第7話 勇者
旅を続けてきて様々なセカイを見て回った。それこそ紛争絶えない独立国から富と余暇が溢れる大国まで。飢えた子どもたちから大金を捨てる老人まで。現実と現象。淡く抱いていたセカイへの幻想は打ち破られ、現状を突き付けられて。
そんな国々、そうした町々を渡り歩いてきた。悪を挫き弱気を救ってきたのだ。敵であっても味方であろうと関係ない。困っている人間の手助けをし、迷惑を掛ける存在を退ける。
それが自分自身の性格であり、そして生き様であると認識していた。
しかし、今目の前にいる彼らは違った。救う救わない、敵味方、善悪。それら全てがどうでもいい。醜悪であり害獣。唾棄すべき存在で、滅ぼされるしかあり得ない。情も掛ける言葉も見つからない。
それは彼らが何も人ならざるモノたちであるからではない。
理由はただ一つ。
ある一国の姫を傷付けた、ただそれだけのこと。
「よくやったな、イヒケル。あとは俺たちに任せろ」
数日間、間者を務めた少年へ労いの言葉を掛け、行くぞ、と。その一言で、眼前に並ぶ軍勢は駆け出していた。剣を磨き、同じ釜の飯を喰らいあった仲、と呼べるほどのものではない。四六時中一緒にいたわけでも、生まれも育ちも彼らの過去も知っているわけでもない。
目の前にいる彼らとは馬が合った、と。そう表現した方が正しいのかもしれない。つまりその程度であって、けれどもその関わりは堅牢だと、彼自身思っていた。
共に魔物を討伐し、時には一国を救ったこともあった。
絆だけではない、実力面でも彼は仲間たちを信頼していたのだ。
故に、こんな大胆な作戦であっても、付き合ってくれている。
魔王城内部に直接攻め込むなど、犠牲しか生まないであろう策に、乗ってくれた。
もう後には戻れない。
元より、戻る気もない。仲間を危険に巻き込んで、これで姫を救えなければ笑い話にもならないだろう。
「ホロホは左側を、リナは右側を頼む! イイロの隊はバックアップだ! クロウクは俺について前方を空けてくれ!」
事前に立てた作戦通り、それぞれの小隊が三手に別れた。と言ってもそれほど複雑な策でもない。邪魔な魔物たちを抑えている間に、彼は最短距離を目指す、というただそれだけのことだ。そしてそれも案外すんなりと成功する。元々、手負いだった魔物たちなど、朝露を払うが如く討ちやすい。
それでも。負けると分かっていながら挑んでくる彼らは、果たしてどれほど愚かな存在か。
反吐が出る。
そんなにも人肉を喰らいたいか。それほどまでに勇者が憎いか。
なら、その口に鉄の味を叩き込んでやろう。その髄に憤怒を覚えこませてやろう。
彼は薙ぐ。身体と同じほどの大剣を、まるで小枝を振るうかのように、軽やかに。
彼は駆ける。傷だらけの鎧を鳴らしながら、力強く地面を踏みつけて。
ボロボロの魔物に刃を向ける。肉は切り刻まれる。骨は飛び散り、血飛沫が宙を舞った。
そこに罪悪感など覚えない。そんなことを感じる瞬間は、幼少の頃に捨て去った。彼の瞳には、魔物の姿が肉塊に映る。
これは、蹂躙でも殺戮でもない。
単なる破壊作業。
彼に、命を奪っているという感覚はなかった。虫を殺す方がまだ罪悪感に駆られるものだ。
耳につく断末魔を聞き流しながら、一直線に向かう。
姫の下へと。
「いえいえ、そんなに上手くいくとは思わないことデス」
あと数歩。時にして一瞬。その間隙を縫うように、彼の眼前にそれは現れた。
緑髪の少女。彼はこれもまた数多の魔物同様に薙ぎ払おうとして、しかし剣はその柔肌を切り裂けない。代わりに重く鈍い金属音が二人を阻む障壁であるかのように、周囲一帯に響き渡った。
「随分と、ご挨拶ではありマセんかね? 勇者さんともあろうお方が、こんな卑劣極まる奇襲を仕掛けるなんて」
「それは貴様らの方だろうが!」
高音が打ち鳴る。双方が振るう剣同士が長時間触れ合うことはなく、音が消える前には既に次の音が発生している。その度に、衝撃が手を伝わり身体の芯まで届く。
一つ斬り付ければ、同様の威力を以て弾かれる。
二つ切り結べば、相手も高速で対応してくる。
三つ斬撃を飛ばせば、いとも容易くいなされる。
決して踏み込んでこない。数十の斬り合いの中、わざと大きく隙を見せても、彼女がその虚を突いてくることはなかった。
「別に、怒ってるのはあなただけじゃありマセんよ。ボクたちだって、悔しいんデスから」
「貴様らがどうして悔しがる! まんまとしてやられたことに対しての後悔ってだけだろ!」
魔王率いる軍勢に、感情の一欠けらでもあったことに驚きだ。彼らは人を無情に殺す。彼らは生物を無為に壊す。捕食のためでも、快楽によるものでもなく。
殺すために命を奪う。そこに感情の介入する余地など微塵もなく、人形であるかのように殺害を振り撒くのだ。
だからこそ、その少女が次に呟いた台詞に、混乱と眩暈を覚える。
「仲間が死んで、怒らない生物はいないデショう」
