第2話 姫


 何も知らない。

 何も知れない。


 彼女の生きた世界は、そんな場所だった。

 いや、これでは少し語弊を招くかもしれない。その場所では知らないということを知れない。傍から見ればそれは間違った知識であり、無知であるのかもしれないが、その国ではそれが当たり前。瞭然たる事実として認識されていた。

 そこに平民、貴族の差はない。

 平民が知らないことは貴族が知らないし、貴族が理解できないことは当然平民も理解できない。その国は、無知で成り立っていたのだ。

 彼女もまた、その国に住む人達同様無知だった。

 ただそこに無知という意識はない。国の経験を全てと捉え、それを常識としてそれまで生きてきたのだから。

 自分はおかしくない。自分は正常だ。

 そう自身に言い聞かせている彼女は、しかしただ一つあることに疑問を抱いていた。

 それはその国の長くから続く伝統とも言える儀式。

 今まで、疑問の念を抱いたことのない彼女が初めて抱いた疑惑の感情。明確な理由があったわけでもない。特別な事情があったわけでもない。

 何となく、そう思えたのだ。

 しばらくの後、彼女はそこから逃げ出した。

 その部屋から。その城から。その国から。

 親からも、友人からも、貴族からも、民からも。

 全てを捨てて、抜け出した。

 それが正しい選択であったかどうかは分からない。周りにいた人々を裏切っているわけだ。本来ならば許されざる行動。やはり間違っているのかもしれない。

 それは、どれだけ考えても答えを得ることができないこと。正しいと言われればそうなのだろう。間違っていると指摘されればその通りだろう。

 何より、彼女にはそれを下すだけの経験が足りなかった。


彼女は無知の国の王女エイラ。

一国の姫である。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 そこにはたおやかな腕があった。


「ほら、もう少し曲げて……」


 そこにはしなやかな脚があった。


「ほら、もっと開いて……」


 少女の囁くような声が室内に響く。


「ちょ、ちょっとそれ以上は……」


「いいえ、あなたなら出来るわ。さあ早く私に壊れる様を見せて」


 何処からか、何かが軋む音がした。それは骨なのか、筋繊維なのか。ともかく、日常生活で普段聞かないような音が、少女の目の前から鳴り続けていた。

 少女はさらに囁く。もっと曲げろと。もっと開けと。その度に身体からは嫌な音が雄叫びを上げる。

 目の前の身体は脂汗が酷く、表情も苦痛に歪み切っている。


「もう、止めて……」


「まだ駄目よ。ほら、あとちょっとだから……」


 少女は直接手を加えない。ただ言葉を放つだけ。止めようと思えば、幾らでも止められるはずなのに、しかしどうしてもその行動を抑えることが出来ない。

 少女はさらに言う。


「いいわ。そのまま曲げ続けて……」


「こらこら。部下への悪戯はその辺りにしてください。仮にもあなたは、一国の姫君なのですから」


いよいよその者の骨が折れようという時、扉が開け放たれると共に物腰柔らかな声が飛び込んできた。


「あら」


 黒を基調とした装束に、禍々しい存在感を放つ存在。しかしそれら要素が霞むほどの穏やかな顔つき、暖かい声。

 魔王。

 この城の主にして、魔物を治める統率者がそこにいた。

 全体的に薄暗く、日々の生活を過ごしているだけで気が滅入ってしまいそうな沈んだ雰囲気が、随所に蔓延っている。

 ここは魔王城。

 希望も温和も存在しない、悪そのものであらねばならないはずの場所。そして、その城の主である魔王を筆頭に、様々な魔物が潜む闇の巣窟だ。


 この魔王城がある大陸には多くの魔物が生息している。最弱の粘水スライムであったり、猛毒を持つ雄叫草マンドラゴであったり。彼らも人間と同じように暮らし、生きている。雑魚であっても、食物連鎖の頂点に君臨していても、同じようにその大陸には百を超える種の魔物が跋扈していた。

 魔王城は彼らの本拠地。言うまでもないが魔王がその親玉だ。


 魔王城は大陸の端。断崖絶壁の山々が連なる断崖地帯にそびえ立っている。わざわざ魔王城を訪れる物好きな人間などいないだろうが、何の訓練も受けていない人間が容易に立ち入れる場所ではない。例えば、俗に勇者と呼ばれる人間を除けば、そこは無用の土地。魔物と人間との線引きは、一応出来ている。


 そんな魔王城の外観は当然禍々しく、内面もまた洞窟のように不気味だった。

 空間を照らす明かりはあるものの、光量に乏しく、精々床を照らし出してくれる程度。散歩気分で歩くには、心許ない。


 そんな魔王城の廊下を、現在二つの人影が歩いていた。


「全く、姫には困ったものです」


「……仕方ないじゃない。悪い癖になっちゃったんだから」


 荘厳な作りの廊下を賑やかに歩く。どこまでも続いているように見える廊下は暗く、明るい空気など微塵も感じさせない。本能的に嫌悪さえ覚えてしまう空間ではあったが、二人はそれを気にする素振りも見せず、何処かへと歩き続ける。


