第18話 エイラ:Ⅱ


 ふと、目が覚めた。瞼を開くと、そこは見知らぬ天井。クリーム色の円形型照明が備え付けられていて、見覚えのない未知の装置に、改めて自分自身が置かれている状況を理解させられる。

 カーテンの僅かな隙間から漏れ出る白い光が、既に朝であることを告げていた。

 ゆっくりと、身体を起こし、目元をこすりながら、彼女は今の状況に目を向ける。どうやら、自分はソファに寝かされていたらしい。上終という少年の話を聞いていたその途中から意識が途切れ途切れになっていたところまでは覚えているが、その後の記憶は塵も残っていない。

 暖色の毛布を取り払い、彼女は静かに辺りを見回す。

 全員が、眠っていた。

 四天王全員と、そして上終。

 思えば、誰かの寝顔を見るなど、どれほどぶりだろうか、と。エイラは考える。

 ずっと、寝る時は一人だ。それは魔王城にいた時も、そして、あの国にいた時も同じ。

 誰かの寝顔。

 そう考えて、初めに思い浮かんだのは、母のことだった。寧ろ、それ以外には記憶にない。

母は今、どうしているだろうか。突然立ち去ったことを怒っているだろうか。心配させてしまっているかもしれない。


「……こんな親不孝者で、ごめん」


 気が付けば零れていた言葉。

 謝ったところで何かが変わるわけでもない。実際、胸につっかえていた正体不明の息苦しさは、よりその存在感を増してエイラを苦しめていた。

 それから逃れるように、彼女は立ち上がり、リビングから出ていく。靴を履いていないせいか、木で造られた床から伝わる冷たさに未だ慣れない。

 リビングを出ると、玄関へと向かいそして靴を履いた。

 靴は銀色のミュール。どちらかと言えばサンダルに近いものだが、煌びやかに彩られた刺繍を気に入っていたりする。

 エイラが扉を開けると、すぐに陽の光が視界を染めた。一瞬、陽光が眩しく、瞳がチカチカと点滅したが、それもすぐに治まった。


「……太陽の、光――」


 触れる空気は清流のように冷たくて、何より広がる景色に、心底で驚く。鳥は楽しそうに唄い、天に見えるのは突き抜けるほどの青空。家々は連なり、何れの家屋もそれなりの規模を有している。

 当然、小国リアンの城と魔王城にはまるで及ばないが、それでも全く異なる文化形式に、あまりにも平和な雰囲気は、エイラを驚かせるには十分だった。

 本当に自分は異世界にやってきたのだと、そう実感する。

 そして同時に、不安もまた膨らむ。


「……魔王」


 心を落ち着けたい時、癒されたい時、魔王は陽の光を浴びるといいと言っていた。

 確かに、その朝焼けは暖かい。凝り固まっていた緊張感やら、不安やらがある程度氷解するほどには、その効力は絶大だ。

 深呼吸を数回。肺に溜まった、鬱屈した想いを吐き出して、そして新しい気持ちを取り入れる。


「……よし」


 冷たい空気を吸い込んで、ほんの少し、頭が整理できた。

 色々と、腑に落ちないことがあった。どうしてここなのか、魔王はどうなったのか、帰る方法はあるのか、魔王は何がしたかったのか。

 今すぐに、この疑問が解消されるわけではない。手の届かない場所に、彼はいる。

 少しでも、近づかなければ事態は好転しない。その為にどうするべきなのか。

 エイラがその結論を出そうとした、瞬間。

 突如それは現れた。黒よりも漆黒で、深淵よりも闇そのもの。朝の陽射しの下に現れたそれは、とても この情景に相応しいとは言えないものだった。


「ど、どうして……、魔王の傘が」


 それは、魔王が差し出してくれた傘だった。柄も骨も、何もかもが黒尽くめ。深張りのその傘は、確かに同一の物だ。

 だが、何故今そこに浮いているのか。エイラは目の前で起きている現象に困惑してしまう。


「てっきり、なくなったと思ってた」


 あの時、魔王から預かって、気が付いたら持っていなかったので、半ば諦めていたのだが。

 黒い傘はまるで初めからそこにいたかのように、その場で浮いている。


「どこから出てきたのかしら……?」


 そっと手を伸ばして、手に取ってみても、何も変わらない。中庭で渡してもらった時と同じ、少しだけ重いだけの何の変哲もない傘だ。

 まあ、無くしたものが出てきたのだ。突然現れたこと以外に、問題はないだろう。

 そう思い、彼女は傘をたたむ。それとほぼ同時に、背後の玄関扉が開いた。


「あれ、エイラさん、でしたよね。おはようございます。……その傘は?」


 高すぎず低すぎない、よく通るその声に振り返る。


「……たしか朝の挨拶だったわね。おはようございます、カミハテ……、さん。――この傘は」


 視線を手元に戻す。いきなり現れたと、そう言ってしまってもいいものか。余計に彼を困らせてしまうだけなのではないだろうか。そう思うと、そのまま伝えることが憚られてしまう。


