3.烏丸と新宿駅地下の地下の地下

 烏丸は土の地面に降り立ち、暗闇に目を凝らした。

 そうする必要があった。


 どこか冷たくわだかまる、息も詰まりそうな暗闇が、視界を遮っている。それを頼りなく照らすのは、天井から吊るされたランプの光だった。点々と続くその黄色がかった光が、闇の中の唯一の道しるべとなっている。

 やがて目が慣れてくる――ここがどういう場所か、理解できる。どうやら木枠で補強された、土の通路であるようだ。

 なるほど、『坑道』と呼ぶにふさわしい。


「なんだあ、こりゃ」

 タツミが呆然と呟いた。

 まったく同感だ、と、烏丸は思った。

 この光景は予想外だ。それでも動揺はしない。動揺が事態を好転させることは滅多にないからだ。正義のヒーローという仕事を通した実体験から、骨身に染みるほど知っていた。

 それに超常的な怪奇現象なら、いままで何度か遭遇したこともある。


「なあ、烏丸」

 タツミはきょろきょろと落ち着きなく辺りを見回し、烏丸を肘で突いた。ほとんど声を出さない、器用な喋り方で尋ねてくる。

「ぼくら、新宿駅の階段を下りたり、下りたり、ものすごく下りたりしてきたよな。それだけだよな」

「俺の記憶によれば、そうだ」

「そいつは良かったよ。ぼくは、ぼくの記憶が一番信用できないから」

 皮肉っぽく言いながら、寒そうに手を擦り合わせる。実際、ここはかなり冷える。

「でも、これっておかしいぜ。ああいう風に階段を下りれば、そのうち地下鉄のホームとかに出るもんじゃないか? いや、たぶんそうだよ。なんとなく新宿駅の構造は覚えてるんだけど」

「俺も覚えている。新宿の地下といえば、丸ノ内線や大江戸線だな」

「だろ? 絶対おかしい。新宿の地下に、こんなところあったか?」


「それはわからない」

 烏丸は背後を一瞥する。彼らが下りてきた、古びた木製の梯子がある。

「ずいぶん奇妙な経路を通った気がする。ここが工事中の地下鉄道とも思えないが」

「っていうか、坑道が新宿の地下にあるなんておかしいって。金とか石炭とか、そういうのが採掘できんの? それ以上に、きみ、なんでそんな落ち着いてるわけ? おかしくない?」

「慌てても良いことはない」

 新宿駅の地下に、こういう空間がある。それは目の前にある、誤魔化しようのない事実だ。

「タツミ、お前も少し落ち着いた方がいい。飴でも舐めるか?」

「いらないよ」

 タツミはそれ以上の文句を諦めたようだ。彼は自分の混乱を表現しようとするように、金色に染めた髪を掻きむしる。


「くそっ。こんな状況じゃ、隙を見て逃げるどころじゃない」

「そうだな」

「おい――なんだよ、その目は。ぼくを非難してるのか?」

「そんなつもりはない」

 事実だ。

 烏丸はタツミが逃げようと、仕方のないことだと考えている。タツミが好き好んで首を突っ込むべき筋合いの話ではない。それでも数秒の沈黙の後に、タツミは首を振った。

「まあいいや、ここはこういう場所なんだ。適当なところでうまいこと離脱するよ。まったく自分の適応能力に感動しそうだぜ――めちゃくちゃ混乱してるけど、彼女に話を合わせないと」

