第3話 アクエル
「何をしているんですかアクエル。そんなところで寝ていたら風邪をひきますよ」
「なんだよ魔王、と魔王軍の心理を掌握している姫さんじゃねえか。こんな雨なのに何してんだ?」
「先程も言いましたけどね。その言葉、そっくりあなたに返しますよ。全く、誰も魔王である私の話を聞かないんですから……」
雨音が強くなり続ける中、全てを聞き取れたのかどうか分からないが、噴水の縁で寝転がっていた青年は身を起こし、笑う。
明らかに馬鹿にしたように笑うので、やり取りを全部聞いていたのだろう。威厳も何もあったものではないが、そこに対する処遇は後々考えるとして、魔王は藍髪の青年アクエルに話し掛ける。
「そうだ、アクエル。あなた、この雨を止ませること、もっと言えばこの曇天を晴れ空に変えることって出来ますか? 一瞬でも構わないんです。もちろん無理強いはしませんが。ただ、水を操るあなたなら、造作も無く出来てしまっても不思議ではありませんけどね。出来るでしょう恐らく」
「なんでそこまで無駄に敷居を上げるんだよ。これで俺が出来ねえって言ったらとんだ笑い者じゃねえか」
「じゃあお願いしますね」
それはお願いではなく事実上の命令だった。彼のプライドがそれなりに高いことを魔王もまた理解しているようなので、挑発の仕方にも嫌味が感じられない。あるいはその会話が彼らにとっての日常なのかもしれなかった。
「おいおい、誰が出来るなんて言った。どれだけ俺に恥かかせたいんだよ。まったく色んな意味で怖いな、魔王は。……まあ確かに、魔王の言う通り俺は水を操ることに長けてる」
アクエルはさらりとそう言いのけるものの、続く言葉は苦々しい。
「ただ流石に雲は規定外だ。雨をどうにか、とかならまだしも晴れ間まで作るってのは畑違い。水をどうにかして雲を吹き飛ばすなんて無理なんだよ。けどな……」
すっかり雨に降られ、ずぶ濡れの彼は胡乱な瞳で雨を眺める。あるいは雲を。あるいはその先を。
「ねえ、いつまでこうしていればいいの? これ、結構疲れるんだけど。それとも何? 新手の嫌がらせ? 私、この集団に馴染めてきたと思ってたんだけど、実はそうでもなかったりするの?」
「いえ、決して苛めているわけではなくてですね。もう少し辛抱してください。これから面白いことが起こりますから。というかですね、姫は何処に出ても馴染めますよ。ここに慣れれば、大概の場所では通用するでしょう、普通」
「そう、かしら? 適応力あるってことでいいのよね? 別にキワモノに好かれやすいとか、そういうこと言ってるわけじゃないわよね」
「まさかそんなこと。心配しすぎじゃないですか。そんなことより、ほら。始まりますよ。四天王が一人、アクエルの凄まじく豪快な一芸が。自分のプライドを保つために、精一杯力を尽くしますよ」
「魔王さんよ。集中力途切れるからちょっと黙れ」
苦しく振り絞るようなアクエルの声に、明らかな不安と不機嫌を露わにする姫。魔王はそれを見て、思わず笑みを零す。
その微笑みはどういう意味なのだろうか。安堵を与える目的か。それとも親愛の情によるものか。はたまた嘲笑なのか。色々考えあぐねても答えは見つからない。
瞬間、風が強く吹き荒れた。姫が構えていた傘がふらふらと旗のように煽られる。
「うわっ……」
雨が波のようにうねる。大粒の雨が、弾丸のように横殴る。
普通ならば、というより物理法則がきちんと働いているのなら、この現象は納得できる。通常落下する雨は、強風に曝されその運動を真横に変えた。
そこまでは分かる。いかに無知な姫であっても、知識としてはその常識を会得していた。ならば……。
世界を覆う水滴が、今この場でその動きを止めているという事象について。これはいったいどういうことなのだろう。
「な、何これ……?」
止まっていた。時が静止したように。空間が塞き止められたように。
雨粒が宙に浮いていた。綺麗に丸まっているそれは、星のようで、飴のようで、ガラス細工のようだった。それが一面に広がっている。止まったまま、動かない。
