第3話 政権交代の裏で

1992年8月、金丸信副総裁が東京佐川急便渡辺広康社長から5億円を

受け取り、違法な政治献金問題を起こしましたが、大蔵省(現在は財務省)

と共謀し、20万円の略式起訴で済ませようとしました。世間やマスコミ

は大騒ぎしますが、金丸信議員は1月ほどの手前勝手な自宅謹慎だけで、

どうにか騒ぎをやり過ごそうとしました。10月になると、活動を再開し

ました。私はこれは許せんと思いました。マスメディアは騒ぐだけ騒いで、

視聴率と販売部数を稼ぐことに終始しているし、国民は相変わらず猿なの

で、相手にはされていないようでした。そこで、一計を案じました。

金丸信議員が北朝鮮の金日成国家主席と会談し、中国の江沢民共産党総書

記と会談したり、あちこちに圧力をかけて(在日米軍の維持費負担、PK

O法案、内需拡大のための大型補正予算)日本の政治を捻じ曲げてまで、

ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ米国大統領との会談を実現

させたことを思い出しました。金丸信議員は年齢やスキャンダルから首相

にはなれないことは理解していましたが、首相に匹敵する政治的な成果を

求めているように思えまました。田中角栄元首相がロッキード事件を起こ

したにもかかわらず、日中国交正常化を成し遂げたために、いまだに国民

の支持を得ているのを見ていて、金丸信議員は田中角栄元首相のようにな

りたいと思っているのだろうという印象を受けていました。そのために、

北朝鮮の拉致問題を封印しての国交正常化に向けた訪朝や米国のための在

日米軍の維持費負担、PKO法案、無理な内需拡大のための公共事業を実

施し、首相ではない金丸信代議士が成しえたかのように見せるために相手

国を訪問し、相手から直接、成果を得ようとしているように思いました。

金丸信代議士の行った数え切れないスキャンダルが公になった場合でも、

業績と相殺されて歴史に汚名を残さなくて済むようにと考えているようで

した。よって、金丸信議員に対して日本を代表して歴史に残るような業績

は残せないこと、田中角栄元首相のようになれないことをを突きつければ、

金丸信議員の政治に対する意識を絶つことができると考えました。このた

めに、金丸信議員が日本の政界に居直っても、外国政府からは相手にされ

ることはないということを金丸信議員に突きつけることにしました。田中

角栄元首相とは異なり、金丸信議員は有罪を認めました。外国のメディア

も安心して、金丸信議員を叩けるはずだと思いました。海外での評価を気

にする国民性を利用して、外国のメディアが金丸信議員を叩くことによっ

て、金丸信議員に対する国民の支持する気持ちを変えることもできると思

いました。この目的を達成するための手段は、外国において、外国のメデ

ィアがどのようにこの東京佐川急便献金問題を報道しているのかを国内に

伝えることだと思いました。このように報道すれば、金丸信議員が日本の

政界に居座ることは、日本の政治の異常さ、それを支持する国民の異常さ

を諸外国に示すことになることを、国民に突きつけられると思いました。

そして、金丸信議員の政治に対する意識を絶つことが可能だと思いました。

これらを周囲に伝えると、TBSのニュース23の筑紫哲也キャスターが、

金丸事件の外国での報道を取り上げました。その後、金丸信議員は自ら政

治生命を絶ちました。私の予定通りの展開になりました。予想道理であっ

てということは、金丸信議員は日本のマスメディアも日本の国民も相手に

するだけの価値はないと考えていることが間接的に立証できたということ

です。金丸信議員にとっては、海外での評価は重要で、海外での評価以外

には価値がないという印象を受けました。金丸信議員は、次に何か起こし

さえすれば、日本のマスメディアは視聴率と販売部数という数字稼ぎに奔

走し、日本の国民は猿なのですぐに忘れるとしか考えていないようですが、

