第16話 エイラ


 あの時の魔王の表情はこれまで見たどの顔よりも沈痛に見えた。

 面持ちは笑っていたが、しばらく見てきたのだから、それぐらいの微細な変化は読み取れるようになった。

 ただそれを知ったところで、彼の感情が分かったとして、姫には何もできなかった。

 気が付けば既に視界は闇の中。深い眠りについたような、上下左右も曖昧な浮遊感に包まれていたのだから。

 酷く、後悔していた。自分自身があの場にいなければこんなことにはなっていなかったのではないか。

 もっと言ってしまえば、あの国から逃げ出さなければ、何も変わらずに、魔王や魔物が犠牲になることはなかったのではないか、と。そう思わずにはいられない。

 胸が痛い。

 鋭く尖った痛みではない。ジリジリと燃えるような鈍痛だ。魔王との距離が遠くなっていく。

 手を伸ばせば届いたはずなのに、いつも隣にいてくれたはずなのに。どんどん距離が開いていく。

 大切なものを失う感覚。腐り、朽ちていく錯覚。姫の抱く魔王という偶像が、音を立てて崩される。

 もう二度と会えないのではないか。もう二度と言葉を交わせないのではないのか。

 不安と焦り、そして何よりも恐怖。

 ずっと抱き留めていなければ、風のようにすぐにすり抜けて消えてしまいそうで。

 それが、嫌だった。

 否定したい。拒絶したい。抗いたい、戦いたい、逃れたい、一緒にいたい。別れを、断絶を、隔離を、全て壊したい。


「……魔王」


 声が出ない。

 口を開いても、それが届かなければそれは言葉ではない。全身に巡っていた無気力を、無理矢理にでも奮い起こして。

 もう一度、想いを込めて。力の限り、絞り出す。


「魔王――!」


 突如、覆っていた不思議な感覚が途切れる。

 感じるのは大地の感触。耳につくのは煩すぎる雑音。視界全体は、赫灼の炎がカーテンのように揺らめいていた。

 しばし、その光景を呆然と眺める。

 まるで長い夢でも見ていたかのような、覚束ない倦怠感。ゆっくりと一つ一つを思い出すべく、姫は魔王の姿を追いかける。

 確か、魔王城で勇者が攻めてきて、それから勇者が自爆しようとして、だから魔王が……。


「ああ、姫。起きたのか」


 轟音の中、涼やかなそんな声が響いて、振り返る。


「ウリア……」


「姫、訊きたいこと言いたいことは山ほどあるだろうが、今は後回しだ」


 その長い睫を瞬かせて、僅かに悲哀を乗せたままに視線を動かす。姫がそれを追いかけると、見慣れた人物三人と見慣れない人影が一つ映った。アクエルとテラ、スフィア。そして彼らに囲まれるように一人の少年がテラに抱えられている。


「アクエル。ここら一帯には、他に生物はいないからね。思い切りやってもいいよ」


「まあこんだけ燃え盛ってりゃあどんな動物だって逃げ出すもんだ。こいつがここにいた理由は、謎だけどな」


 そう言ってアクエルがその少年に目をくれる。ボロボロだった。随所に焦げたような点が見られるのは煤か何かだろうか。所々は皮膚が爛れているように見え、痛々しくて思わず目を背けてしまう。


