第6話 スフィア
魔王城。
その名が示すは悪逆を尽くした者、その頂点が支配する空間。種族を越え、部族を越え、魔王により一つに束ねられた軍勢がひしめき合う拠点。
一度足を踏み入れてしまえば、罠の餌食に。振り返ってみれば、命を落とす。迷宮のように入り組んだ 道々と、容赦のない魔物が牙を剥く。
そんな空間だ。
姫自身が身を置いているのは、そういった認識を持たれている場所。
けれども。
「姫様姫様。ちょっと聞いてくださいよ。この前、
「姫様、一緒に遊びましょうよ」
「姫様。これから茶会があるのだけれど一緒にどうかしら?」
と、こんな具合に。およそ禍々しくもない、能天気な魔物たちが今日も城内を闊歩している。恐ろしい罠も狡猾な悪意も残虐な魔物も、ここには見られない。これでいいのかと思わないでもなかった姫だが、これでいいのかもしれないと、最近では諦め始めていた。あるいはすっかり染められていただけなのかもしれないが。
話し掛けてきた魔物から通りすがりに次々と声が掛かる。姫はそれらに適当な対応をし、地下へと下る階段を進んでいた。
道中は暗い。燭台に乗せられた蝋燭が、申し訳程度の明かりを放っているが、それだけ。一つ何かを付け加えるのなら、静かだった。水を打つ音が響くほどに、あるいは自分の息遣いも聞こえるぐらいには、その空間は静寂を貫いている。
足音だけが跳ね返る。その静けさは、物音を出すことを咎めるように漂っており、自然と姫の歩みも慎重になってしまっていた。
やがて、生命の気配と言えばいいのだろうか。生物が生きる痕跡を肌で感じなくなってきた頃合いに、それを見つけた。階段途中の踊り場にある重厚な二枚扉。閂は外されていて、僅かに開かれている。
姫は躊躇なく、引手に手を掛け中へと身を躍らせた。
「おや、姫さんじゃないデスか。ご機嫌麗しゅうございマスか」
「ええ。この城のおかげというか、魔王のおかげというか。毎日が充実してるわ」
「それは何よりデスね」
そう言ってあどけない微笑を、少女は湛えた。
彼女の名はスフィアという。背は姫の肩辺りぐらいまでしかなく、年齢的にも仕草を見ても齢十やそこらの子どもとしか認識できないが、これでも四天王だ。
そんな幼気な少女がいるそこには、広い空間が広がっていた。闇による視界の阻害はあるものの、それを差し引いても部屋の最奥まで光は届かない。見渡す限りに燭台の備え付けられた柱がそびえ立っており、湿気を含んだ埃臭い風が、姫の鼻孔を刺激した。
「ここが魔王の言っていた……?」
「ええはい、魔物共の訓練場デスね」
広大な空間のその仕様は、姫の国にあった大聖堂を彷彿とさせるが、そこにいるのは幸福を願う敬虔な信徒たちではなかった。
あるモノは猪のような毛並みをなびかせて、あるモノは甲冑を着たまま剣術を奮っている。またあるモノは鋼のように硬い翼を羽ばたかせ、またあるモノは槍のように鋭い牙を突き刺している。
魔物。城内を愉快に闊歩する彼らの姿が、そこにはあった。ただし、いつも見かけるような呑気な様子では、微塵もなかった。気概、迫力、本領。そういった闘志をぶつけあっているように、姫には見えた。
「彼らは、何をしているの?」
そこにいる魔物たちは各々の特技を用いて、攻撃、そして回避を繰り返している。ともすれば仲間割れをしているように思えてしまい、見ているこちらがヒヤヒヤして気が気でない。
「これはデスね、模擬戦をやってるんデスよ。姫さん」
「モギセン……、ってなに?」
「ええと、マア簡単に言えば、闘いの真似事をして経験値を高めようという試みデスね。もちろん、ボクが直々に稽古をつけてあげることもありマスデスけどね。今日はそうじゃありマセん」
そう言う彼女は、腰に掛ける鞘を鳴らした。スフィアという少女の恰好は、それまでの四天王とはまた違っている。衣服へのこだわり、と言えばいいのだろうか。アクエル、ウリア、テラの三人はそれぞれが好きな衣服を着ているようで、その中にこだわりがあるのかもしれなかったが、目の前にいるスフィアはそれらとはまた異質だった。