確かに事実だと思いました。

後に、テレビ朝日の椿貞良報道局長が”非自民党政権が生まれるように報

道するように指示した”などといって物議をかもしました。米国なら問題

のない発言ですが、”公正な報道”という呪文で拘束されている日本の報

道に関する自覚のなさを露呈しただけでした。しかし、”公正な報道”と

いう呪文で拘束されている日本の報道であっても、外国の報道機関がどの

ようにこの東佐川急便献金問題を報道しているのかを国内に伝えることは

問題にはなりません。つまり、何の問題のない”公正な報道”でも、誰に

も気がつかれることなく、金丸信議員を政界から引退に追い込み、政権交

代を先導することは可能だということを示せたと思いました。


1993年8月、日本で本格的な政権交代がおきました。ただし、首相を

誰にしたら良いか判断に迷いました。金丸信副総裁の政治生命を絶ち、政

権交代を先導した私の意見を調査することにしました。小高敏夫会長と久

保徳雄前々社長から小池前部長経由で菅原正弘先輩に私から首相をどうす

るか聞き出すことが依頼されました。依頼を受けた菅原正弘先輩は私に

「首相を誰にすべきか?」と質問してきました。私はそんな判断任されて

も困るので、返答を避けましたが、菅原正弘先輩はしつこく聞いてきまし

た。しかたなく、私は軽い感じで「細川護煕議員」と答えました。菅原正

弘先輩は「細川ァ~、そんなことあるか~。」と返答の内容を認めていな

い割にはすごすごと引き下がって行きました。菅原正弘先輩の役割は私の

考えを聞きだすことで、誘導することではないと思い直したからでした。

国内的には、自由民主党出身の政治家では政権交代したような印象は与え

られず、自由民主党に対して反発している国民の支持は得られないと考え

て選びました。つまり、自由民主党出身の政治家が持っている、安定感を

利用するのは今ではないと考えました。外交的には、特に米国になります

が、県知事出身の細川護煕氏は、アーカンソー州知事出身のビル・クリン

トン大統領と意思が通じて、懸案を処理できると考えました。その翌日、

闇室の中で、大方の予想を覆すように細川護煕氏が首班指名を受けること

が発表されました。こんな具合に私の判断を鵜呑みにされるようになると、

私の判断が一つ間違えばとんでもないことになる危機感を感じながらも、

先が思いやられると心配になりました。しかし、細川護煕首相の支持率は

80%に迫り、私もここまで支持されるとは考えもしませんでしたが、推

薦した理由の1つは間違いのない見識であったと思い、ひと安心です。し

かし、その後の細い川政権が心配になりました。高支持率の内閣が適切な

政策を実施できないようでは、日本では民主主義が成立しないことを立証

するようなものですし、推薦した私の見識を疑われかねないので、私は政

策に関するアドバイスを行うことにしました。しかし、何でもかんでも言

えば良いということにはならないので、基本方針みたいなものが必要にな

りました。私は、しがらみのない立場、素人考えな政策なので大胆さが特

徴であり、官僚に考えつくようなありきたりの政策は官僚に任せれば良い

ことを考慮し、大胆な決断が必要になる政策に絞ってアドバイスを送ると

いう基本方針を決め、実行することにしました。菅原正弘先輩はこのよう

な状況になっても何も言ってきません。つまり、菅原正弘先輩は情報収集

とういスパイ目的だから、その印象を強く与えないように注意しているの

だと感じました。


まずは、米の備蓄は減らされ続けて、30万トン程度しかないことから、

1993年8月上旬に冷害による米不作を予想し、外米輸入の必要性を示

しました。これを受けて、首相になったばかりの細川護煕首相は農林水産

省に外米の緊急輸入の検討を指示しました。その後の日照不足、台風13

号の上陸により、凶作は日を追うごとに悪化し続けました。農業に携わる

人々、生産者、流通業者、現場を取材する記者は、体感的に、凶作になる

