第14話失敗になる時

「これからどうしましょう?」

 辛そうな顔をして愛菜は言う。何にせよいつまでも部屋の前にいるわけにはいかないがその前に確かめないといけないことがある。

「璃咲利夫にあれだけの啖呵を切ったってことは……愛菜、俺たちと来る気か?」

「もちろんですわ」

 璃咲利夫を思い出すような即答をする愛菜。

「もうわたくしはあの男を許すことはできません。本格的にあなた方に協力させてくださいまし」

 おそらくお嬢様である愛菜にとって辛い生活になるだろう。我慢できないかもしれない。だがもうそんなことを言っている次元でもない。

「ああ。よろしく頼む」

「こちらこそ、ですわ」

 とは言ってもここから逃げ出せないと話にならない。おそらく正門から出るのは不可能だろう。

「……お嬢様、こちらへ」

 考えていると、美紀さんが廊下の角から小声で呼び込んできた。

「美紀、どうしたんですの?」

 美紀さんの元に向かおうとする愛菜の腕を掴んで引き止める。

「あいつは敵だ。逃げるぞ」

 今外にいる警官を呼んだのは美紀さんだ。ついていったら何をされるかわからない。

「どこに逃げるつもりですか?もうこの家の周囲は警察に包囲されてますよ」

「その人の言う通りだよ。どこにも逃げられないっぽい」

 壁をすり抜けて偵察に行ってもらっていた日花里が帰って来る。だとしたらどうするか……。

「私ならあなた方を逃がすことができます」

「……信用できない」

「別に信用しないのは構いませんが、どちらにせよ逃げられないのなら私についてきた方が賢明なのでは?」

 確かにそうかもしれないが……。

「わかりましたわ」

 愛菜がうなずき、美紀さんの元に歩いていく。

「愛菜……」

「大丈夫ですわ。わたくし、美紀のことを信じてますもの」

「……仕方ないか」

 今は美紀さんについていくしか逃げ延びる術はない。駆け足で走る美紀さんについていき、ダイニングルームのような部屋の窓から庭に出る。目の端で正門を捉えると警官が数人待機している。

「こちらです」

 庭内を正門とは反対の方向に駆けていく。家の庭とは思えない広さの庭を駆け抜け、辿り着いたのは草が生い茂っている璃咲邸の敷地と外界を区切っている塀。

「ここからなら外に出ることができます」

 コンクリートで作られている塀に面している草を掻き分けると、人がギリギリ入れる程度の大きさの穴が空いていた。

「外には誰もいないよ。今がチャンスかも」

 日花里に塀をすり抜けて警官がいないか確認してもらったが問題はなさそうだ。

「……この中を通るんですの?」

 抜け穴を見て、愛菜が嫌そうに顔を引きつらせている。

「俺が後ろで警官が来ないか見張っとくよ。いつ警官が突入してくるかわからない。だから早く」

「ですが……ここを通ったら……服が汚れてしまいますわ!」

「…………」

 さすがお嬢様、ってところか……。

「いいから通れ」

「嫌ですわ!」

 埒が明かないな……。本当にいつ警官が押し寄せてくるかもわからないというのに……。

「お嬢様」

 依然とした態度の愛菜に美紀さんが近寄る。そして肩にぽん、と手を置いた。

「美紀……?」

「お嬢様は奥様の希望です」

「お母様の……?」

 俯いていた愛菜が顔を上げる。

「奥様のためにも、どんな手を使ってでもお嬢様は逃げ延びてください。それがお母様の望みです」

「……わかりましたわ」

 「奥様」という言葉を聞いた途端、愛菜の表情が変わった。悲しいような、覚悟を決めたような、複雑な顔に。

 地面に横になり、抜け穴の中に入っていった愛菜。胸の辺りで少しつっかえたようだが、何とか塀の向こうに通ることができた。

「……一つ、聞いていいか?」

「なんでしょう」

 残された俺は美紀さんに訊ねる。美紀さんはさっきまでの険しい顔とは違い、清々しい顔をしていた。

「何で急に俺たちに協力したんだ?警察を呼んだのはあんただろ?」

 それを聞いて、くだらない質問だとでも言いたげに美紀さんは笑う。

「私は今は旦那様に仕えていますが、以前は奥様に仕えていたのです。そう、奥様が亡くなるまでは」

 愛菜の母親が……亡くなっていた……。

「『本当に困った時、利夫さんではなく愛菜のことを助けてあげて』それが奥様の私への最期の言葉です。ただ私はそれに従ったまでですよ」

「美紀さん……あんた……」

 言おうとした時、奥の正門の方から雑踏の音が聞こえてきた。警官が突入したのだろう。

「時間がありません。あなたも早く行ってください」

「あんたはどうするんだ?このまま残ってもいずれ璃咲利夫に俺たちを逃がしたことがばれるだろ。だったら俺たちについてきた方が賢明なんじゃないか?」

「私は行きませんよ。私はあくまで、旦那様に仕えている身ですから」

 しかし美紀さんは俺の誘いをきっぱりと断る。このまま家にいたらどうなるか自分が一番よくわかっているだろうに。

「――お嬢様を、よろしくお願いします」

「――任せといてください」

 深々と頭を下げる美紀さんに背を向け、俺も抜け穴の中に入っていく。

「美紀はどうされました?」

 璃咲邸から脱出した後、美紀さんは来ないのかとしつこく聞いてくる愛菜をごまかして近くにあったマンホールの蓋をバールでこじ開ける。

「美紀さんなら大丈夫だよ。いいから早く逃げるぞ」

「逃げるって……マンホールの下って下水道ですわよね……嫌ですわよ!わたくし下水道なんかには……」

「ごたごたうるさい!これしか方法はないんだって!」

 わめく愛菜を無理矢理下水道の中に押し込み、俺も下水道の中に入り、蓋を閉める。

「きたないですわ……くさいですわ……ねちょねちょしますわ……」

「我慢しろよ、三十分くらいの辛抱だ」

「三十分!?無理ですわよそんなの……きゃっ!」

 騒いでいると泥に足を取られ、愛菜は頭から勢いよく転んでしまった。

「ぎゃーーーっ!顔が汚れてしまいましたわ!髪も!服も!」

「ねぇ聡志この人どうにかしてよ!うるさくて耳がキンキンする!」

 下水道の中に日花里と愛菜の叫び声が反響する。

「……うるさいなぁ」

 下水道の中を騒ぎながら帰っていく。

 こうして、俺と日花里の作戦は失敗に終わったのだった。

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