黒のドレスを身に纏い、肩甲と肘、それから膝にはそれぞれ白銀に磨かれた板金が装備されている。しかしそれらも無骨というほどのものではなく、あくまでも基調はドレスの色をメインとしているようで、重厚な印象を受けない。寧ろ、それらの衣装が薄みがかった緑色の短髪に映えるほどだ。
そう言う意味では魔王と似ているのかもしれない。衣服に対する概念や美学のようなものが固定化されているように感じる。
魔王が公爵貴族だとすれば、スフィアは王国騎士か。長剣を携える少女は、満足そうに鼻を鳴らした。
「それで、どうして貴女はここに来たのデスか?」
「魔王に言われてね。見学しに来たのよ」
いつも通りに城内を散歩していると、何やら忙しそうな魔王から声を掛けられたのだ。地下に行けば面白いものが見られると。
確かに、日々すれ違う魔物たちとは真逆な雰囲気を感じ取ることができたが、面白いかと言われると首を傾げざるを得ない。結局、ただ彼らは真面目に稽古に打ち込んでいるだけだ。そこに興味を示すことができるほど、姫は戦闘にも魔物たちにも関心が薄かった。結局、戦闘なんてどこの国でも変わらない、野蛮な行いなのだから。
「随分と、つまらなさそうに眺めるモノデスね。マア確かに、戦闘など見ているだけではつまらないデショうし。その反応も正常と言えば正常デスけど」
そう言って遠く、魔物たちが小競り合っているその光景を、スフィアは見つめる。そこで繰り広げられる戦闘は、決して派手ではないが挙動一つ一つが痛々しい。思わず、滴る血や生傷から目を背けたくなる。現状からも、重苦しい空気からも。
「毎日、こんなことをしているの?」
「こんなことって、つまりどういうことデスかね」
「こんなに傷ついて、いざという時戦えないんじゃないの?」
目を向ければ、翼が折れているモノや片腕が折れているモノまでいる。誰も彼もが疲弊し、消耗しきっていて、彼らが体力的に弱っていることは素人の姫の目から見ても明らかだった。
何の心配をしているのだろう、と。姫自身思わないことでもなかったが、それでも普段から仲良く(?)している顔見知りだ。当然、良い思いはしない。
「はあ、姫さんはお優しいんデスね。だからこそ、ここでも馴染めているんデショうけど。でもマア、アイツらが聞けば天に召されるほどの効力を持つ、そのご心配はひとまず無用というところデス」
そう言うと、彼女は身を翻し、姫から離れていく。歩み行く先は、魔物たちが集う中心。今なお、戦っているモノもいるその中へと、躊躇なく踏み込んでいき、立ち止まる。
スフィアは目立つ。いい意味でも悪い意味でもだ。それは騎士のような恰好だからでもあったし、人形のような顔立ちと身長の小ささからくるものでもあった。
だからある程度距離が離れていても、小柄な彼女が息を溜め込んだのが分かった。
「オマエら! 一時休憩デスよ!」
決して大きすぎない、けれど確かに威勢のある喚呼はこのフロア全体に響いて鳴った。そしてそれと同時に空間を埋める安堵の吐息。張りつめていた緊張の糸が緩んだ証だ。
溢れ出んばかりの闘志は既に消え失せ、やがてその地下にはいつも城内で感じているような、緩い雰囲気が流れ始める。
その空気に誘われるように、姫は一帯の近くへと歩み寄っていく。血だまりや誰かの肉片を避け、そして時折飛んでくる姫様コールに適当な笑いを浮かべ、そうしてスフィアの隣に立つ。
「どうデス、存外統率も取れるものデショう? 一応、ボクは魔王軍の総隊長を預からせてもらっていマスからね。これぐらいの魔王の代わりを務めることはできマス」
胸を張って満足そうにそう語る少女は、姫から見ても年相応な反応だった。と言っても、姫自身にスフィアほどの年齢の少年少女と話した記憶は少ない。子どもらしいと言えばいいのだろうか。なんとなく、彼女の一挙一動が微笑ましく感じられた。