「貰い物、なの。大切な人からの」


 信用していないわけではない。これ以上混乱させてしまうと、彼の負担になるだろうと、そう考えてのことだった。元来、彼女はこういう気を遣うような性格ではない。直接的に、しかし強がることが多いのが彼女エイラの性格だと言える。

 ただし、全くもって空気を読むことが苦手かと言えばそうでもなく、王女の役目として、そのような場面は何度もあった。白いウソを吐くことが当たり前で、特にあの国では知っていることでも知らないと素知らぬ顔で貫き通さなければならなかった。

 エイラは、その心に傷をつけながら、平気で誤魔化すことができる。それは自分のためではない、誰かのためのウソ。

 あるいはそれは、自分自身を守るためのウソなのかもしれなかったが。


「……エイラさん」


 上終の言葉が朝の澄んだ空気に伝わって、耳にまで届く。次に何を言われるのだろうか。彼の顔に視線を移して、身構える。

 そういえば、こうして彼の顔をまじまじと見つめるのは初めてかもしれない。その表情は。


「絶対に、元の世界に返します、何があっても」


 その表情は、晴れやかだった。雑念がないとでも捉えればいいのだろうか、彼の顔つきは大人しさの中に、ある種の情熱のようなものが滾っているように見える。


「どうしてそこまで……、だって私たちは別のセカイから来た人間なのよ?」


「それはあんまり関係ないと思います」


 続ける彼の口調は毅然としていて、自信に溢れていた。その語気の強さに、その正論に、エイラは面食らいながら口を開いた。


「……何も、あんたが頑張る必要はないのよ。こっちに飛ばされてきたのは私たちの事情だし、そもそも巻き込んだこと自体、悪いと思ってるんだから」


「僕には、恩があります。返しても返しきれない、大きな恩が。それを返すために、異世界への帰還、手伝わせてください」


「あれは……、あのままだと私たちも危なかったし」


「それ以降も、僕のことを気に掛けてくれました。利用価値があると、そう判断したんだと思います」


「……」


 それは、彼の言う通りだった。ウリアもそうだったが、四天王の中で全面的に彼を信頼している人間はいないだろう。それでも彼の家にまで来て、そして寝泊りまでさせてもらったのは、まだ利用できるから。

 売った恩にあぐらをかくわけではないが、四天王は見えない糸で彼を縛っている。あたかも、そうさせるべきだと、道を示しているのだ。


「それが分かってるなら、どうして……」


 そういった人を取って食うようなやり口を姫は嫌っていた。ただ、それが生きるということなのだと、大枠には理解できてしまっている。

 エイラの呟きに、上終は笑みを浮かべて応じる。


「それでいいと、僕は思ってますから」


「……いいわけないでしょ。利用されて、嬉しい人間なんていない」


「でも、それで困ってる人が笑顔になれるなら、僕は喜んで利用される」


「……何それ」


 彼の言葉には芯があった。その場で拵えられた急造のモノではない。彼の奥底にある、源泉。それが一瞬、垣間見えた気がした。


「でも、そういうことなら」


 彼との会話は、何故だか気持ちいい。相手に隠し事がないからだろうか。正面から真っすぐにぶつけられて、それでもなお、彼自身は輝きを失わない。

 その表情からは、とても。

 とてもではないが、あの場で生きることを諦めていた人間だとは、思えなかった。


「あんたなら、何とかなる気がするわね」


 どうせこのセカイのルールだとか、規則だとかは全て彼に任せることになるのだ。彼の手助けは、こちらにとっても渡りに船。手を貸してくれるのなら、それを拒む理由はない。


「改めてよろしくね、ユーキ!」


「はい、よろしくお願いします。エイラさん」


「……ねえ、さん付けはいらないんじゃない? 私とあんた、歳同じよね」


「いや、でも姫様ですよね。だったら呼び捨てはマズいんじゃ……」


「本人がいらないってんだからいらないのよ。それに私だけ呼び捨てって偉そうじゃない」


「ええと、それじゃあエイラ。改めてよろしく」


「ええ、こちらこそ!」


 日本という国は暖かい。気候も、大洋の陽射しも。

 全てが不安を溶かす要因となってくれる。上終 勇城。彼もまた、その一つだ。


「それで、何か当てはあるのかしら」


「……そうだね。とりあえず、図書館に行ってみようと思ってる。何か手がかりになるような文献があるかもしれないから」


「文献探しね。分かったわ」


 初めは暗闇だった。不安と後悔、そして絶望。それらが混ざり合った気持ちの悪い暗黒だけが続いていた。

 ただそれも幾分晴れた。現時点において、帰還の情報は全くないが、それでもこれからその糸口を見つけられるのではないかという期待。

 そして何よりも、外のセカイに来たという高揚感。

 そんな明るい希望が、エイラの胸中に芽生え始めていた。

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