キミはオレの妻だ

 このままオレは、死ぬのだろうか。

 こんなわけのわからん世界で、わけのわからん化け物に喰われて。

 向こうでは、行方不明者扱いになるのかな。

 それとも、ここで死んだら、元の世界へ帰れたりするのかな。

 ぬっとり絡み付くような闇が、全身を柔らかく包み込んで、口や鼻から体内へじわじわ侵食される感覚。

 自分の境界が、曖昧になってくる。

 もっと自我を強く持たないと、オレも、この闇の一部になってしまうかもしれない。

 ああ、でも、意識が、だんだん、遠退いていく。


――……オウスっ!


 執拗な闇に抗うように、オレの中でタチバナが、強く叫んだ。


        *


「どうしてだよっ。なんでオマエがっ!」


 花彦の手が、痛いほど強く肩を掴んでくる。


「悪いのは、オレなのに。全部、オレなのにっ!」


 嵐の中だった。

 昼だというのに、空は黒い雲に覆われ、真っ暗だ。

 時折走る稲光が、周囲の様子を切れ切れに浮かび上がらせる。

 ここは、船上。

 絶え間なく降りしきる雨と、立ち騒ぐ荒波に弄ばれ、今にも沈んでしまいそうな、ちっぽけな船の上だ。

 そこに、オレ――タチバナと、花彦と、その臣下たちが乗っている。

 あの、火攻めにあった相模国から上総国かずさのくにへと渡る途中で、船出のときは、空も波も穏やかだった。

 花彦は大層ご機嫌で、輝く海と、その上に横たわる対岸の緑を見ていった。


「向こう岸があんなによく見えるなんて、ちっぽけな海だよなぁ。こんなのあっという間に渡れそうだ」


 当然だ。

 ここは今でいう東京湾の入り口あたりだから、向こう岸も近い。

 フェリーで一時間もかからずに渡れる距離だろう。

 ところが、航路の中程まで来たとき、空が俄に掻き曇り、それこそあっという間に大粒の雨が降り出した。

 風もだんだん強くなり、荒れ狂う高波が次々押し寄せ、行くことはもちろん、戻ることすら出来ぬ有り様となってしまった。

 花彦の調子に乗った一言が、渡の神を怒らせたのだ。

 このままでは、みんな死んでしまう。

 花彦も死んでしまう。

 だから、決めた。


「わたしが海へ入り、神の怒りを鎮めてきます」

「えっ?」


 動揺した花彦は、オレの肩を掴み、止めようとする。


「渡の神なんて、オレがすぐにやっつけてやる。だから、オマエは……」

「ダメよ、そんなこといっちゃ。ますます神がお怒りになるわ。それに、あなたではきっと、神の元に辿り着くことすら出来ない。でも、わたしなら、わたしが神の妻になるなら、会うことも出来るはず」

「妻って、そんなっ……」


 急に船が大きく揺れた。

 バランスを崩したオレは、花彦の胸に倒れ込む。


「イヤだ、タチバナ。キミはオレの妻だ。誰にもやらない。……にも、誰にもっ」


 そのまま強く抱きしめられ、オレの――タチバナの心が、ほんの少し揺らいだ。

 それと同時に、この人を、死なせたくないと強く思った。


「離して……オウス。もう決めたの。わたしは渡の神の妻になる。あなたは花彦小碓として、ヤマトタケルとして、きちんと任務を成し遂げて」

「そんなのどうだっていい。オレは花彦じゃない。オレはオ……」

「でも、ヤマトタケルの名を与えられたのは、あなたなのよ。だから、どうか、その名に恥じない生き方を」

「タチバナ」

「海神の妻がイヤだというなら、わたしは竜になるわ。竜になって、あなたの船を守ってみせる」


 花彦の手が緩んだ。

 オレは彼から離れると、その顔を見上げ、口遊くちずさむ。


「『さねさし 相模さがむに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも』」


 相模の野原に燃え盛る火の、炎の中で、わたしのことを気遣い問いかけて下さったあなたよ。

 そんな意味の歌だ。


「さようなら。わたしの……オウス」


 オレは踵を返し、船縁へと駆け出した。

 慌てて伸ばした花彦の手が、オレの指先を掠め、宙を掴む。

 決意が鈍らぬうちにと、オレは嵐の海へダイブした。

 唸る風の音に、花彦の叫びも掻き消される。

 荒波の上に、突如敷物が現れた。

 菅を編んだものや、皮や絹、それらが幾つも重なって、タチバナの身体を受け止める。

 渡の神から花嫁への贈り物だろうか。

 敷物は少しずつ、波の下へと沈んでゆく。

 最後にもう一度、船を見上げた。

 縁から大きく身を乗り出し、臣下に止められている、花彦の姿が見えた。

 必死に何かを叫んでいる。

 大丈夫よ、そう呟いて、目を閉じる。

 頭からざぶんと海水を被せられ、オレは敷物に乗ったまま、海の底へと沈んでいった。

 不思議と、息苦しさはなかった。


「弟橘姫」


 誰かに呼ばれ、顔を上げると、目の前にはすだれがあった。

 見回すと辺りは真っ暗で、自分の周りだけがなぜかほんのりと明るい。

 そして、海中に沈んだはずなのに、着物も髪も濡れてはいなかった。

 さっきの嵐は、全部夢だったのだろうか。

 しかし、身体の下には、見覚えのある敷物が。

 やはりそれもキレイに乾いていた。


「ようこそ、海の底へ」


 声は、簾の奥から聞こえてくる。

 まだ幼い少年のような声だ。


「あなたは?」


 恐る恐る尋ねると、笑いを含んだ声が返る。


「君が会いたがっていた、海の神だ」

「えっ? あっ、あの、わたし、あなた様にお願いがあ……」

「あの男を乗せた船なら、もう海を渡っていったよ」

「本当に?」

「ああ。君の心意気に応え、望みはちゃんと叶えたさ」

「ありがとうございます」


 平身低頭で礼を述べると、神は気にするなといった。


「そんなことより、望みはそれだけ? もう一つくらい聞いてあげてもいいよ」

「どうしてですか?」

「君を気に入ったから」


 ならば、とオレはいった。


「でしたら、わたしを、あなた様の妻にして下さい」

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