めは単なる見間違いかと思った。

 というのも、地図上ではなにもない山間に、あまりにも大きな施設が建っていたからだ。家庭菜園が頓挫してから三日、いつものようにフリードリヒに取り付けたカメラの画像をチェックしていたとき、それを見つけた。

 最初に、方角を確認した。次に山の位置、最後に地図の表紙を確認した。どこもおかしいところはない。

 モニターに視線を戻す。その施設は外から見た感じでは白っぽく、病院とか、研究所とか、そんなふうに見えた。

 研究施設。

 その着想に、あたしの頭はにわかに活気立つ。だいたい、こんな山間にこんな大きな建物があるというのもばかげている。地図にも載っていないのだからなおさらだ。

 ここに行けば、何かがわかるかもしれない。そんな根拠のない期待が、あたしに遠出の準備をさせた。

 幸い、交通手段は確立されている。ビスマルクに乗れば早馬もかくやという距離を移動できるし、斥候もフリードリヒに任せておけば大丈夫だ。あとメッテルニヒも連れていこう。

 翌日早朝、あたしはビスマルクに乗り、研究所らしき建物に向けて出発した。

 夜のうちにまとめた荷物をメルクリウスに持たせ、あたし自身は手のひらサイズの竜であるメッテルニヒをバッグにつっこんでおく。前方ではフリードリヒが飛んでいて、なんだかこれは桃太郎みたいだ。

 こんなふうにこき使っておいてなんだけど、この竜たちは不思議なほどあたしに従順だ。食いしん坊だったり、遊び好きだったり、のんびり屋だったりと性格には差はあるのに、あたしの言うことは絶対聞くし、あたしに襲いかかってきたことも一度もない。

 そもそも、竜というのはあたしが勝手につけた名前だし、この子たちは何者なのだろう。

 あたしは無言で思考を振り払う。これからそれがわかるかもしれないのだ。今は悩んでも仕方がない。ビスマルクの背中から振り落とされないようにしないと。

 なんて、このくだりはあたし自身、はっきりと覚えているわけじゃない。映像でその建物を見つけてきてからほとんど夢中だったし、気がついたら「研究所」の前についていた。だいたいそんな感じだ。

 上空から見た感じはきれいな四角形の連なりだった「研究所」も、こうして目の前から見てみるとずいぶんとボロくなっているのがわかる。浸食されている、と言ったほうが正確だろうか。木の根っこのようなものに壁はぶち抜かれ、扉も窓も壊れ放題だった。今考えてみれば、本来厳重なセキュリティに守られていたであろう「研究所」の内部に、簡単に進入できたのはそのおかげだったのだろう。

 あたしはメルクリウスとメッテルニヒを連れて、軽く内部を探索した。ここでもいくつかの発見はあったのだけれど、これはこの事件に直接関わることじゃないから、割愛しておく。重要なのは、「研究所」の中央部に、ものすごく長い地下への階段があったということだ。

 これってあれだよね、ホラーとかによくある。こういう階段の先に人類が衰退した原因があったり、それに集まってきた幽霊が悪霊化してたり、ヤバい生物が生息してて女の子がうねうねに犯されたり……おっと、それは現住所二階のベッドの下にあった書物か。

 一人だったら、きっと怖じ気づいて逃げ帰っていただろう。でも、あたしにはメルクリウスとメッテルニヒという心強い「竜」がいる。きっと化け物なんかあたしの視界に映る前にフルボッコにしてくれるだろう。とはいえ、「研究所」の中にはそんな化け物はいなかっったから、そんなことにはぜんぜんならなかったのだけれど。

 この場所も、外の状況と似たり寄ったりだった。所々でべったりと付いた血溜まりの痕らしきものがあるだけで、人っ子一人いない。でも、ここまで降りてきて、あたしはここが研究所であることをはっきりと意識した。

 いかにも高そうなコンソール。丈夫そうな檻、ホルマリン漬けにされたよくわからないなにか。ところどころにある、バイオハザードのマーク。まるで映画のようなステレオタイプさだ。

 幸いと言うべきか、施設の電源は生きていて、いくつかのコンピューターにはアクセスできた。まあここでもゾンビ映画みたいにちょっとした謎解きがあったのだけれど、それは別の話だ。

