6.タツミと土蜘蛛ども
タツミは苛立ちを感じている。
原因は明白だ。
烏丸。いま彼の隣にいる、このまるで愛想のない男に原因がある。
新たに二匹の土蜘蛛が、部屋に駆け込んでくる。それでも烏丸の表情は動きもしない。金属のような表情筋を持つ男だ、と思う。
そのことも含めて、気に入らない。ひどく苛立つ。
「面白くなってきたな」
おまけに、烏丸は感情のこもらない呟きを漏らした。
「どこがだよ」
タツミは八つ当たりのように反論する。
「状況見てくれよ、これは明らかにヤバいって。普通にやってたら死んじゃうシーンじゃん。どうしろっていうんだ」
部屋の中に侵入してきた土蜘蛛は二匹。烏丸の攻撃を受け、痙攣している死にぞこないを含めると三匹か。たぶん、機敏な攻撃はできないだろう。恐らく。タツミはそう思いたかった。
新手の二匹は、いきなり攻撃を仕掛けてくることはせず、じわりと間合いを詰めてくる。警戒しているのだろうか。その様子を見つめながら、タツミは内心で両者に仮名をつけることにした。
左のやつは、さっきまでのやつより大きく、強そうなのでボス蜘蛛。
右のやつは一回り小柄なので、チビ蜘蛛だ。もしかしたら子供なのかもしれない。
「この状況をどうするか。一つしかないな」
烏丸は抱えていたメイド服の女――朱莉を、ゆっくりと地面に下した。
朱莉の呼吸が荒い。意識も朦朧としているように思える。とても戦力には数えられそうになかった。先ほどの、タツミには理解不能の爆撃は期待できないということだ。
「俺が新手を倒すことにする。タツミ、お前はできるだけ下がれ」
「おいおい」
これだ。
タツミは首を振った。この男の自信ありげな――というよりも、弱気の欠片も見えない物言いが癇に障る。
この苛立ちは、タツミが記憶喪失であることに由来するのだろう。
その自覚がある。タツミには自信がない。何に自信を持てばいいのかわからない。というより、自分に何ができて、何ができないかを知らない。
さらには、この異常な状況だ。
ほとんど何もわからないまま、こんな場所まで来てしまった。それが間違いだったという気もする。あの事務所でメイド服の女が飛び込んできたときには、こんなことになるとは思わなかった。
文句を言いたいことが多すぎる。
(いまさら後悔しても意味がない。けど、それでもぼくは言うぞ。最悪だよ、畜生)
タツミは内心で世界を呪った。
烏丸の態度は、タツミのそうした混乱と自己不信を逆撫でする。こいつの隣にいると、自分がとてつもない無能に思えてくる。それが苛立ちの原因だと、タツミは自分でもわかっていた。
ただ、それを露骨に表せば、余計に自分を惨めに感じるだろう。
だからタツミは自分を殴りつけるようなつもりで、ことさら虚勢を張ってみせるしかない。
「烏丸さあ――そういう、ぼくを無能扱いするのはやめてほしいな」
形だけでも烏丸を真似て、尖った棒を槍のように構えてみる。腰を落として、穂先を中段に。少しは姿勢が安定した気がする。
「さっきのでだいぶ慣れた。なんかイケる気がする。そういうのって大事だろ? もしかしたら記憶を失う前のぼくは、槍の達人だったかもしれない」
次から次へと言葉を重ねるが、結局、言いたいことは一つしかない。
「ぼくはやるよ。右の方な」
小さいチビ蜘蛛の方だ。大柄なボス蜘蛛の方は、対処できる気がしない。
「そうか」
烏丸は真面目くさった顔で肯定した。この態度だ。タツミは辟易する。この男には、他人の気持ちを想像することができないのだろうか。
「お前が覚悟したのならば――」
言いかけた瞬間、土蜘蛛たちが同時に動いた。
タツミの目はそれを確かに捉えた。大柄なボス蜘蛛の体が震え、その口元から白く輝く何かが射出される。
糸だ。
相手が蜘蛛のバケモノならば、それを警戒しておくべきだったかもしれない。射出された糸は、烏丸の足元へと矢のように飛んだ。
「烏丸、なんか来る!」
タツミの曖昧な警告は、まったく遅れていた。
烏丸が動き出す方が速い。当然のように糸をかわして、ボス蜘蛛へ接近。尖った鉄の棒を繰り出す。ぎっ、と地面を蹴るときに、やけに鋭い音が響いた。その影すら霞んで見えるような速さだった。
タツミは思う――烏丸の動作は、人間とは思えないほど速い。
速すぎる、といってもいい。
槍を構えて突き出し、反撃が来る前にもう一撃。ボス蜘蛛が悲鳴をあげ、勢いよく脚をばたつかせる――仕留めきれてはいないが、その隙に距離を取る。
烏丸のその動きは、まるで動画の高速再生を見ているようだった。異常な速度と、動作の精密性が両立している。
対して、自分はどうか。
これについては、タツミは苦々しくも受け入れるしかない。
(ぼくは遅すぎる)
もう一方のチビ蜘蛛の突進を、よろめくようにかわす。かわしながら、尖った棒の先を突き出す。
(あと、なんか弱いよな)
土蜘蛛の胴体部分へ、ほんの拳一つ分ほどめりこんだ。
烏丸のように深々と突き刺すことができない。表皮を突き破る際に、思った以上の抵抗を感じた。
(筋肉の問題――っていうよりも、これは烏丸が異常なんじゃないか?)