と思っていましたが、農林水産省は凶作になった場合の対策が十分でない

ことから、情報を隠すために操作し、8月下旬に発表された作況指数は9

5(やや不良)と発表しました。しかし、8月下旬に大阪で行われた第1

回自主流通米の入札は値幅制限いっぱいのストップ高を記録し、米の値上

がりを期待して入札業者も過去最高になりました。この報道を聞いて、私

の指示が的確であるったことに安堵する一方、今後の推移が気になり始め

ました。全国報道を行うマスメディアは、体感的に分かっているようです

が、農林水産庁の発表である作況指数に対して、批判一つできずに、95

(やや不良)という報道を垂れ流しました。全国報道を行うマスメディア

は、官庁の公式発表とは異なる報道をすれば不安をあおる結果になり、混

乱を招くのではないかという言い逃れ、言い訳、驕り、状況判断等々はあ

るでしょう。しかし、これはマスメディアが自分自身の問題に気が付いて

いないことを示しているのです。9月下旬の農林水産庁の作況指数の発表

には、マスメディアが群がりました。つまり、マスメディアは、農林水産

庁の作況指数の発表前に作況指数に関する情報を掴み、全てのマスメディ

アが事前に掴んだ情報を隠し、一斉に報道することで視聴率や販売部数を

かさ上げしようとしたのだと思いました。そして、報道という名前の騒動

をおこしました。しかし、私のおかげで、作況指数80という過去最悪の

結果に対して、初の緊急輸入という適切な対策で応じることができました。

これで、細川政権から私への信用が確立しました。


ただし、2つの点で対応を誤ったため、平成の米騒動になったと思います。

第一に、政治家、細川護煕首相が、このよう事態を迎えて、農林水産庁の

発表の前に、国民に対して状況の説明を行い、政策の適切さを示す必要が

あったにも関わらず、何の対応も行われずに、官僚任せにしたことです。

第二に、適切な対策が発表されたのにも関わらず、マスメディアは視聴率、

販売部数欲しさにセンセーショナリズム的な手法で、報道を行い、まさに

不安をあおる結果になり、混乱を招いたことです。作況指数がいくつであ

れ、買占めさえなければ、収穫期にあたる10月、11月に米が不足する

ことはありえません。そして、現在は主食とはいえ、米以外に食べるもの

はいくらでもあります。水不足のときには節水を呼びかかるように、米不

足なら他の作物を食べるように呼びかけ、不安をあおったり、買占めを助

長することなどするべきではありません。これは、マスメディアは、視聴

率、販売部数が稼げれば、国民の不安をあおることも、混乱を招くことも

厭わないという態度を示しています。つまり、マスメディアの本質は、官

庁の発表と異なる報道をしたくないというだけです。最も大きな問題は、

戦前の大本営発表を垂れ流していた時代から進歩していないことに対する

自覚がないことです。最終的には、作況指数は75という過去最悪の状態

になり、米騒動と不適切な報道とが相乗効果で食用に適さない外米の緊急

輸入を食用として販売せざる状況へと突き進んでいきました。オイルショ

ックのトイレットペーパー騒動までには至らなかったので、現在の政府、

報道と国民ではこの程度で上出来なのであろうと思いました。


2003年のコメ不作に対しては、適切な報道が行われたため1993年

のときのような騒動にはならずに済みました。2003年8月6日に日本

経済新聞がコメ不作民間予測を1面トップで報道し、米の備蓄が200万

トン以上あり、コメが不作になっても問題は無いことを伝えました。8月

上旬というタイミングも、十分な備蓄米があるという内容も、1面トップ

という扱いも私が望んでいたとうりに報道されました。これなら混乱は抑

えられると期待しました。最終的な水稲作況指数は全国平均で90になり

ましたが、センセーショナルな報道がされることも無く、混乱も無く過ご