 とにかくあたしは必要なパスワードを入手して、人のパソコンを勝手に覗いた。結果、この施設では「テラフォーミング生物群」の研究がなされていたことがわかる。

 そのころのあたしには、テラフォーミングという単語が何を意味するのか、よくわからなかった。だから、この単語の意味を知ったのも、まさにこのときだったのだ。

 そのパソコンを使っていた科学者は、優秀だった。立場上の理由からか、お偉いさんに研究をプレゼンするための書類とかがデータとして残っていたのだけれど、それは、あたしが呼んでもおぼろげに理解が可能なくらい分かりやすかったのだから。

 話は壮大だった。

 それは、人類が他の星に移住するために必要な処置だった。もし、地球のような人類の住める星が見つかったとする。でも、そこには人間に害をなす凶暴な生物が生息していたら、おちおち生活などしていけない。大気の成分だって、違うかもしれない。

 だから、その土地を整えるための先兵が必要なのだ。多少強引にでも大地に根を張って酸素を生み出す植物や、他の危険な動物を滅ぼす強力な動物が。

 それは、数種類のウイルスからなるネットワークだった。そのウイルスは現地の動植物に感染すると、その遺伝子をめちゃくちゃに操作して、強靱な生命力を持つ植物と、動物に作り替えてしまう。

 それこそが、この辺り一帯に生い茂るジャングルであり、そして「竜」たちの正体だった。

 ある一定の期間の間、「竜」たちは他の生物を殺戮してまわり、ある程度任務が完了したら、やってくる人間たちの従順な召使いとなる。なぜなら、彼らはそのように作られたから。

 驚きがなかったわけじゃなかった。でも、あたしはそこでメルクリウスたちから後ずさったり、悲鳴を上げたり、涙を流したりすることも無かった。

 だって、「竜」だなんて。この世界にいるはずのないものが、当たり前に、驚きの新事実もなく、生きているはずなんかない。

 場違いにも、いつかテレビで見た怪獣を思い出す。その怪獣は核攻撃に晒されて、怒って地球にやってきたところを、出てきたヒーローが倒すのだ。その悲鳴がひどく哀しいものだったのを、生々しく思い出した。

 あたしは首をふってその記憶を振り払い、さらなる情報を求めてマウスを操作する。

 施設には、断続的にメールが届いていた。内容は、「テラフォーミング生物群」研究の完全中断。プラズマシールド発生装置の老朽化によるタイムリミット。そして生存者がいれば、現状を報告するようにというものだった。

 至極真っ当だ。事故で研究者がいなくなってしまっては、研究なんて続けることはできない。だから、当然の成り行きとして、その先も存在していた。

 城壁領域内への、核による浄化措置。テンプレート通りだ。別宇宙からやってきた侵略者も、かの怪獣も、みんなみんな核攻撃。そんなの、映画だけだと思っていたのに。ご丁寧に、この研究所も爆破予定らしい。

 期日は決定済み。今から、約一ヶ月後。あたしはそこまで読むと、座っていた椅子の背もたれにだらりともたれかかった。思考を放棄して、目を瞑る。

 実感なんて、あるわけもない。このメールはつまり、死刑宣告だった。わたしと、城壁の内側に住むすべての生き物たちへの。

 ぐったりしたのを心配してか、メルクリウスがあたしの手をなめた。あたしは目を瞑ったまま、その口を伝って、頭をなでる。

 しばらくそうしていたら、不意に何かがあたしの頭に乗った。メッテルニヒだ。かつて、オーストリア宰相としてウィーン体制を支えた人物、その名前を適当につけた、小さな探検家。

 あたしがゆっくりと瞼を開け、のびをすると、メッテルニヒはあたしの頭の上から飛び降り、そのままの勢いで駆けだした。と、思ったら急に立ち止まり、こちらを見る。付いてこいとのお達しのようだ。

 本当に鼻を使ったのかは置いておいて、メッテルニヒの嗅覚はさすがだった。迷路のような研究所の通路を迷いなく進んで、その部屋へとあたしを導き、ついでにIDカードのようなものを持ってきて、その扉を開けさせたのだから。今でも、なぜメッテルニヒにこんなことができたのか、まったく分からない。あたしの肩の上に乗った紅蓮の鱗に覆われたちいさな体の、ちいさな鼻が誇らしげにぴくぴくしていた。髭が首に当たって少しくすぐったい。