「どうしマシた? 何やらボクのことを軽んじているような気がしマスが」
「いえ、なんでもないわよ」
「……果てしなくウソ偽りであるような気がしマスが、マア良いデショう」
溜飲が下がらないままに、彼女は無理やり納得したようだった。コホン、と一つ咳ばらいをして、再び姫の方へと振り向く。
「さて、姫さんの質問への解答デスが、私の絶対的自信はここにあるんデスよ。さあ出番デス! アクエルにテラ!」
「おいコラ、あんま調子乗るんじゃねえよチビ」
張り上げた声と同時に、スフィアの頭が前のめりに垂れる。振り返れば、握りこぶしを作り、不機嫌を露わにしている一人の青年と、そして優しい笑みを浮かべている老翁が一人。
一瞬の間に、姫とスフィアの背後に立っていた。
「い、いつの間に背後に……」
「今来ただけだっつの。そろそろ模擬戦も終わるからって、テラの爺さんが呼びに来てくれたんだ」
それから大きな欠伸を一つ溢し、地下の空洞を一通り見渡した。
空洞全域、というよりはそこに倒れる魔物たちを、と言った方が正しいのだろうが。
「それで、いつも通りにこいつらを直してやればいいのか?」
「マア、そういうことデス。アクエルは治癒促進術を、テラは増血薬を全員に振る舞ってもらいマショうか」
「何様だ……、ったく。こんな面倒なこと、ウリアとかにもやらせろよ」
「ウリアは今日、魔王と他国への視察に行ってマスからね。アクエルのように暇人じゃないんデス。無駄口叩いてないで、さっさと始めてくれマセんか?」
「てめえ、後で覚えてろよ?」
そうは言うものの、それ以上の口答えは見せない。彼らにとっても、このやり取りは日常に過ぎないのだろう。
手足が千切れ使えなくなっても、その身が朽ち砕けそうになっても、横たわる魔物たちからは不安を感じない。それだけ、信頼をしているのかもしれない。その惨劇を繰り広げても、その惨状を見かけても。互いに互い、慌てふためく様子はなかった。
どうなることかと思ったが、彼らの傷は綺麗に治り、それから再び何でもないような日常が帰ってくるのだろう。穏やかで、尚かつわだかまりのない空間が、姫にそういった日々の到来を予感させた。
平和とは、こういったものなのかもしれない、と。
そう思った直後だ。
その声が聞こえたのは。
「バケモノどもめ……!!」
亀裂。
それはまさに、耳に届いた異常だった。震えるような冷たさと、凍るような畏怖を帯びた、常時を壊す声の鐘。正真正銘、怯えきった呟きが確かに響いた。
「しばらく、見てきたけど、やっぱり生きるべきじゃないよ!!」
それは魔物の群れから発せられる。それは拒絶の叫びで、それから人間らしい主張だった。
そう、そこにいたのは、人間。
魔物らしい特徴を有した、少年だった。
「貴様らが蔓延っているせいで、世界は病んでいる……! 壊れていくんだ」
そして、その叫喚を合図として。
天井に幾百もの模様が浮かび上がった。白く、神々しく描かれた光の紋様。この地下空洞とはまるで真逆な、清浄の奔流。
「これは……!?」
姫の抱く疑問に答える者、否、応じられる者がいなかった。時を待つまでもなく、熟しきった果実が堕ちるかのように、光の球が複数、陣の中から生み出される。
やがてそれら光は眩い輝きと共に収束していき、人の姿を形作る。
ある者は剣に手を掛け、そしてある者は杖を携える。ある者は拳を握り、ある者は盾を構えていた。
そしてその者たちの最奥。座する王が如く、悠然と現出した彼に。
アクエルもテラもスフィアも、そして姫も。言葉を失う。
煌めき爆ぜた光源は全て闇の彼方へと消失した。残されたのは、大勢の武装した人間たちと暗闇のような無音。
彼は、惑うことなく真っすぐに見据える。
誰でもない、ただ一人の人物のことを。
「救いに参りました、姫」
かの国に仕える勇者は静寂の中、毅然した態度でそう言った。
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