 一理ある。

 烏丸は、彼らの前に立ち、暗闇を睨むメイド服の女の横顔を見る。切迫している顔だ。緊張、恐怖、決意、それから恐らく自分自身への怒り。そういうものが入り混じっている。


「お二方、申し訳ありません」

 朱莉は振り返り、黒革のケースを抱えなおした。

「私は見ての通り射手です。お嬢様を助けるために先を急ぎたいと思いますので、前衛をお願いできますか」

「え――」

「了解した。急ごう」

 烏丸は即答した。朱莉を追い越す形で、無造作に歩き出す。タツミは少し遅れて追ってくる。通路には、余裕を持って二人が横に並べる程度の広さはある。

「要救助者の状態がわからない。迅速に行動するべきだ。あなたにはルートの案内を任せる。追随してくれ」


「まあ」

 感激したように、朱莉が口元を抑えるのが見えた。

「烏丸様、勇敢なのですね。お嬢様を救い出した暁には、あなたを騎士に推挙させてください」

「え、ぼくは? ぼくも割と勇敢じゃない?」

 タツミが自分を指さすと、朱莉がすぐに言葉を継ぎ足した。

「もちろんタツミ様もです」

「おまけっぽいなあ!」

「そのようなことは、決して。お二方にはご依頼を引き受けてくださったこと、心から感謝しております。謝礼はこの私の首にかけても、必ずお支払い致します」


 答えは返さない。やるべきことがあった――つまり情報収集。背後から続く朱莉の足音を聞きながら、質問する。

「朱莉さん。あなたの『お嬢様』が――そう。ロストした状況について教えてもらいたい。この坑道にあるなんらかのリスクが顕在化し、それが原因になったと考えられる」

 喋りながら、踏み出す足で地面を確かめる。それなりに柔らかい土だが、動きの邪魔にはならないだろう。そして、この質問の肝心な部分に触れることにする。

「あなたが同行していながらロストしたということは、彼女に相応の災難があったのだろう」

「おっと、待った」

 タツミが口を挟んだ。肩を強く引っ張ってくる。

「きみね、そういう言い方する? 人間には心ってものがあるんだよ」


「――いえ。私には責任があります」

 朱莉は絞り出すように言った。

 やはり、と思う。

 烏丸は論理を重ねて推測していた。朱莉の横顔に浮かんでいた自分に対する怒りとは、そういうことだ。引き起こした事態に対して、自分に幾ばくかの責任があるとき、人は自分に対して怒りを覚えることもある。

「百足竜です」

 朱莉は短く呟いた。

「本来なら、もっと下の階層に生息しているはずなのですが――急な襲撃でした。私たちの部隊は潰走して、お嬢様とは離れ離れになってしまいました。手を繋いでおけばよかったと、いまでは思います。私がもう少し、しっかりしていれば――」

 そこから続く朱莉の悔悟の言葉を、烏丸はほとんど聞いていなかった。彼にはもっと気にするべきことがある。一つは要救助者のこと。もう一つは、それに付随するリスクのことだ。


「百足竜か」

 聞きなれない単語を、烏丸は復唱する。竜、というからには、怪物なのかもしれない。どのような存在なのか気にはなる。少し探りを入れてみるべきか。

 しかし、意外なところから答えが返ってきた。


「竜化した百足のことだね」

 タツミだった。やや緊張を含んだ声で、暗記した言葉を思い出すように続ける。

「体が山手線の電車みたいに大きくて、硬い殻で覆われている。物理的な方法でダメージを与えるには、よほどの火力が必要になる。危険な相手だ。狩るなら十人単位の熟練者が必要になる」

 まさか記憶にあるのか、と目配せをしてみる。

 するとタツミはライダースジャケットの内側から一冊の小さな本をのぞかせ、烏丸に対してだけわかるように少し笑った。ずいぶんと使い古された、茶色い革の本。どうやら手帳のようで、表紙には『覚書 黄金坑道』と乱暴な筆致で記されている。


「使えそうだったから、持ってきた」

 タツミは控えめに囁いた。

「この手帳、マジなのかな。書いた人の妄想だといいんだけど。電車よりでかいって、本格的にモンスターじゃん。この坑道はファンタジーRPGとか、そういう世界なわけ?」

「かもしれない」

 烏丸は真剣にうなずいた。

 こんな世の中だ。商売柄、様々な不思議を見てきた。超能力や幽霊。たくさんの偽物に、一握りの『本物』。それらが実在するなら、モンスターだって実在する可能性はゼロではない。烏丸の仕事は、結果としてそう思えるだけの思考力を鍛えることになった。