 入った部屋の中でそれを見つけて、あたしは息を呑んだ。ホルマリン漬けにされたシーラカンスのように、または、液体のつまった生命維持装置に閉じこめられている人造生命体のように。それは大きなガラスの内側に閉じこめられていた。

 鱗に全身を覆われてはいるものの、それは、明らかに人の形をしている。我知らず、あたしは後ずさっていた。

 呆然とする。いったい、何で、人間の形をした「竜」がいるのか。その疑問を打ち砕くかのように、突然、メルクリウスが人間の形をした「竜」の閉じこめられているガラスに突進し、ぶち破った。

「ひっ!」

 あまりに突然だったので、短く悲鳴を上げてしまう。メルクリウスはそんなあたしの反応はお構いなしに、吹っ飛ばされて地面に横たわった人間の形をした「竜」に寄り添い、その手を舐めた。

「どうしよう……」

 飼い犬、いや飼い竜の不始末の責任は、その飼い主にある。けれど、これはあんまりだ。この時のあたしは、多分たっぷり一分くらいは固まっていたんじゃないかと思う。

 あたしは、この人間の形をした竜を「拾う」ことにした。別にじっくり考えたわけじゃなくて、思考停止した結果だ。雨に濡れた捨て犬を、考えなしに連れて帰ってしまうようなもので。

 この時。

 もし、あたしがこの「竜」をその場に捨ておく判断をして、「研究所」のもっと奥を探索していたとしたら。そうでなくとも、メッテルニヒがあたしをこの部屋に案内していなかったとしたら。本当にどうなっていたのだろう。竜たちは、外の世界に出ることができたのだろうか? このことは後で詳しく話すけど、この時、あたしはこの「研究所」の奥を調べずに、人型の「竜」だけ連れて帰った。そういうことだったんだ。





   4


 その彼が目を開いてその鳴き声を響かせたのは、「研究所」から帰って次の日の夕方だった。それまでの丸一日中、あたしはその「竜」をまじまじと観察する機会を得た。

 一口に竜といっても、城壁内にいる子たちの竜具合にはいくらか差がある。メルクリウスのように全身がすっぽり鱗で覆われている子もいれば、ビスマルクのように背中だけ鱗がなく、ふさふさの子もいる。この人型の「竜」は、メルクリウスに近いタイプで、耳や瞼まできっちりと鱗に覆われていた。髪もないし、何というか、ゲームとかによくいるリザードマンと半魚人を足して二で割ったような雰囲気だ。

 身長から見て、あたしと同じか少し下くらいの男の子だったのではないかと推測できる。元々、この子はどんな人間だったのだろう。

 本人の口から聞くことができればよかったのだけれど、この「竜」は喋ることができなかった。目を覚ました直後、竜そのものの吠え方をしてあたしの期待を粉々に打ち砕いてくれたことには、さすがのあたしも結構根に持っている。

 とりあえず、最初は餌付けだ。あたしはメルクリウスお気に入りのツナ缶をお皿に出して、彼に与えてみた。

 結果、食べた。お皿もだめにされたけど。さすがにお皿はまずかったのか、ぺっと吐き出したのが憎たらしい。

「あんた、名前は?」

 そして、だめもとで聞いてみる。答えは ぐるるといううなり声。あたしはため息を吐くと、かつてフリードリヒたちにしたように、命名式を開催する。あたしにネーミングセンスなどというものは存在しないので、歴史の授業とかで知った名前を適当に当てはめるだけなのだけれど。

「うーん。じゃあ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世」

 意味もなく長い名前を言い、あたしは得意げな笑みを浮かべる。名前だけいやに覚えていたけれど、どんな人間だったのかは全く覚えていない。

 対して、人型の竜は首を傾げた。

「……ないか」

 そんな名前じゃ、呼びにくいったらありゃしない。とはいえ他の名前を当てはめるのもなんだかしゃくだったので、あたしはそれにちなんだ名前を強行採決する。

「うん、あんたの名前はヴィト。これからあたしは、あんたのことをヴィトって呼ぶ。わかった?」

 あたしが念を押して言うと、ヴィトはぐるると答える。ま、すぐには覚えないわよね。

「付いてきなさい」

 あたしが言うと、ヴィトは無言でベッドから立ち上がり、命令に従った。

 不思議なものだ。メルクリウスも、フリードリヒも、あたしの出会った竜たちは一部の人間の言葉を理解する。研究所で知った、人間の従順な召使いとして作られたという事実が、わたしの頭をかすめた。