「それじゃあ始めるぜえ!」


 アクエルの声が天に向かって響いて渡る。

 彼が何をしようとしているのかは、疎い姫でも大体分かる。炎に囲まれたこの状況。水を司るアクエル以外に適任はいないだろう。

 ただ今は星さえ見えない夜の空ではあるものの、雨雲があるわけではない。

 姫が知る限りでは、彼は天から降り落ちてくる雨粒を操っていたが、何もないところから果たして水を生み出すことは可能なのだろうか。


「不安そうな顔してんなよ、姫様。俺にかかれば炎なんて一発浄化よ」


 そう不敵に笑うアクエルに、姫もつられて笑ってしまった。

 そうだ、アクエルは無理だ無茶だとは言わない。多少無鉄砲なところこそ、彼の特徴だ。

 しかし、アクエルを知らない彼はどうだろう。未だ、絶望に彩られた瞳のまま、少年は掠れた声を上げた。


「む、無理です……。この炎は消せませんよ」


 言葉の端々が弱りきっていた。すぐにでも壊れてしまいそうな、そんな危うさを燻らせて、力ない視線を姫たちに向けている。


「なにビビってんだよ。ここがどこで、お前が誰かは知らねえけどな。この世で俺が消せねえ炎はねえよ。不安がることはねえ、任せとけ」


 彼のその自信に、少年もただ黙るだけ。そうしてそれからすぐに、その言葉は真実となった。


「……あ」


 姫の手に、一滴が触れる。

 冷たくて、澄んだ水滴だ。

 やがてその数は量を増し、あっという間に滝のように降り注ぎ始める。姫が以前に見た、大雨と大差ない規模だ。これならば波のように荒れ狂う炎も消せるだろう。

 予想通りに、炎の草原はその勢力を弱めながら、地面の中へと溶けていく。


「……意外と、しぶといな」


「え?」


 アクエルの独り言に姫が反応を示す前に、彼は動いていた。

 指先にまとった水塊。それは予備動作なく波打ち始めると、指先から放出されるように、一本の針となって直進する。

 標的は未だ消えない炎の中。姫のいる場所からではよく見えなかったが、飛沫を上げて弾けた後、それで残っていた焔は完全に鎮火したようだった。


「これでいいだろ」


「凄い、本当に、消火した……」


「どうだ? 中々やるだろ」


 楽しそうな笑みを浮かべるアクエル。

 一方で、少年は心底驚いた様子で、アクエルをそれから今のこの状況を眺める。

 あれだけ赤く蠢いていた災禍はすっかり見る影をなくし、そこには草一つとして残っていない。

 これが焼野原というのだろう、と。姫は広がる虚無に背筋を震わせた。やはり、文献で知るのとではわけが違う。何も残らないこの状況を、姫はその瞳に焼き付ける。


「あの……」


 雨に混じるように、少年の弱った声が落ちた。僅かに力が戻ったのか、テラの肩を借りていない。


「本当に、ありがとうございました。貴方たちは命の恩人です」


 そう言って、首を垂れる。

 姫としては何もしていないので、どうにもそのお礼を素直に受け止められなかったが、先ほどまでとは打って変わって穏やかな双眸を見せる彼に、それを言うのもどうにも躊躇われた。

 少年はきっとアクエルやテラ、スフィアとウリア全員に対して、感謝しているのだろうから。

 ここは素直に受け取っておくことにする。


「それにしても、貴方たち一体何ものですか……? こんなに凄い理術師、見たことがありません」


「リジュツ……、というのは知らないが」


 姫の隣にいるウリアが彼に視線を投げかける。

 いつのまに取り出したのだろう、煙草を咥えて紫煙をゆっくりと吐き出した。


「私たちは魔王領当主、魔王に仕える四天王だ」


 いや、と。その直後彼女は自分の放った言葉を否定、あるいは話題の転換を図ることが目的か。ウリアは眉を顰めて煙を燻らせる。


「そんなことは今はどうだっていい。私たちが知りたいことを、君が有しているかが重要だ」


 未だ疲弊しきった彼の瞳をじっと見据え、ウリアは慎重に言葉を選ぶように問い掛けた。


「ここはどこだ? 大陸名と国家名を答えてもらおう」


「……え?」


 その質問に彼は目を白黒とさせる。狼狽、ではない。まるで想定外の質問、常識を尋ねられたかのような、そんな戸惑いを見せた。

 しばらく口を開いたり閉じたりとはっきりとしない反応を示していたが、やがてぽつり、と。言葉を漏らす。


「ここは日本、という国です。島国なんで、大陸には分類されませんけど……」


「二ホン……? 聞かない国だな」


 ウリアは思案するように指を顎に当てる。姫としても聞き覚えが無かった。もっとも、大陸名ぐらいしか記憶していない彼女からしてみれば、いち島国の名前など知っているはずがなかったのだが。

 少年も少年で眉根を顰めて、不思議そうな表情をしている。


「……あの、日本を知らない割には、日本語が達者ですね」


「ん? ワシらはいつも通りに喋っておるだけだが……。お主こそ、ユームの言語に通じておるようだが、ここは本当にユーム大陸近郊ではないのかの」


 言語に関しても姫は特別知識を持っていない。だが、この辺りはテラに教えてもらったこともあって、彼らが話していること、またはその異常性について理解ができる。

 少年が言うには、この国は二ホンという国らしい。いずれに大陸にも属していないことから、大洋に浮かぶ独立国家なのだと推測できる。

 ただそれならば何故、彼はユームの言語を理解し、話せているのか。仮に二ホンという国で、今彼が話している言葉がニホンゴというのであれば、どうして自分たちはそれを理解できているのか。

 その場にいる誰もが頭を捻る、その中で。

 ウリアはふと、少年へと問い掛ける。


「少年、もう少し問いたい。オロガレム、ランティスタ大陸、ファイクピック大陸、アキナラガム大陸、ルミエーラ大陸、それからユーム大陸。これら大陸の中で、一つでも聞き覚えのある名前はあるか?」


「……何ですか、それは。聞いたことがありません。ゲームの設定か何かですか?」


 その声には、その瞳には、ウソ偽りは宿っていない。本当に知らないように、少年は疑問に答えた。

 これはどういうことだろうか。

 魔王城で闇に飲まれたかと思えば、火の海に囲まれていた。状況も、時間帯も、全てがバラバラで、そこにいた少年とも知識が一致しない。

 まるで夢でも見ているかのような錯覚に、姫は陥りそうだった。


「……そうか。なるほど、しかし」


「ウリアは、何か分かったの?」


 器用に煙草を落とさず、ブツブツと呟いているウリア。彼女はテラよりも知識があるわけではない。アクエルのように天才的でもない。スフィアのように戦闘面で秀でているわけでもない。

