5.烏丸と窮余の小部屋
分岐路を五つほど曲がったが、恐らく、そのどれかが失敗だったのだろう。
烏丸は腕を組み、眼前の扉を見つめた。
「行き止まりか」
錆の多く浮いた、鉄の扉だった。かなり損傷しているようだが、いまだ頑丈さは残っている。取っ手らしきバーに手をかけ、烏丸が力をこめても動かない。扉には刻印がある――文字だ。『火ノ巳ノ一』と刻まれている。
それが何を意味するのか、烏丸にはわからなかった。
「地底湖方面へ移動してきたと思うのですが」
朱莉が不安そうに地図を覗き込んでいる。長い指がその図の上を辿っている。
「恐らく、この――南への通路を塞ぐ扉ですね。通称、『とても錆びた赤っぽい扉』です」
「なるほど」
烏丸はうなずく。その呼び名にふさわしい扉だ。
ここに至るまで、朱莉の地図と明確に照らし合わせ、経路を選択していたわけではない。その余裕もなかった。
ゴブリンたちの足音と奇声は遠ざかったようだが、いまだに消え去ってはいない。むしろ聞こえる足音は増えている気がする。あちこちから聞こえてくる。
あるいは、部隊を分散して捜索にかかっているのかもしれない。
「だいぶ走ったぞ、ぼくは超疲れた。もう死にそうだ」
タツミは土壁に手をついて、わざとらしいほどに荒い呼吸を繰り返している。先ほど手に入れた尖った棒を、杖のようにしていた。
「これさあ。新宿から――代々木くらいまで来たんじゃないか? もう本当に無理。走りたくない」
「代々木までたどり着いていたら、大変ですよ」
タツミの発言を冗談だと認識したらしく、朱莉は少し微笑んだ。
「代々木燈火神殿に迷い込んだことになりますから。新しい接続を発見した探索者として、大きな名誉を得ることでしょう」
「ああ、うん」
タツミは曖昧に笑い返した。
「そうだね」
まるで意味を理解していない生返事であろうことは、烏丸が観察するまでもない。
烏丸はそれ以上のコメントを避け、錆だらけの扉に手を触れると、さらに力強く押してみた。動かない。
「これを突破しなければ、先にはいけないか」
「ええ。ゴブリンたちが警戒態勢になっています」
朱莉が三つ編みを揺らし、逃走してきた道を振り返る。
「彼らは単純ですが、執念深くもあります。しばらく警戒は続くはずで、道を引き返せば再び捕捉されるでしょう」
「ゴブリン――彼らは」
タツミが呟く。片手が、『覚書』の手帳を開いている。そこに書かれている文字を読み上げる。
「卑金属や炭が鬼化した存在だ。生活はとても単純。集落を作り、薄暗がりを好む。普段は怠惰で集落を離れたがらないが、活発に動くことがあるとすれば、生活そのものが脅かされたとき――」
タツミは大きく首を振り、手帳を閉じた。
「だからつまり、集落に何かあったんだね。原因は、たぶん百足竜、とか?」
「はい。とても神経質になっているようです」
「さきほど概算したゴブリンたちの数は、およそ五十といったところか。より増員している可能性もある」
烏丸は眉間を指で絞りながら考える。
ゴブリンを各個撃破しながら、『お嬢様』を捜索する。奇襲と逃走を繰り返して数を減らす、地道な作業になるだろう。烏丸は右手の尖った棒に目を向ける。時間はかかるだろうが――
「あ、きみ、いま五十くらいなら頑張ろうと思っただろ」
タツミが呆れたような声をあげた。
「そういう暴力的なことはやめようぜ。ぼくは反対だな、スマートなやり方を使おう。この扉を通った方がいい」
「ああ。扉か」
「ほら! また力づくでやろうとする! なんでいま拳を固めてみたんだ! これだから野蛮人は困るよ」
矢継ぎ早に非難しながら、タツミは烏丸を押しのけた。
「これは扉なんだから、普通に鍵を開ければいいんだ」
「まあ!」
朱莉が目を瞬かせた。
「鍵ですね。ゴブリンたちが使っているという。初めて見ます」
「そうか」
烏丸もタツミの手元に、いくつかの錆びた鍵があることに気づく。なぜ鍵を、いつの間に、と思う。視線に気づいて、タツミは肩をすくめた。どことなく気まずそうな顔だった。
「ええと――さっき、きみらが殺戮したゴブリンの遺体を漁ってみたんだ」
「なるほど。それでなかなか立ち上がらなかったのか」
「まあ、それもあるけど」
タツミは一瞬だけ口ごもる。
「腰が抜けてたのも確かだ。ぼくはどうやら相当な平和主義者みたいだよ、あんな悲惨な現場を見たら普通はビビる――火ノ巳ノ一。これだ。ね、ほら!」
鍵が差し込まれ、軋む音を立てて回転した。どうやら、鍵の根本に扉と対応する文字でも刻まれていたらしい。
「あいつらは斥候だから、ある程度は自由に行動できるようにしてたんだ」
タツミはやや興奮した様子で扉を押し込む。烏丸も手を貸した。ごおっ、と、重苦しい音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
「なんかヤバいやつと遭遇したとき、さっさと逃げて本隊に戻れるように。こういう扉とかを利用してさ。この鍵、単純だからいっぱいあるんじゃない?」
「そういうことでしたか」
朱莉は何度か、得心したようにうなずく。
「私とお嬢様の場合、基本的にはゴブリンを粉々にしていましたし、このところは恐れられて近づくこともなかったので――新たな発見です。さすがは、櫻庭所長の助手の方ですね!」
「そうだな」
烏丸は素直な感心を口にした。