 とはいえ、ヴィトをあのまま放置した結果部屋をぶっ壊すという暴挙に出るという可能性がなくはない。いつもは温厚だけれど、その力はまさに竜そのもの、合板でできた壁なんて、ダンボールか何かのようにぶち破ってしまうことができる。

 竜の正体が衝撃的すぎて話そびれてしまったけれど、あの研究所で仕入れた情報の一つに、竜たちには互いに意志の疎通が言葉を持っているらしいというものがあった。それなら、あたしではなくメルクリウスたちに先生をつとめてもらったほうがいい。

 けれど、目覚めたヴィトと最初に対面したメルクリウスの反応は、ひどく予想外なものだった。

 あたしがメルクリウスと初めて出会ったときの、おなかを見せて「かいて」の要求、あるいは完全服従のポーズ。それを、ヴィトに対してやったのだ。

 対するヴィトは、微動だにしない。無言の時間が続き、耐えかねたあたしがヴィトの目の前で手を振ると、ヴィトは抗議のうなり声をあげる。

 瞬間、尻尾を振っていたメルクリウスの動きが、止まった。まるで、「あ、間違えた」とでも言うように、すぐさま姿勢を元に戻し、あたしの足下に身を寄せた。

 ここに来て、あたしは、メルクリウスがヴィトのことを人間だと「勘違い」していたことに思い至った。と同時に、寒気に似た戦慄が背筋を走る。

 竜は、他の惑星に降り立った人間たちをサポートするために作られた、召使いだ。では、人間であり、同時に竜である竜が目の前に現れたら、どうするか。

 その結果が、メルクリウスの反応だ。きっと、あの研究所にいた人たちはそのケースを試そうとしていたのだろう。だから、ヴィトは作られた。

 自分でも驚くぐらい急に、涙が出た。

なんということだろう。メルクリウスにも、ヴィトにも、彼らだけの人生が、生き物としての生があっただろうに。人が作り出したテラフォーミング装置によって、彼らは「竜」となった。山間とはいえ、被害は人里にも及んでいたから、きっとこのウイルス災害は事故だったのだろう。それが、余計に悲しかった。研究所にいた人たち――もう生きてはいないだろうけど、きっと彼らも望んで事故を起こしたわけじゃない。ここでは、誰もが被害者だった。

 メルクリウスが心配をして、あたしの手をなめる。人の形をした竜は、その光景を、いつまでも、いつまでも眺めていた。




 あたしの体に異変が起き始めたのは、ヴィトが目覚めた二日後の朝からだった。いつものように洗顔、その乙女の嗜みの最中、あたしは自分の肌がいやにかさついているのに気が付いた。この頃いろいろとあったし、疲れが貯まっているのかなと思って、その時は特に気にもかけなかったのだけれど、その夕方になって、異変ははっきりと自己主張をし始めた。

 なんだか体がだるくて、昼寝を決め込んでいたあたしだけれど、どうにも調子が悪かったので体温を計り、熱が出ていることを知った。そして顔色を見るために見た鏡に映った自分の姿に、あたしは絶句した。

 紅い。朝は健康的な肌色をしていた顔が、食紅を塗りたくられたように変色していた。そのあまりにメルクリウスたちを彷彿とさせる色に、あたしは恐怖で凍り付き、膝を折ることさえできなくなっていた。

 あたしはその時、寝室に戻って布団をかぶって震えるか、外に飛び出して空のバカヤローでもするつもりだったのだと思う。そのまま鏡の前でじっとしていたら、その赤い肌と同様にどうにかなってしまいそうだった。

 でも、あたしが行動を起こす前に、あたしは突然壁をぶち破って現れた何者かに腕を掴まれ、家の外に放り出されていた。あたしの体はバトルもののアニメか何かのように宙をぐるぐると回転し、派手に地面を転がった。

 もちろん、その瞬間のあたしにはなにが起きたのか、全くもって理解できていなかった。無理もない。あたしの髪は突然金色になったりはしないのだから。

 しばらく目を回し、気がついて最初に目に入ったのは、一階部分の壁に大きな穴が開いている光景だった。そのあまりにシュールな景色に、あたしの頭は急に冷静さを取り戻す。

 うつ伏せの状態から、手足に力を込める。幸い、五体満足で骨も折れた様子もない。けれど、一瞬であたしの全身に刻まれた打撲はひどいものだった。あまりの痛みに、あたしは再度その場に突っ伏してしまう。