「私だって本当はあんなことしたくない。でも幼い頃からの癖、ううん。これは習慣……、いえ、もう一人の私とでも言った方がいいかしら。気が付いたらすぐにこの習慣が出てしまうのよ。誰も好き好んであんなことしないわ」


 その言葉で、魔王の視線が僅かに逸れる。知っているのだろう。

 姫の国のこと。姫の家柄のこと。姫の生い立ちのこと。あの国の全てを。

 それらに対する様々な思いがあったのかもしれない。魔王は一つの嘆息にまとめて吐き出したようだった。


「まあ先程のような死肉人アンデッド飢餓獣グール相手ならば全然構いませんけどね。あいつら、再生することにしか能がありませんから。それに、創ろうと思えばいくらでも、何時でも創れますし。そこら辺りの消耗品よりも価値がありませんよ、彼らは」


「でも、私は……」


「いいんですよ、あんなやつらのことを一々気にしていたら身体が持ちません。それにあいつらちょっと人間の美少女が来たからって浮かれてるんです。もう少し、魔王軍としての自覚を持って貰わないと困るんです。ああ、ですけど、私にはそれはしないでくださいね。痛いのは勘弁ですので」


 魔王の言う通りこの歩き続けている間にも、鋼粘水メタリックスライム不死騎士ヴァンパイアナイトといった雑兵が絡んでくる。全て魔王が追い払うが、次から次へと見物に来るのできりがない。

 確かに魔物としての威厳を彼らからは感じない。魔王軍としての全体の士気が上がったと、先日魔王からは聞いてはいた。それと同時に、聖母であるかのような偶像崇拝は止めなければ、いざこの城を襲われた時に対処が追い付かなくなってしまうとも嘆いていたのが記憶に新しい。

 姫自信、魔王軍はもっと悪魔的で、もっと畏怖の象徴のような存在だと思っていたので、彼らの言動には驚かされた。実際、一般市民と話しているようなのだ。


「姫? どうして笑っているのですか? 冗談を言った覚えはありませんけど」


「ふふっ、だって魔物達は全然恐ろしくないし、それに魔王が痛いの嫌って……」


「笑いごとじゃありませんよ。魔王軍として現状では駄目なんです。もっと自覚を持たないと。それと私達、魔物を含めて全員生きているんです。言葉一つで骨を折られてはたまりません。……それでもまあ、あなたのストレスを緩和させる手段としては有効みたいですけどね。ただそれを許すかどうかはまた別の問題ですし、それに一日中そんなことをされると、いくら雑兵がいても追いつきません。節度を持って、もっと大事にしてください。私達悪魔は尊く、儚いんですから」


「そんなことでいいの? 悪魔ともあろう存在が、か弱いなんて聞いたら笑われるでしょ?」


「だからこそ、強くあろうとするんですよ。例え強くなくとも、食物連鎖の頂点である人々に抗うために、我々は畏怖を刷り込ませるんです。魔物は人間には勝てませんから、そうして生き延びていく他無いんです」


「ふーん、大変ね魔物も。あなたも弱いの? 魔王」


 何処まで続いているのか見えない廊下の先から視線を外し、姫は魔王を下から覗き込む。身長の関係でどうしてもそうなってしまう。彼女がとびきり低いわけではない。人間の範疇に収まっているが、魔王の身長がそれなりに高いのだ。

 そんな姫の質問は単なる興味本位。よって魔王もそれ相応な返答をする。


「ええ、弱いですよ。何せ、かの勇者には一生勝てない運命なんですから」


「……勇者!!」


 姫の視線があらぬ方向へと向けられた。まるで遠くに誰かを睨むかのように、窓からその外界を覗く。窺えるその形相は怒り半分、不機嫌半分で染められており、魔王の顔色が心配のそれに彩られる。


「あいつが現れていなければ、私のこの症状はもっとマシになっていたわ。本物の勇者なんて、存在するべきではないのよ。というか、そもそも。あいつが本物の勇者である保障なんてどこにもないわ」


「その勇者が所属している国の姫がそんなことを言うなんて。どれだけ駄目なんですか、あの国は……」


 二人して、溜め息を吐く。

 思う人間の立場は違うが、考えることは同じだ。共に姫自身がいたあの国のことを思い、呆れた。   魔王率いる魔物の軍隊と比べるのもおかしいが、魔王の統治するこの城よりも、あの国は狂っている。


「あ、姫様!」


「本当だわ。ねえ、姫様次はいつお話してくださるの?」


「おいおい、姫様と遊ぶのはオレだぜ?」


「は? 何言ってんだよポンコツ骸骨野郎が」


 長く続く廊下を歩いていれば、魔物の一匹や二匹と出くわすことはある。魔王城なのだからそんなことは当たり前なのだが、少し立ち止まった姫の周りには、人だかりならぬ、魔物だかりが出来上がっていた。


