まぼろしの
近藤 セイジ
本編
「今日は、まぼろしの、が入ったんですが、どうですかね?」
客は私以外いなかった。
いつも通りの、最高の中トロを噛みしめながら、私は思った。
--- まぼろしの、ってなんだ?
閑静な住宅街の中にひっそりと佇む、カウンターだけのこの寿司屋に通うようになって十五年になる。
以来、私はほとんど注文を変えていない。
タイ、コハダ、赤貝、中トロ、ウニ、アナゴ、卵焼き、かんぴょう巻。
その八貫を相手に、夏なら日本酒を冷で、冬なら上燗で二合。それをぴったり一時間かけて食すのが、小さいながらも一つの会社の長として戦う、私の唯一の癒しなのだ。
ペースを乱されるのが嫌いなことも、大将も知っているはずだ。
それが中トロの、大事な折り返し地点で、まぼろしの、だと?
そんな大将が勧めてくるということは、それほどの、まぼろしの、なのだろうか?
私は長考の末、口を開いた。
「じゃあ、ひとつ頂こうかな」
「へい! ありがとうございます!」
大将は嬉々として答えると、冷蔵庫からトレイを取り出した。
若干の後悔が襲う。いつも通りウニを食べればよかった。長年のルーチンワークを崩してしまった。
冒険するのは会社の決断だけで十分なのだ。大事な時に大事な決断を下せるため。そのために、私は毎日、毎週、毎月のルーチンワークを大事にしているのだ。
「お待ち」
「これが……」
「へい。これが、まぼろしの、でございます」
寿司下駄には、紫色の気色悪い貝のような物体の握り寿司が置かれた。おおよそ、人の食べられる色ではない。
大将を見ると、満面の笑みを浮かべている。今まで寿司通っぽいことをいってきたから、これが何か聞けない。
意を決して食べた。
生臭い。辛い。そして、意識が遠のく。
「大将、これは……」
「なにかは言えません。ただ久しぶりに
意識が遠のいていくなか、大将の笑みが脳裏に焼き付いた。
おそらくこれが、私の最後の記憶になると、直感で思った。
まぼろしの 近藤 セイジ @seiji-kondo
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