 その場から動けず、穴から紅蓮の鱗をまとった人型が現れるのを、目を見開いて見届ける。それは間違いなくヴィトだった。しばらくきょろきょろとしていたが、ふとあたしと視線が合うと、直後、人ならざる咆哮を上げて突進してきた。しかし力を制御しきれないのか、あたしを通り過ぎてしまう。その様子を見ながら、あたしは奇妙な高揚感に囚われていた。

 これは、憎しみだろうか? しかしそれにしては、渇望に似た熱量が体中を駆け巡っている。どうしようもなく、これから素晴らしいことが起きるという予感が頭の中をがんがんと響きわたる。

 でも、地面を数十メートルも転がるほどの勢いで放り投げられたあたしは、一歩も動けないどころか、立ち上がることさえできなかった。沸き上がる高揚感と、全く動かせない体。その相反する感覚が、脳味噌をぐちゃぐちゃにする勢いで渦を巻く。

 体勢を立て直してもう一度突進してくるヴィトからひとときも目を離せぬまま、あたしの心はもう壊れそうになっていた。

 と、紅蓮の色を持った風が、吹いた。

 それはヴィトを突き飛ばし、あたしがそうなったように数十メートルも地面を転がった。けれど動きを止めることはない。丁度、サバンナのチーターがそうするようにヴィトの首筋にかぶりつき、激しく揺さぶっている。それの首が力強く振られる度、水まきかなにかのように赤い液体が迸る。

 生命力はさすがの竜だ。ヴィトが動かなくなるまで、車を洗うぐらいの時間はあったかもしれない。それはさすがに言い過ぎかもしれないから、もっと短かったかもしれないけれど。当のあたしはそれどころじゃなかった。

 今思えば、それはたぶん、天敵か何かを目の前にした高揚感だったのだと思う。ヴィトという、人間の形をしながら竜の特徴を併せ持ち、そして人を襲う、彼らにとって排除すべき存在を目の前にした。その状況への条件反射。あたしはもう、半分以上竜になりかけていたのだ。

 ヴィトが動かなくなったのを確認したそれは、それがさも当然のことであるかのように、ヴィトを食べ始めた。いつの間にか巨大な鳥が降りてきて、仲良く会食と洒落込む。

 それは、メルクリウスとフリードリヒだった。

 人間の形をした生き物がばりばりと噛み裂かれる光景というのは、筆舌に尽くしがたい。さきほどまであたしを喰いつくそうとしていた奇妙な高揚感は消え去り、あたしは女子として至極真っ当なリアクションを取った。

 何かを見たことが原因で吐いたのは、これが初めてだったかもしれない。それは、ノロウイルスによる嘔吐感よりもずっと、吐いたあとの改善がなにも見られないものだった。

 食事を終えたメルクリウスとフリードリヒが、こちらに寄ってくる。その体を覆う紅蓮の鱗は血を浴びててらてらと光っていた。なんとか吐き気は堪えたけれど、恐ろしさに後ずさってしまう。

 一歩、後ろに踏み出した瞬間、二匹はぴたりと動きを止めた。二匹は困ったように顔を見合わせ、もう一度こちらに視線を戻す。

 それからしばらく、あたしたちは無言で視線を交わしていた。

 なにも言えなかった。

 そのうち、メルクリウスがきびすを返し、フリードリヒは飛び立った。暗黙のうちに、彼らはあたしが必要としているものに気がついたようだった。

 あたしは、城壁内部に入って初めて、ひとりぼっちになった。





   5


 人間、水と食料さえなんとかなればいくらでも引きこもっていられるらしい。今でこそ、それ以外の要素が必要になってくることは知っているけれど、その時のあたしは本気でそう思っていた。

 まったく、死人と呼ぶのが丁度いい有様だったと思う。研究所で見つけたあの情報。一週間の後、城壁の内部は核爆弾でなにもかも吹き飛ばされる。何世代か前のSF小説を愛読している人は目を剥くと思うけれど、ウイルスの世紀と呼ばれるこのご時世、核爆弾なんてそこまで大したものじゃない。あなたなら知っていると思うけど、今の時代の核爆弾は、一帯に放射性物質が一ヶ月と残らない。その分、致死率はC型肝炎と鳥インフルエンザを足して二で割らないくらいだ。浄化にはうってつけと言える。