 ただ、タツミの意見は違うらしい。

「いやいや、自然に受け止めないでよ。わけわかんないって。他にもヤバそうなことが色々と書いてあるけど、この手帳、字が超ヘタクソであんまり読めない」

「いや、十分に有用だ」

 この異様な状況では、どんなささやかな情報でも値段のつけられないほど貴重だ。惜しみなく賞賛する。

「やるな。センスがあるのかもしれない」

「泥棒のセンス? やだな、それ。ぼくって本当に空き巣だったらどうしよう。きみ、どう思う? ぼくがどういう生活してきたのか、推測できない?」

「それを推測するには、情報が足りない。俺と同じく暴力や荒事を日常にしてきた人間だと予想されるが、その程度だな」


「え、なに? マジ?」

 タツミは顔をしかめた。

「きみと同じって嫌だなあ。正義のヒーローでしょ。それって正直、どういう仕事なの? 変身して悪い怪物をやっつける?」

「その形が理想だが、現実はそこまで鮮やかにはいかない」

 烏丸は歩きながら、自分の仕事を一つずつ思い出す。

「俺は依頼を受ける。困っている人間からだ。依頼は色々ある。悪いやつに脅されているとか、嫌がらせを受けているとか、とにかく警察には頼れない事件を。そして本当に正義のヒーローが必要かどうか調べる」

「変わってるなあ。儲かるの、それ?」

「たまにはな」

 会話を打ち切るように告げて、烏丸は自分の歩数を数えている。

 坑道の地図は朱莉から見せてもらった。いまは一本道だが、やがて分岐点もある。どこまで『お嬢様』を探索すればいいのかもわからない。こういうときは、入口からどれほど離れたかは重要な情報になるだろう。


「やっぱり、きみは変だよ」

 まだ喋り足りないのか、タツミが断定的な口調で言った。

「仕事が正義のヒーローなんて、かなり非常識だと思うね」

「そうか。俺の見解は違う」

 答えながらも、烏丸は理解を求めてはいない。そのくらいの分別は彼にもある。

「子供のころは、多くの人間がなりたいと思ったはずだ。違うか」

「ぼくには記憶がないからアレだけど、まあ、そうかもしれない」

「俺は本当になることにした。それだけのことだ」

「それっておかしいよ、いくらなんでも本当に――」


「待て」

「来ました」

 烏丸がタツミの弁舌を遮るのと、朱莉が警告するのはほぼ同時だった。

 ランプの黄色っぽい光が照らす、坑道の奥。烏丸は目を細める。そちらから跳ねるように近づいてくる影を捉える。かなり素早い。

 四つの小柄な人影――その背の低さは、ほとんど子供のようだった。

「ゴブリンの斥候ですね。戦士はいません」

 背後から朱莉の呟きと、がん、という強い音が響く。金属が何かを打つ音。何をしているのかはわからなかった。烏丸はすでに近づいてくる四つの影に集中していたからだ。


 彼らは一様に、ぼろ布の塊のように見えた。薄汚れた布を身に巻き付け、目元と両手両足だけが露出している。特徴的なのは赤く光る瞳と、灰色の肌。あとは尖った耳の先端か。

 四者とも、片手に棒のようなものを掲げている。棒の先端が尖っているところを見ると、槍として使っているのだろうか。杖ではなさそうだ。


「うわ」

 タツミが一歩、よろめくように後退した。

「なんだよ! すごい物騒だな、歓迎ムードじゃない」

「彼らは、ずいぶんと興奮しているようです。やはり何か奇妙なことが起きているのでしょうか、こんな入口付近にまでやってくるとは」

「どうも敵対的だな。説得し、和解しよう」

 烏丸は前進し、両手を上に掲げて見せた。まるで「降参」の姿勢のように。


「待ってくれ。我々に諸君と戦う意志はない。対話をしよう」

 返ってくるのは、ぎぃぎぃという甲高い叫び声。明らかに興奮している。さらに槍を頭上で振り回し、先端をこちらに向けてきた。

 互いの距離が縮まる。

「うん。わかるぞ。人の百倍くらい感受性の鋭いぼくには、なんとなくわかる」

 タツミがひきつった顔で、左右に視線を向けた。一本道だ。逃げるスペースは見当たらない。

「あれは聞く耳持たず、ぼくらを攻撃しようって感じだ」

「わかった。お前、やっぱり相当にやるな」

 烏丸は右足を引き、左手の平を前に差し出すような構えをとった。

「つまり、戦うしかないということか」

「わけわかんないよ、何がどうなってんの」

 タツミが嘆いた。

「しかも、こっちは素手かよ」

「無手が不安なら、やつらから奪おう」

「きみは楽観的だな!」

「そうだろうか」


 少し違うと思う。

 やるべきことを迷わずやる。烏丸はそういう生活をしてきただけだ。異常なのは状況を覆っている上辺だけだ――いつもそうだった。いまと同じように。

 烏丸は右の拳をにぎった。

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