せました。適切な報道が行われるなら、混乱が起きないことを立証できた

と思っています。ただし、視聴率や販売部数は伸びませんでしたが・・・


次に、ウルグアイラウンドでの米のミニマムアクセス受け入れを示唆しま

した。譲歩を引き出すのは当然としても、ウルグアイラウンド自体を崩壊

させるのは問題だと考えました。日本と米国の2国間貿易に関する多くの

問題点は、多国間貿易の拡大が日本経済の発展にとって欠かせない条件だ

ということを示していると思っていました。だから、日本は多国間協議で

譲歩しても、2国間では譲歩しないと決断しました。非自由民主党政権で

ある細川政権なら過去のしがらみにとらわれすぎることなく、判断を変え

られると思いました。そして、行き過ぎたブロック経済は、紛争や戦争の

元にもなります。ミニマムアクセスなら食用以外の加工品用途米で消費で

きるであろうと思いましたし、米価の安い加工品用途米の生産は農家にも

敬遠されていました。どうにか折り合いがつくはずと考えて、米のミニマ

ムアクセス受け入れを周囲に伝えました。しかし、政治家は、ウルグアイ

ラウンドでの合意を悪用して、ウルグアイラウンド対策費として巨額な予

算をハコモノ行政にばら撒き、票と金を集める手段として利用してしまい

ました。まったく、政治家というのは何を考えて政治を行っているのやら、

こんなんで日本が悪くなることはあっても、良くなることは決してないだ

ろうと思いました。


そして、1994年2月、米国が要求してきた数値目標による管理貿易の

受け入れ拒否を周りに伝えました。日本は自由貿易を支持し、輸入障壁は

排除し、不均衡があれば個々に話し合い、米国の産業界の努力を促し、自

律的に不均衡を解消するべきです。私は、以前から続く日米半導体協定、

半導体貿易における数量規制、価格規制等々を見ながら、これでは日本経

済にも、米国経済にも、ひいては世界経済にも悪影響を与えると思ってい

ました。つまり、日本が2国間の管理貿易を受け入れてしまえば、多国間

貿易拡大のためのウルグアイラウンドでの米のミニマムアクセス受け入れ

という政治決断が、ウルグアイラウンドに参加した各国政府の努力により

こぎつけた合意の意味が形骸化してしまうと思いました。米国政府は自分

自身の主張に疑問を感じながら、日本政府が従うので要求をさらに突きつ

ける悪循環に陥っていると思いました。どこかでこの悪循環と手を切り、

正常な関係にしなければならないのは政治の使命だとも思いました。

日米包括経済協議が合意に達しなかったことの意外性は大きい影響を与え

ました。しかし、官僚が提案したとも考えられないし、細川護煕首相が決

断したようにも思えないし、何でビル・クリントン米国大統領が受け入れ

たのかも分からない状況でした。理由は、米国政府が認めていた私が提案

したからでした。米国政府自身が推薦している人物の見識ならということ

で、先送りも、玉虫色の合意もせずに、日米包括経済協議にピリオドを打

つことで合意しました。世界中の経済学者が細川護煕首相の決断を高く評

価し、虚を突かれた米国の新聞でさえ、「細川護煕首相は自由経済貿易を

守った」と書きたて、自国の米国政府を非難しました。これなら、スーパ

ー301条などの過度な米国の報復がある程度抑えられると思う一方、反

動には対応しなければならないと思いました。円高に振れることは、覚悟

していましたが、自由貿易経済の下では長続きはしないと思いました。バ

ブルの後遺症に悩まされている日本経済がすぐに回復するはずはないので、

円を買っても、買った円を投資運用する先、例えば株式や債権のような物

がないと思ったからでした。日本に比べると米国は、経済の回復ははっき

りとしていて、株式や債権をはじめ有望な投資運用先がありました。つま

り、基礎的なファンダメンタルが為替に反映されれば、円安ドル高局面で

した。だから一時的に、政治的な思惑、市場の雰囲気で円高ドル安になる