余計なことを考えている間に、反撃を受ける。
チビ蜘蛛が急激に跳ねた。
そのようにしかタツミは理解できなかった。気づいたときには吹き飛ばされて、壁に叩きつけられていた。
またかよ、と、心の中で毒づく。イメージの中では、もう少し見事にかわせているはずだった。
背中から衝撃。肺が詰まるような感覚。
「タツミ」
叱責するでもなく、案ずるようでもなく、烏丸が名を呼んできた。
(なんだよ)
こっちはいま、大きなダメージを受けたところだ。
呼吸を求めて喘ぎながら、タツミはどうにか状況を把握しようとする。烏丸は自分の担当のボス蜘蛛と、タツミが仕留め損ねたチビ蜘蛛の両方を相手取っている。
問題はもともと虫の息だった、死にぞこないの三匹目だ。
どす黒い体液をまき散らしながら、地面に転がる朱莉へ突進を開始している。
(ああ、なるほど)
タツミはすぐに理解する。
烏丸は、タツミが彼女を助けにいけるか、という意味で名前を呼んだのか。
とはいえタツミが少しでも無理だという素振りを見せれば、あの男のことだ。自分が平然と庇いにいくだろう。自分が引き受けている二匹も、どうにでも始末してしまう気がする。
つまり、これは――
(ぼくに気を遣ってるんだな。たぶん。ぼくが『やるよ』って言ったからな。彼なりのサービスってわけだ。いい場面を回してやるってことだ)
とんでもない気の遣い方をする男だ。タツミは忌々しく考える。それをわかってしまえる自分の感受性の豊かさが憎い。
(でも、まあ)
ここでやらなければ、さらに自信を持てなくなる気がする。
(身動きできない女の人を助けるのは、すごく良いことしてる気分になれるぞ)
タツミはいくつもの言い訳を並べたが、それは十分の一秒にも満たない時間でのことだった。
実際には、タツミは捨て鉢な雄叫びをあげ、即座に跳び出していた。
土蜘蛛の突進と、朱莉の直線状に体を入り込ませるようにする。尖った棒を構えて、つんのめるようにして突き出す。思い切り体重をかければ、深く突き刺せるかもしれない。やってやる。
そう思った直後に、衝撃。
視界が一回転した。
(だめか、やっぱりね。そりゃそうだ)
後頭部が地面にぶつかって、脳が揺れる。土蜘蛛がのしかかってくる。タツミは抵抗しようとして、尖った棒を手放してしまったことに気づく。土蜘蛛はタツミの顔面へ、前脚を振り下ろしてくる。
「くそ」
身をよじってかわし、タツミは前脚をどうにか掴むことができた。抑える。だが、そこまでだ。
土蜘蛛が大きく口を開ける。牙の生えそろった口だった。
タツミは喉の奥で叫びながら、前脚を掴む右手に力をこめた。脳の奥に痛みを感じる。右の腕を寒気のような感覚が這い上がってくる。命の危険のはずなのに、その実感がない。
土蜘蛛の牙が、タツミの首元に触れる。
タツミはせめて相手の顔を睨みつけようとして、それを見る。銀色の光だった。ランプの光を反射する、鋭い輝き。
(――なんだ、それ? 刃物?)
疑問に思った瞬間、土蜘蛛の頭部が吹き飛んだ。
「うぐ」
タツミは悲鳴らしくない悲鳴をあげた。どす黒い体液が、顔面に飛び散る。土蜘蛛の全体重がのしかかってくる。胃袋のあたりが潰れる痛み。
「あっ」
頭上で慌てた声。
「あ、あ。ああー……しまった。申し訳ない。咄嗟だったもので。汚れてしまった」
女の声だ。ただし、朱莉ではない。いったい誰か。タツミは顔面をこすり、目元の血を拭う。視界を取り戻す。
「ご無事か?」
黒いコートに身を包んだ、小柄な少女がタツミを見下ろしていた。右手に持っているのは、両刃の剣だろうか。どうやらたったいま蜘蛛の頭を切り飛ばしたらしく、黒い体液で汚れている。
また物騒な人間が増えたようだ、と、タツミは思う。
「感謝する」
黒いコートの少女は神妙な顔で、左手を差し出してきた。その手首に、武骨な鉄の輪が嵌まっているのがわかる。とてもアクセサリとは思えない、手錠のような見た目の腕輪だった。
「立ち上がってくれるか、勇敢な人。その顔を拭う栄誉を私にいただきたい」
タツミは半ば呆然と彼女を見ていた。
その顔に見覚えがある。彼の失われた記憶に関すること――ではない。もっとつい最近、彼女を見た気がする。そう。写真だ。
少女はタツミの反応を待たず、彼の手を掴んだ。
「私の従者を助けてもらったようだ」
「あ」
タツミは少女に引き起こされながら、指を鳴らす。
「きみ、あれか! 行方不明の!」
「お嬢様!」
朱莉の金切り声が聞こえた。震える腕で、どうにか体を起こそうとしている。
「よくぞ、ご無事で――」
「ああ。無事だ。だから無理はしないで、朱莉さん」
黒いコートの少女は、鷹揚にうなずいた。
「蜘蛛の毒は、動くと悪化する。いま治療しよう。だが、あなたが助けに来てくれて嬉しい」
「そうか」
一人、腹立たしいほどまったく平静な顔で、烏丸が呟いた。彼はボス蜘蛛の大きな胴体へ、とどめの一撃をねじ込んでいるところだった。
「要救助者か。これで問題は解決したな」
何を言ってやがる、と、タツミは心の中で文句をつけた。
何も解決していない――これから帰る方が大変そうだ。
ゴブリンどもの騒ぐ声が、徐々に近づいている気がする。
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