けれども風は今尚強く吹き続けている。それが何より、この場全体の時や空間が停止していないことの証左だ。時が止まったわけでも、空間が捻じれているわけでもない。
「ったく、出来てなかったら赤っ恥だったじゃねえか」
雨音が消え、急速に静寂に満たされた。アクエルの声は、音量を間違えたように大きく聞こえる。
水を司る四天王、アクエル。水ならば何でも良いのか分からないが、それでもこの状況を作ったのは、間違いなく彼のようだ。
この一帯にある雨粒を、落下も薙ぎもさせず、ただそこに留めている。
「凄いですね。これだけの物量を留めていられるなんて。というかこんな力があるのなら私にも教えてくださいよ。何で黙ってたんですか。雨で傘まで作るなんて、張り切って能力使うにしても程度がありますよ」
「え……?」
魔王の言葉を受けて、動いたのは姫だった。それまで、周囲の雨粒に見惚れていた視線を、上へと向ける。その際、止まった雨粒が傘に触れ崩れるが、気にした素振りを見せない。
遥か上空、それでも雲と地上の間ぐらい。よく分からないし、詳しく見えもしないが、確かに透明の膜のようなものが張られている。
それはそこから見れば、小さく、この中庭程の大きさにしか見えない。けれど、それは恐らく大幅で、魔王城を覆うほどだろう。
それが、雨を防いでいた。
「で? 何かやるなら早くしてくれねえと、結構俺限界来てるんだけど? もしかして何も考えなく俺にこれやらせたのか?」
「そうですね。いつまでもそのまま、というのも楽しそうではありますけど、今は止めときましょう。……姫」
「な、何よ」
事態に付いていけず、茫然とただそこにある光景を眺めていた姫は、突然の指名に慌てて反応した。戸惑っていて、不安げな彼女は魔王とアクエルとを交互に見つめる。
規格外の現象が起これば起こるほど、彼女の常識は崩れていく。
穢れ、間違い切った常識が、全て綺麗に洗われる。
「しっかりと、傘を構えていてください。雨よりも強く、心を洗うものが降ってきますから」
それだけ言うと、魔王は姫から視線を外した。見据えるのは、天。アクエルの作った雨の傘。空を覆う黒い雲。その先にあるモノ。
パラパラと。再び雨粒がその身に降り注ぐ。静寂は掻き消され、雨音がそこら辺りに木霊する。未だに上空を覆う傘は消失していないが、地上とその傘との間にある雨粒。それらが耐え切れず落ちてきているようだった。アクエルを見れば、その表情からは疲れが窺える。単純にアクエルの限界が近かった。
風が強く吹き荒れ、降り出した雨が不規則に散らばる。姫とは違い傘も持たずに外で立ち尽くしているので、魔王の身は当然ずぶ濡れ。上を向いていれば尚更、その雨の存在を強く感じる。
「魔王……?」
姫が呟いた。不安定で、力無い声音だ。
雲はより分厚く。黒はより濃く。空模様は秒単位で塗り替えられていく。
一粒一粒が地面を打つ。痛みもなく、ただ天から降り落ちるそれは今尚周囲の音を混ぜ、空間を支配しているかのように我が物顔で辺りを濡らす。
魔王に動きはない。魔王は動かない。
指の一本も振るわず、眉の一つも動かさない。ただ上を向いて、何かを見つめているだけ。
「……?」
明らかな変化があった。
まず雨。それは急速に弱まりついにその音を消した。雨そのものが、降り止んだのだろう。
そして風の音。中庭に吹く風切り音が、途端に消えた。
全てが、ゆっくりと消えていく。
雨が、風が、雲が、空気が、音が、薄暗さが。
勢いは既に消失。徐々に先程まで当たり前のように支配していたものが、取り除かれていく。
ただ、何もかもが消されたわけではない。全てがゼロになる前に世界へ生み出されたのは、光だった。
「これって……?」
「へえ、やるじゃねえか。さすが我らが魔王ってところだな。力の差を見せつけてくれやがる。……おい、姫さん。これが太陽の陽射しって奴だ。綺麗だろ。こっちの大陸では珍しいからな。でもまあ大陸がどうって言うよりも、あの国のことだ。どうせ誰にも見せはしねえだろうな。精々知識として教えるってだけだ。姫さん自身、実際に見たことねえんじゃねえか」