……その時が来れば、何を言わなくても終わらせてくれる。

 なんて卑屈だったんだろう。

 家庭菜園ができなくて、研究所でメルクリウスたちの正体を知って、自分がどうやら「竜」になりかけているみたいで、ヴィトに襲われて、その当人がメルクリウスたちに食されて。

 そんなイベントがあるまで、あたしはよく耐えたと思う。何せ、城壁内には人間など一人もいなかったのだから。一人ぼっちの人間は、どうしようもなく、脆い。

 彼らがいたから……。

 非力な女子高校生が、ちゃんとした住処を見つけ、食料を調達し、友達とのおしゃべりがない状況で正気を保っていられたのだ。竜たちは、あたしのよき友人だった。例えそれが、改変された遺伝子によって決められていたことだったとしても。

 それを言うなら、あたしだって、遺伝子で決められているから人間なのだ。あたしが自らの手で選んだものなんて、それこそ雀の涙みたいなものだ。高校だって、塾の先生から進められたところなのだから。

 一人の夜は、あまりに耐えがたいものだった。そんな、益体もないことを考えてしまうぐらいに。

 それでも、人間、ある程度時間が経てば自分が何に苦しんでいたのか忘れてしまえるらしい。ニュースやドラマで見る殺人事件では、何十年も前のことを復讐したがる人がいるものだけれど、あたしにはそんなスタミナなんてなかった。要するに、あたしは悩むのに疲れてしまったのだ。

 五日ぶりに鏡を見て、あたしは自分の皮膚が元に戻り始めていることに気がついた。軽く顔を洗うと、ひどく日焼けした後のようにぺりぺりと皮膚がはがれる。同じく日焼け痕のようにすごく痛かったけれど、その下から現れたピンク色に、あたしは詰めていた息を吐き出した。

 せっかくだから、外を見ていこうかな……。もう、最後の日だし。

 一応服を着替え、シャワーを浴びて、外へと出る。

夕暮れ時だ。斜めから差し込む赤い光がプラズマシールドにかき乱されて、まるでとてつもなく大きな生き物が向こう側で暴れているかのようだった。

 今日、この日。城壁の向こう側から爆撃機かなにかがやってきて、ここをきれいに焼き払ってしまうのだ。

 あたしは笑った。向こう側、だなんて。まるで、ただの高校生として過ごしていた頃のことが遠い昔のことのようだった。

「死にたくないな」

 自分でも気がつかないほど不意に、かすれた声が出た。遅れて、自分が口を開いていたことに驚く。まったく、あたしは完璧なまでに引きこもりになっていたらしい。

 その言葉に反応したわけではないだろうけど、その瞬間、森のあちこちから何かが飛び立った。夕日をはらんで、いくつものシルエットが天を目指して舞い上がっていく。まるで、この牢獄から逃げ出したいと願う誰かが、自由の象徴として夢見る鳩かなにかのように。

 しかし、プラズマシールドで囲われた城壁内部の空は、生物の移動を拒むために激しい乱気流が吹き荒れていた。飛び立った影たちは皆、乱気流に揉まれて高度を落とし、それでもあきらめずに天を目指す。

 急に、涙が頬を伝った。声はない、しゃっくりもなし、嗚咽ですらなかった。

 しばらく夢見心地でそんな景色を見ていたけれど、不意に、ぼとりと何かが落下する音がして、あたしは振り向いた。背中から体長をゆうに越える翼を生やしてはいたけれど、それは明らかに大型犬の形をしていた。

 あたしははっとして、その竜に駆け寄る。間違えようもない、メルクリウスだった。

 メルクリウスは竜にあるまじき情けない鳴き声を発して、差し出しだされた手を舐める。あの黒い影たちは、みな竜なのだ。どうにかして翼を生やし、ここから逃げようとしている。

 そう思った直後、空から、森のあちらこちらから、そしてメルクリウスの口から、雷鳴のような咆哮が発された。あまりに強いその響きに、体中が泡立つような、本能的な恐怖が全身を貫く。