ことはあっても遠くない将来、基礎的なファンダメンタルが反映されて元

に戻ると思っていました。さらに、各国の通貨当局がヘッジファンドを規

制しようと動いている最中なので、欧州通貨危機のような強引な手法は使

用しないとういことも市場環境には好影響を与えるであろうとも思いまし

た。だらだらと2年以上にも渡り円高ドル安基調が続き、80円まで円高

ドル安になるとは想像もしていませんでした。私は自分の見識に甘さがな

かったのかと考え直しましたが、今でもあのときの数値目標受け入れ拒否

は正しい判断であると思っています。そして、その後の混乱には他の政策

で収拾するべきであるという結論に変わりありません。


ショージ・ソロス氏らヘッジファンドは、ビル・クリントン政権内部から

「日本は最後には折れて、日米包括経済協議は合意に達するであろう」と

いう情報を得ていたし、基礎的なファンダメンタルを考えても円安ドル高

局面なので、思い切った円安ドル高の先物取引を行っていました。2月1

1日金曜日の夕方、細川護煕首相とビル・クリントン大統領は日米包括経

済協議が合意には達しなかったことが発表されました。平日なら24時間

どこかの国の市場が開いていて、米国政府からの内部情報を早く入手し、

有利に運用している、ショージ・ソロス氏らヘッジファンドも金曜の夕方

では身動きがとれませんでした。例え、米国政府から他の投資家より早く

情報を入手しても、市場が閉まっていてはどうすることもできないという

ことです。世界中の投資家も土曜日には情報を入手しました。新人投資家

もショージ・ソロス氏らヘッジファンドも同じ条件で、月曜日からの投資

活動再開になりました。今度ばかりは、米国政府からの内部情報が裏目に

出てしまいました。私が決めるのでは誰も事前に情報を入手することも、

予測することもできませんでした。4~5日間の間にショージ・ソロス氏

は6億ドルの損失を出し、他のヘッジファンドも相当な損失をこうむった

ようでした。92年、93年の欧州通貨危機や93年からの円高の混乱の

中、数十億ドルの利益を上げたことには不快感を持っていたので、ちょう

ど良いと思いました。ただし、私はショージ・ソロス氏らヘッジファンド

の市場での機能、政府や市場環境により行き過ぎた市場を是正するという

機能は認めています。ヘッジファンドに対する行き過ぎた規制は、各国政

府を慢心させ、各国政府の不適切な通貨政策を生み出す土壌を作る危険が

あると思っています。その後、米国政府は携帯電話、板ガラスと個別案件

で締め付けてきました。理屈も何もないのですが、米国は前回一斉に自国

の政権批判を行った反動から一斉に自国の米国政府支持を打ち出しました。

全く、困った関係だと思いました。もう少し冷静になれないものかと思い

ました。このことにより、私の名前がショージ・ソロス氏らヘッジファン

ドに記憶されることにもなりました。そして、この事を契機に祝日の銀行

間取引を行うとになりました。ヘッジファンド達も独立記念日に破産など

という事態は避けたいということだと思いました。


そして、細川護煕首相は私の知らないところで国民福祉税構想を持ち出し、

これには私もお手上げ状態でいると、不正政治資金が発覚し、私もあきれ

返っていると、細川護煕首相は政権を投げ出しでしまいました。これは大

変と思い、今度は安定感が必要になると考えて、羽田孜代議士を友人の渡

辺純夫に推薦しました。羽田孜代首相が誕生しましたが、結果的には、羽

田内閣総辞職に追い込まれて、非自由民主党政権は消えてなくなりました。

一時は、小沢一郎代議士にうまく事態を収拾する期待もかけたのですが、

所詮”茶坊主”は”茶坊主”でしかありませんでした。



このようにして、私は政治に対して決定的な影響力を有するようになって

行きました。


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