「やはりやるな、タツミ。お前にはそういう才能があると思う」
「やめてくれるかな! ぜんぜん褒められてる気がしないよ――と。開いた」
タツミは予想外にも強く反論して、扉を押し開けた。そこはやや開けた部屋状の空間になっており、すっかり朽ち果てた荷車が散乱していた。いずれも損傷が激しく、意図的に壊されたようにも見える。
そして周辺には、白い人骨がいくつか無造作に転がっていた。まるで子供が遊んで、途中で放り出したかのような散らばり方だった。
部屋の奥には、また通路が続いている。
「うげ、骨だ」
顔をしかめ、タツミがわかりきったことを口にした。
「窮余の小部屋、と呼ばれている場所のようですね。私、初めて入る区画です」
朱莉が長身をかがめて入ってくる。その瞳が、地図と部屋とを見比べた。烏丸も地図に視線を落とす。不吉な名前だが、やはり意味はわからない。
「さっさと閉めるか」
烏丸は背後の扉に手をかける。
ごおっ、と、扉が唸り声のような音をたてて閉じていく。開けるときにも、それなりの音がしたはずだ。ゴブリンたちが近づいてくるような気配もする。こちらに気づいた可能性はあり得る。
烏丸はゴブリンたちとの距離を知るべく、耳を澄ませようとする。
その途中で、奇妙な音を拾った。
部屋の奥の通路から、何かを引きずるような音がする。接近してきている。足音だ。それも、かなり重量のある存在。いったい何か――
「うわ」
タツミの方が先に気づいた。通路の闇の奥に、視線をぴたりと向けている。烏丸も目を凝らしたが、ランプの照明も先ほどの通路より頼りなく、闇の奥は朧げにしか見えない。
しかしタツミには、確かに何かが見えているようだった。悲鳴をあげる。
「なんだよ、今度は! あいつ、うわっ……マジで?」
烏丸はふと思う。タツミの視力は特別なのかもしれない。
「蜘蛛かよ! でかっ!」
タツミが叫んだ。
確かに、と、烏丸も心中で同意した。
大型犬ほどの大きさの蜘蛛が二匹、壁面と地面を這うようにして部屋に飛び込んでくる。烏丸はこれほど大きな蜘蛛を知らない。やたらと長い八本の足は、人間の腕ほどの太さがあるだろう。ぎちぎちと奇妙な音を立てて、牙らしきものの生えた口が開閉した。
ひどく攻撃的な様子だ。やるしかないか。烏丸は尖った棒を握りしめる。
「土蜘蛛ですね」
朱莉の落ち着き払った声。がしゃ、と金属が擦れる音。
「いきます。少し時間をください!」
「わかった。タツミ」
烏丸が前進する。
「お前が一匹止めろ、足止めでいい。すぐに片をつける」
「いや、待てよ。ぼくだって一匹くらい――」
不服そうなタツミの返事は待たない。
烏丸は体を低く沈め、這うように突っ込んでくる蜘蛛をかわした。それと同時に尖った棒を突き込む。毛むくじゃらの脚の一本がもがき、烏丸を殴ろうとするような動きを見せたが、遅い。原始的すぎる。
烏丸は既に棒を引き抜いているし、振り上げた足の付け根に突き刺している。また即座に引き抜き、蜘蛛が暴れた隙にもう一撃。
今度は深く。
手ごたえはあった。蜘蛛が痙攣する。もう一撃くらいは必要かもしれない。そう思った時だ。
「うげ」
タツミの声が聞こえた。
「やっぱり無理かよ、畜生」
蜘蛛の突進を避けきれず、突き飛ばされている。尖った棒を構えて、防御しようとしたが、間に合っていない。壁まで叩きつけられてしまう。
タツミを突き飛ばした蜘蛛の、次の狙いは朱莉だった。奇妙な器具――本人の言によれば『魔法使い』を構えた朱莉は、対応が遅れた。烏丸がフォローに入る暇もなかった。
「あっ」
蜘蛛の突進を回避できなかった。剝き出しになった牙で、肩から噛みつかれている。押し殺したような悲鳴が、朱莉の喉から溢れた。『魔法使い』を手放さなかったのは、本能的なものだろうか。あるいは普段の訓練の成果かもしれなかった。
とはいえ朱莉に反撃の手段はなく、こうなると烏丸は動くしかない。
それが彼の行動原理であり、彼のやり方だった。
「やめておけ」
朱莉に噛みついた蜘蛛の背後から、容赦もなく一撃。頭部を尖った棒で貫き、それをもう一度。蜘蛛が牙を離したところで、思い切り蹴飛ばした。
「烏丸様」
朱莉が倒れ込んでくる。その長身を受け止めるには、烏丸もやや苦労した。メイド服の肩口が破れている。顔が上気し、呼吸が荒くなっていた。しがみつかれる。
「すみません」
朱莉は消え入りそうな声で呻いた。痛みがあるのか。顔が歪んでいる。
「土蜘蛛には――毒が――。薬を――」
「うおお、おっ!」
不意に、タツミが叫んだ。彼はせき込みながら立ち上がろうとしているところだ。
「ヤバいって、これ、絶対ヤバい。まだ来るのかよ」
烏丸はそちらに意識を集中させる。烏丸がとどめを刺し損ねた一匹が、すでに起き上がっていた。それと通路の奥から、新手がもう二匹。まだ増えるかもしれない。
烏丸はこの部屋が『窮余の小部屋』と呼ばれている理由を、なんとなく理解した。
これは罠だ。
不埒な来訪者はこの部屋に追い詰められ、土蜘蛛に襲われる羽目になる。そういう仕組みであり、周囲の白骨はその犠牲者だ。
「まずいな」
烏丸は尖った棒を握りしめ、呟いた。
絶体絶命の状況――正義のヒーローには、よくあることだ。
こういうときは、そう思うことにしている。
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