「え、ちょっと待って……!」


「こらこら、姫様は今から用事があるんですから。また今度にしてください」


 困惑して狼狽えたところへ、魔王の疲れた声音が耳に届く。そんな威厳も感じられない声だったが、それをきっかけとして魔物の群れはその波を引いた。

 こういう部分が、魔王が魔王たる所以なのだろう。魔物を言葉一つで統率させるその様は、魔王らしいと言えばそう見えなくもなかった。


「姫様! また遊びましょう!」


「ええ、また今度ね」


 わいわい、と。薄暗い廊下に似つかわしくない賑わいを背に、姫は魔王に連れだって歩みを進める。この国もある意味ではおかしいのかもしれない。

 人間よりも、人間味がある魔物たちに、どこか気疲れをしている魔王。その光景は、想像していたよりもちぐはぐだ。


「ほら、見えてきました」


 しばらく一本道の廊下を進んでいると、魔王が言葉で指し示す。

薄暗い、妖しいこの場所を抜ける出口を。

 どうやら、魔王の目的はそこらしい。足取りを緩めることなく、姫と魔王はその身を目的地へと乗り出した。


「おや、雨ですか。ついていないですね。先程までは降っていなかったのですが」


 適度に遮断された光が、目を刺激する。廊下から中庭に通じる入口から見た景色は、生憎の雨模様だった。


「雨なんて珍しくもないわよ。一年の大半は雨なんだし、風雨じゃなかっただけマシに思えるわ」


「姫はもっと周囲の出来事に疑念を抱くべきです。全部を全部信じ、受け入れていると、どこかで必ず齟齬が生じます。信じることも結構ですが、その前に自分の考えというものを持たないことには何をしても、何を思ってもそれはまやかし。あなたはきっと、後悔してしまいます」


「……後悔ね。確かに私は疑問を持ったことは数度しかないけど。それで後悔に繋がるとは到底思えないわ。あまりにも大袈裟だと思うんだけど」


「後悔、というよりも驚愕ですかね、初めに芽生える感情は。まあ見ていてください。今からあなたたちの国が特別で、他の国の地域では日常的な光景をご覧に見せましょう。と、その前にこれを渡しておきますね」


 ぼんやりと雨を見つめる姫の前に、魔王はそれを差し出した。


「これは、雨避け?」


「一般に日傘と言われているものです。というか、雨避けなんて初めて聞いたんですけど。モノの言葉も違うとは、どれだけ閉鎖された国なんですか」


 黒く、しかし汚れ一つ見えないそれは意外と軽く、重さを感じさせない。

 魔王が傘を開き、姫に渡す。


「あなたの国で言うところの雨避け、でしょうね多分。雨避けがどういうものなのか知らないので、何とも言えませんけど。とにかく、傘というものは本来雨を凌ぐための物。対してこれは日傘。文字通り、太陽からの陽射しを、遮るための物です」


「太陽からの、陽射し……?」


「太陽は、知ってますね。ですが太陽が何のためにあるのかは、どうせ知らないんでしょう。いいえ、万が一知っているとはいってもそれはおそらく本来の意味で、という形ではないはずです」


 顔を上げると、空一面を彩る灰色が目に飛び込む。分厚い雲が覆い、雨こそ降っているが、その先にある輝いているであろうものに、魔王は視線を向ける。

 雲と雨のせいでくすんでいて、そこにあるのかさえも分からない。けれど確かにあるはずだった。

 世界を照らす、その光源が。


「私の国では太陽は無価値だと教えられたわ。太陽は私達に何の影響も与えるわけではなく、ただ天にある輝く星だと、そう教育されたの。まあ実際に見たことが無いし、見れる機会なんてそうそう無いわけだけど」


 姫の言葉に嘘は無い。この大陸では太陽は無価値なものとして知られていた。またその存在自体を疑う人もいる。

 それが当然。それが常識。誰もがそれを疑わない。

 しかし、魔王及びその他の人間にとってはそれそのものが嘘である。世界では雨も曇りも確かにあるが、それよりも遥かに太陽が地を照らす方が多いのだ。


「姫、傘を立てるように構えていてください」


 依然として雨は降り続いている。止む気配はない。

 灰色の雨雲は終わりを見せず、広く膨らみ延びている。普段は雨のことなど気にも留めない。毎日が雨天か曇り空であるこの国では、その空模様も珍しくもないが、今日は魔王が誘ってくれた。自然と無意識化にあるものにも目を向ける。


「おや、あれは……」


 雨が降りしきる中庭の中心。悪魔の彫刻が並ぶ悪趣味な噴水が設けられており、それ以外装飾らしい装飾も無い寂しい庭に、姫と魔王は一つの人影を見つけた。


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