 そして、変化は唐突に起こった。メルクリウスの背中から、さらに何かが生まれ出てくる。ばきばきと骨が折れるような音がして、先ほどとは比べものにならない大きさの翼が生えてきた。力強く羽ばたき、あっというまに飛び上がる。

 変化はそれだけではなかった。明らかに苦悶とわかる吠え声を上げながら、メルクリウスの体が、破裂した。その中からさらに大きな体が現れ、膨らんでいく。

 それは、まったくの、竜そのものだった。体中からぼたぼたと血を流しながら、天を目指して上昇していく。

 いつのまにか、空は巨大な竜たちに支配されてしまったかのようだった。大地に赤い雨を降らせながら、一点を目指して侵攻する。

 プラズマシールドのせいで、そこに何があるのかは見えなかったけれど、あたしにはそれがこの地を浄化するための何かを運んでくるものに思えた。

「そんな……無理だよ……」

 竜の巨大な翼をもってしても、プラズマシールドの生み出す乱気流を突破するのは容易ではない。竜たちは悪戦苦闘しながら、それでも諦めることはない。

 乱気流にもまれ地面にきりもみ落下した竜は、さらに体を巨大化させ、血をだらだらと流しながら飛び立っていく。あまりにもグロテスクな生命の進化。

 まるでファンタジー映画の一幕のように、竜たちは一点を目指し、その巨大な影は力強く羽ばたく。

 その光景は、どうしようもなく、生命の脈動が感じさせるものだった。





   6


 もちろん、今あたしがあなたと話している通り、あたしは死ななかった。竜たちは、見事城壁内部を守り抜いたのだ。

 当時のニュースを見た限りは、核爆弾を乗せた爆撃機は気流の問題がなんだとかで、一度引き返したことになっていた。

 元の体が小さかったせいなのか、メルクリウスたちのように巨大化しなかったメッテルニヒは、呆然とするあたしを再びあの研究所に導き、その奥にあった地下道から、あたしを逃がした。

 まったく、拍子抜けだった。ほとんど諦めかけていた脱出が、このような形で叶うなんて。

 メッテルニヒは、小さな体で恭しく、起用にお辞儀をしてあたしを送り出した。当然、あたしは彼を連れていこうとしたけれど、竜特有の無駄に強い力で拒否されたものだから、根負けして帰路についた。

 その後は、あなたも知っている通り。

 城壁の跡地に、あのビル街と、この公園が出来た。あの二か月の間は、本当に心配をかけちゃったね。うん、お母さんにも、泣いて抱きつかれちゃった。さすがに警察には本当のことははぐらかしたけど、あの時の顛末は、まあだいたいこんな感じ。

 最後まで口を挟まずに聞いてくれて、ありがとね。

 もう、あれから五年も経つんだね。どう? 新しい仕事は?

 うん、そうだよね。あはは、あたしも。まあ、あなたはこんな話を黙って聞いてくれるぐらいだし、たまには言いたいことも言わなきゃだめだよ? 特にオトコにはね。

 殺人事件の加害者は、現場に戻ってきたがる。そんな話があるけど、まあ、あたしもそんな感じかな。まだ誰にも話していないけど、やっぱり、誰かに話しておきたくてね。この地に眠っている、あたしのよき友人だったものたちの話を。

 ほんっとうに、持つべきものは友だちだよね。こんなの、一人で一生抱えられるものじゃない。

なんて言っておいてなんだけど、できれば、この話は誰にも言わないでほしいな。公にしたら、そりゃもう一大スキャンダルなんだろうけど、あたしはね、もう、彼らのことは放っておいてあげたいなって思うんだ。研究は完全に中止にされているみたいだし、無理に掘り返す必要もないしね。

 ああそうだ、案内したいところってのは、あたしがあの二か月の間一番長く住んでいた家があった場所でね。ほら、こっち。

 ……来るのは初めてじゃないんだけど、こう、噴水になってるってのもなんだか不思議な気分になるよね。まあ、偶然だろうけどさ。

――たぶん、ここにあなたは眠っているんだろうな。最後の日も、わざわざ家の近くに落ちてきたぐらいだし。紹介するよ、彼女は、あたしの中学からの友達。おっとりした子でね……。

 噴水の水は、まだ春が終わっていないことを主張するつむじ風によって、霧吹きのように軽くあたしたちを濡らした。

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おはようメルクリウス 世鍔 黒葉@万年遅筆 @f_b_yotsuba

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