二段

恐る恐る触れた胸は

 繋いでいた手はいつしか離れ、気付くとオレはひとりだった。

 ふたりとはぐれたかと焦ったが、違う。

 視界が悪いのは立ち込める霧のせいで、よくよく目を凝らせば、ミヤズらしき人影がすぐそこにある。

 それにしても深い霧だ。

 辺り一面真っ白で、自分の手元すら覚束おぼつかない。

 恐る恐る踏み出すと、足の下は短い草の生えた大地のようで、湿った土と緑の臭いが鼻を突く。

 空気はひんやりしているが、湿度が高いせいかあまり寒いとは感じない。

 夏の朝に似て、気持ちいいくらいだ。

 さっきまで教室にいたはずなのに外にいて、しかも季節まで全然違うなんて、本当に違う世界へ来たんだな。


「こちらです。はぐれないよう、しっかり付いてきて下さいね」


 よく通るミヤズの声を頼りに進むと、霧が少しずつ薄まってきた。

 それに伴い、辺りの様子がわかるようになる。

 空は曇っているのか、それとも霧に覆われているだけなのか、相変わらず白いが、その明るさからして朝ではなく昼間なのだろう。

 ここら辺は開けているが、山深いところのようで、周囲には低い山が重なり合い、背の高い針葉樹が雲を棚引かせながら青々と繁っている。

 やや単調な景色の中、やがて行く手に空壕からぼりや木の枝を並べたさくが現れ、その奥に板塀いたべいやぐらのある門が見える。

 ミヤズが再び鏡を手に取り、櫓に光を反射させると、それが合図になっていたのか門がゆっくりと開き始めた。


「足元、気を付けて下さいね」


 丸太を数本束ねただけの橋で、幅も深さもオレの背丈よりありそうな空壕を渡り、門を潜ると、中は思いの外広い。

 地面には白い砂が敷き詰められ、大きな木もたくさんあって、茅葺かやぶき屋根の建物が幾つか点在している。


「へぇ。なんか神社みたいだ」


 頭上から、いきなり声が降ってきた。

 少し低くて、どこか爽やかで甘い感じの、若い男の声。

 慌てて振り向くと、すぐ横に、背の高い男が立っている。

 年は、オレよりだいぶ上だろう。

 長い黒髪を3つに分け、うち2つを両耳の下で輪のように結って、後ろはそのまま背中に垂らすというヘアスタイルが、いかにも古代の人っぽい。

 着ているのもまたそれっぽい、生成り色の上下だ。

 立ち襟の上着は、ボタンの代わりに、紐で正面を合わせて止めている。

 腰に巻いた太いベルトは革で出来ているらしく、中央の金の留め金が一際目を引く。

 ズボンは結構幅広で、動き安くするためか、膝の下を玉飾りの付いた紐で縛り、足には革製の靴を履いている。

 よく見ると、上着の肘にも膝と同じ紐が結んであり、手には手っ甲をしているようだ。

 あちこち物珍しそうに眺めていた男は、オレの視線に気付いたのか、ふと、顔をこちらに向けた。

 その二重の綺麗な目が、大きく見開かれる。


「あ……」


 何かをいいかけたまま、男は固まってしまった。

 オレの方も男から、目が離せない。

 驚きの表情でも、やはり美しいと思える華やかな顔立ち。

 見知らぬ人のはずなのに、どこかで会ったような気がする。

 なぜだろう。

 胸がギュッと締め付けられ、目頭が熱い。


「花彦さま? どうかなさいました?」


 ミヤズの声が、オレの意識を引き戻した。

 いつの間にか、ミヤズが男の腰に抱き付き、甘えるように見上げている。


「いや、別に。つうか、離れて」


 男も、我に返ったように答え、ミヤズの手を振り払った。

 って、あれ?

 花彦?

 あのミヤズが第三者を、そのように呼ぶか?

 それは絶対にない。

 つまり、この目の前にいる男が、花彦――本物のヤマトタケルなのか?

 目鼻立ちの整った顔や浅黒く日焼けした肌は凛々しいが、背丈の割にひょろりとした体躯はあまり強そうに見えない。

 でも、きっと、敵を目の前にしたら、勇猛果敢に立ち向かっていくんだろうなぁ。

 そんなことを思いつつ、花彦を見つめていたら、再び疑問が沸いた。

 ここにいるのが花彦なら、その生まれ変わりとかいう日高は?

 そういえば、ここに来てから一度も姿を見ていない気が。

 一緒に来たはずなのに。

 ひょっとして、同じ時空に同一の魂は存在出来ないとかいう、SF的な現象でも起こっているのか?


「おーい、日高っ!」

「何?」


 ダメ元で呼びかけると、すぐそばから返事があった。

 日高の声も女子にしては低めだが、それとは明らかに違う、男の声。

 見るとあの花彦が、何か問いたげな眼差しをこちらへ向けている。

 まさか、まさか、まさかっ!?


「ひょっとして、日高? 日高緋子っ?」

「そうだけど、あなたは誰?」


 逆に真顔で問い返され、オレは戸惑った。


「何いってんだよ。アズマだろ。穂積東吾っ。じゃなかったら、何に見えるってんだよ?」

「何って、キレーなおねーさん」

「はぁ?」


 何いってんだ、コイツ。

 さらに文句をいおうと、腕を振り上げたら、顔の横で何かが揺れた。


「ナニ、コレ?」


 それは、ゆったりとしたクリーム色の袖だった。

 慌てて着ているものを確かめると、上はクリーム色の丸首の服で、はだけないよう右端をピンクの紐で留めてある。

 その上に淡い若草色のショールを羽織り、足首まである黄色みを帯びたピンクのロングスカートを穿いている。

 そして、碧玉などの石を丸や筒状に加工して連ねたネックレスのかかった胸元に、なんだか気になる膨らみが……。


「ナニ、コレ……」


 呟く声がいつもより高い気がするのも、多分気のせいだと思いたい。

 不安を振り払うよう、恐る恐る触れた胸は、布越しにも柔らかく弾力があり、思いきって力を入れると確かな痛みを感じる。

 ああっ、夢じゃない。

 さらに下を確かめる勇気は、今のオレにはなかった。

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