少女の一薙ぎが頬を掠め、温い液体が顎を伝い落ちた。油断、ではなかったはずだ。動揺は僅かにあったのかもしれないが、それで剣筋が乱れるほど心は弱くないと思っている。
ならばそれが意味するのは、単純な実力差。常に一歩先を進まれている感覚が、確かにあった。
否。それは単なる感覚に留まるものでも、ましてや錯覚ではないのだろう。
汗を浮かべる彼に対して、少女の面持ちは涼しいものだった。
「あなたを倒したところで、一度死んだ彼らが戻ってくるわけでもありマセんけど、ここは一つ死んどいてもらえマスかね?」
降りかかる攻撃の手がさらに早まる。脳天に見舞われると思いきやそれを防いだ直後に、凶刃は真横への切断行動に移っている。かと思えば背後に回られ、命を散らそうと剣が突かれる。当たれば全てが致命傷。触れれば待つのは死ばかり。度重なる猛攻を防ぎきり、どうにか後方に跳んで距離を取る。しかしそれまでの連撃に耐え切れず膝をついてしまった。
彼女の一撃が、重いわけではない。重いだけの打ち合いならばまだ余力も残せただろう。彼がこれだけの体力を消耗しているのは、少女の連撃速度についていけないからだった。
このままこの剣戟を続けて、その先で迎える結末は容易に想像できる。
今この場で倒れるわけにはいかない。そもそもここへと攻め入った目的は、魔王軍の殲滅ではないのだ。
彼は息を切らしながらも、視線を目の前の標的から、その背後にいる姫に移す。
「姫! 早くこちらに来てください! 貴女を助けに参りました!」
力の限り、彼は吼えた。目の前に燦然と輝くその唯一の希望に向かって。
きっと心細かっただろう。恐らく生きた心地がしなかっただろう。この場所は、それまでに姫が暮らしてきた環境と違いすぎる。命を平気で奪う魔物に、ここへと攫ってきた張本人である魔王。残酷なまでに陰鬱な影地であり、肌に触れる空気は常に重く苦しい。ここは本来人が住めるような地域ではないのだ。
この呼びかけにも、即座に応答してくれるはずだ。
そうでなければ、おかしい。
それが本来ならば姫の正しい反応、であるはずなのに。
「――私、帰らないわ」
姫が浮かべた表情は、拒絶だった。脅されたから出た言葉でも、遠慮や優柔不断によってはじき出された一言でもない。
純粋な否定。
もしくは、それこそが姫の願望だったのかもしれなかったが。
そんなことは、彼にとってどうだってよかった。
彼は姫の放った言葉を、素直に受け取れない。耳を疑い、記憶を探り、目を瞬かせて、頭を振り絞っても、真意の看破はできなかった。あるいはこの場合、呑み込めなかったとした方が正しいのかもしれなかった。
「姫……? 今なんと……」
「帰らないって、そう言ったのよ。あの国は、狂ってるし、腐ってる。だから勇者たちだけで戻って」
強く、こだわって、寧ろ気持ちのいいぐらいの返答。明確な意思を隠そうともしないのは、姫の褒められるべき点でもあり、しかし彼にとっては現在で最も見たくない表情でもあった。
姫は元々、主張の強い人間だった。国民に対してはもちろん、宮中で働いている掃除婦、そして王族、貴族に対してある意味で分け隔てることなく、接することができる存在。
これは、あの国では珍しいことだった。絶対王政。貴族主義。国民の意見には耳を傾けることをせず、ある特定の地位の人間のみに発言権を与えるのが、あの国のやり方だった。
誰もが自分勝手に振る舞えず、発言をする者もそれを受け取る者も、それよりも圧倒的な権力の持ち主を怖れ、そして萎縮せざるを得ない。
つまり、国王及びその肉親。それも、国王により近い血を継いでいる者のみが、理不尽な振る舞いを許されているのだ。
その点で言えば、姫は国王に近い存在だ。兄弟姉妹は多いものの、その中でも姫の権力は国の中でも五本の指に入る。つまり主張が強いとは、その権力を振りかざしているということかと問われれば、それも違う。
振る舞いは傍若無人なものでも、傲岸不遜なものでもない。単純な話、姫は透き通った人間だった。
だからこそ、姫は。
差し伸ばされた手を振り払うのだろう。
まるで悪魔の手引きを見るように、その完全完璧な清廉過ぎる心は、生まれ育った国を拒んで捨てた。
「そういうわけデスよ、勇者さん? 姫はね、ここでの暮らしが気に入ったみたいデス。デスので、どうか諦めて――」
死んでクダさい。
気が付けば手が届く距離にいた少女の声が鳴り、同時に鈍い衝撃が胸部に刺さる。
迸る鮮血。紅蓮の雨が、汚れ一つない少女の肌に跳ね返る。
痛みはなく、熱も冷たさも感じない。
剣が心の臓を貫いた。その事実を理解していたとして、しかし彼は他の何にも意識を割かなかった。否、ただ一点に想いを馳せることしかできなかったのだ。
一国の姫。
彼女が描く悲哀に満ちた顔色に、ひたすら目を奪われる。視界から外れる、その一瞬までも。
彼の中には、辛さも煩わしさもなかったが。
ただそれだけが、苦しかった。
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