天から降り注いでいた滴は、光の柱に代わる。
大空に蔓延っていた黒い雲が切れ、爆発したように、その雲間から白い光が大地を突き刺す。
天が裂け、地は煌めき輝く。これが陽射しだった。これが、姫の初めて見る光景だった。
「これが、太陽の……?」
そっと、姫は手を伸ばす。
初めて触れるそれに。
他では当たり前のように降り注ぐそれに。
姫の手は肌白く、太陽の光を受けて眩く反射する。
「暖かい、のね」
「そうです。姫、太陽の光は害なんかではありません。まだあなたは陽になれていないので、長時間の浴びすぎは身体に毒なのですが。心を癒したい時、気持ちを落ち着けたい時、暖まりたい時、疲れた時。陽に当たるといいですよ」
不思議そうに、けれど初めて触れるそれを目の前に、落ち着いた表情を浮かべている姫。
太陽の日差しを浴びて、これほどの純真無垢な反応を見せる人間もいないだろう。
それは単色の世界しか見たことのない、彼女だからこその反応と言えた。
「もっと知ってください。もっと知りたいと思ってください。一国の姫として、世界を見て欲しいんです。つまらなくもない、あなたのような真っ新に包まれた、世界が広がっているんです。きっと姫も気に入ることと思いますよ」
「ま、魔王……」
「何ですか?」
「……ううん。なんでもないわ」
あの国では幸せが罪だった。あの国では平凡なことが夢幻だった。望んではいけないものだと教えられて、願ってはダメだと言われ続けてきた。
しかしこの国は。この魔王は違う。当たり前を学ぶことと、そして真実を知ることが大切だと彼は語った。
姫は膨らんだ傘を盾に、表情を隠す。
この顔は、なんとなく見せたくなかった。それで魔王相手に全てを隠せているとも、姫は考えていなかったが。
「行きましょうか、姫。太陽の恩恵を受けていること、感動しているところ悪いのですが。あまり初めから日に当たりすぎると体調を崩しますよ。それに、私も力を使いましたので休憩したいんです。そろそろ戻りましょう」
そっと。魔王が手を差し伸べた。まるで紳士が淑女をエスコートするように。連れ添った騎士が王女の手を取るように。
姫は目の前に出されたそれの上に、手を重ねる。
「し、仕方ないわね。あなたのためだもの。とっとと戻るわよ」
「素直じゃねえな、めんどくせえ。全く、魔王もよくやるぜ。お人好しにも程があるってもんだ。俺だったら絶対呆れて放ってるぜ?」
「う、うるさいわね。アクエルは一生魔王から無駄な命令でもされてればいいのよ!!」
「俺の頑張りが無駄なわけねえだろ!!」
雲間から光が差し込んだ。
それは魔王城には降り注がれないはずの浄化の光。雨を十分に蓄えた草木はその陽光を喜び、温和を感じ取った小動物が顔を覗かせる。
誰もここが魔王城だと信じないだろう。場所が変われば、人も変わる。人が変われば、きっとセカイも変わることができるはずだ。
その日。朽ち果てた中庭には、笑いと喧騒が咲いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「首尾はどうだ? 潜り込ませてずいぶんと経つが」
男の声。逞しく、自信に満ち溢れたその声音にはしかし幼さが残っている。
「上々、と言ったところだね。彼女は上手くやっているみたいだ」
こちらも男の声。しかしこちらは軽い、何を考えているのか分からないような軽薄さが窺える。
「そうか……」
勇ましく、自信に満ちた男は窓から世界を眺める。相も変わらず、そこから見える景色は曇天。黒い雲が果てまで続いている。
延々と広がるそれは、精神を参らせる。
心は沈み、気分が落ち、何をするにも力が入らない。
いつも、そしてどこまでも続く曇り空はそれほどの効力を秘めていた。
そのはずなのに……。
「待っていてください。もうすぐ。あと少しで終わらせますから、……姫」
窓にその笑みを映しながら、男は遠い空をただ眺めていた。
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