 魔王曰く、彼女は状況判断能力が優れているのだそう。

 そんな彼女に、姫は期待を込めて確認する。


「ふむ。これはあくまでも憶測の段階だ。よって真実とは限らないが、最も確率の高い可能性でもある。それを、話そう」


 そう言うと、彼女は舌を出した。

 ピンク色で艶めかしいその舌には模様と文字が描かれていた。


「私たちが他国の言語を理解し、そして話せている要因と考えられるのが、これだ」


「それは……?」


「恐らく魔王が施した刻印だろう。私もこの術式は知らないから、推測でしかないが。ここに飛ばされる以前と以後での違いは、ここにしか見当たらない」


 姫は同じように舌を出すスフィアとお互いに確認し合う。刻印は目立たないような赤色をしていて、模様の中心に文字が一文字埋め込まれているだけだ。

 そしてどうやらそれは、少年を除くこの場全員に付与されているらしい。


「次に、本題だ。この世界について。私たちは魔王の力によって場所を移動させられた。それを私たちは空間移動だとそう考えていた、が。どうやら全くもってそれは見当違いな解答だったようだ」


 ここがオロガリム世界でない確証。ウリアにはそれが分かったのだろうか。期待を込めた視線を送る中、次に彼女が取った行動は、踵を返し焼野原を歩いていくことだった。


「付いてきてほしい。見せたいものがある、というか来る」


「ちょ、ちょっとウリア?」


 足早に歩く彼女に連れられ、一行は森の中へ。森、と言っても既にそこには鬱蒼とした緑溢れる自然など存在していない。

 枯れたように渇ききった木々と、燃え残った名も知れぬ雑草。

 辺り一帯からは、全ての生命が失われていた。


「ここでいいだろう」


「ウリア、いい加減説明して。一体どういうことなのよ」


「まあ、待ってみてくれないか、姫。……っと、どうやら来たみたいだ」


 視線は森の外。先ほどまで姫たちがいた場所へと向けられる。やがて殺風景な荒野となっているその地に、二つの人影が姿を見せる。


「さっきの山火事がこの雨で消えたってのか?」


「いや、一瞬凄い雨だったんですよ。それこそ、集中的にこの山に降った感じで、たった数秒で鎮火したんです」


「……それはまあ、いいや。肝心なのは犠牲者がいるかどうかだ。捜索依頼を出す。下の人間にそう伝えるぞ」


 そんな会話が聞こえてきたかと思えば、彼らは手に持っていた黒い何かに向かって喋り掛けた。それから周囲を見回してすぐに引き返していく。


「あ、助けを――」


「まあ待て、少年」


 暗がりから身を乗り出そうとする手負いの少年の肩を掴む。その手には力が込められているようで、しかし優しく、まるで割れ物にでも触れるかのように穏やかな手つきだった。


「あれは味方か?」


「……そうですよ。消防隊の人たちですから、きっと保護してくれるはずです」


「そうか。君にとっては味方なわけだ。しかし、私たちにとってはどうだろうか。あれは私たちのことを助けてくれるだろうか」


「……あ」


 その反応から全てを察することができる。つまり彼らはこの国に属する少年に対しては友好的であり、しかし部外者には手を貸さない存在であるということが、語るまでもなく理解できてしまう。

 少し、その瞳を揺らがせた後、少年は申し訳なさそうにぽつりと呟く。


「助けてくれるとは思います。……ですが、その後が」


「ふむ、いずれにせよ、彼らに助けを求めるわけにはいかんということかの」


「はい。その、あなたたちがこの国の人間でも旅行者でもないなら、この場でああいう人たちに見つかるのは少し……。すみません、軽率な行動でした」


「構わん。お前さんは文字通りボロボロだからの。助けを請うのは当然のことだ」


「そうですが……」


 その言葉の端々には苦渋が含まれている。傷が痛むのだろうか、と姫はその生々しい焼け跡を見つめて思う。痛みを覚える人。苦しんでいる人。国や性別が違っても、それは共通で、変わらない。

 姫はそういった現実から、目を背けたくなかった。


「うん、なるほどな。……少年」


「はい」


 ウリアの声に弱々しく応えるのは、彼の体力が衰弱しているからだろうか。それとも別のことが要因なのか。ともあれ、ウリアは応答を受けて先を続ける。


「君に頼みがある」


「頼み、ですか? 何でしょうか」


「……先ほど彼らが手に持っていた黒い物体含め、ここは私たちの生きる世界とは違いすぎるらしい。君にはこの国のこと、……あるいはこの異世界のことを教えてほしい」


 そのことに、異を唱える人間は誰もいなかった。全員が不安なのだ。口に出さないだけ、表情に表さないだけ。姫以外は、百戦錬磨の強者だから心を纏う鎧も頑丈で分厚い。

 この時でさえウリアはいつもの口調で、人を見定めるように少年と相対していた。

 そして、それに対する少年は。


「わ、分かりました。僕で良ければ。とりあえず、ここから出ましょう」


 声は掠れて、息も続かない様子だった。

 けれど彼の瞳とその声音は、確かに強く。

 明確な意思が少年の胸中に宿っているのを、姫は感じた。

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