第2話 Mind Dumper


 床に転がった注射器を、踏んづけてしまった。

 足裏から染みのように広がる痛みは、彼女に生きていることを実感させてくれる。とても最悪な寝起きであっても、だ。ついでにアルコールのせいでズキズキと痛む頭も、死にたいと思うくらいに生き生きとしている。そんなどうしようもないストレスから、彼女はショートボブの金髪を短く掻き毟った。

 半覚醒状態の呆けた頭で、今がどういう状況なのかを思い出す。つい今しがた見たデジタル時計には、午前の一一時と書いてあったはず。昨晩はアイツをこの自宅に招き入れて、寝た時は多分全裸も同然の状態だったのだろう。タンスから出した適当なショーツを穿きつつ、吐いてしまいそうなほどの情けなさに襲われる。

 右足の土踏まずを覗き込むと、注射器を踏んだせいで出血していた。ぷくっと膨らんだ血液は、ラズベリーの一粒のよう。使用済みの針で刺してしまうのは不衛生だからと止めていたのに、このような形で打ってしまうとは。こんな床に注射器を放り投げた人間を、彼女はこの注射器で刺してやりたかった。いや、それは彼女自身なのだが。

 机の引き出しから絆創膏を取り出そうとするも、オーソドックスなベージュ色のヤツは生憎切らしていた。今残っているのは、可愛らしいサンリオキャラの小さい絆創膏だけ。これを買ったのは、何年前だったか。思い出した、小学生の頃に仲良くもない友達から誕生日プレゼントで貰ったのだ。そんなモノが、一体全体どうして下宿先であるこのアパートにあるのだろう。仕方が無いので、その可愛い絆創膏で足裏をドレスアップする。

 床にしゃがみ込んで足に手を回そうとした時、ふと左腕のリストカット痕が目に入った。むしろアームカット痕と表現すべきであるほど、肘の方にまで傷口が広く分布している。魚焼きグリルと言うよりは、そのグリルで焼くよう切り込みを入れた焼きイカみたいだ。莫迦なことをやったなぁ、と彼女は自らの愚行を懐かしんだ。

 この傷を刻んだのは、確か高校生の時が最初だった。あの時はまだ彼女も純粋で、学校の先輩に恋する乙女だった。その先輩と付き合うところまでは行ったものの、しかし彼女の心は求められず、そして身体で繋ぎとめることも出来なかった。浮気をされて、別の女に逃げられたのだ。

 先輩に恋をした理由を、彼女はどうしても思い出せない。深く心の棚にしまっている訳ではなく、そもそも特別な理由が無かったのだろう。恋に恋するお年頃で、先輩が彼女のタイプだった。たったそれだけの理由で、彼女は癒えぬ傷痕を負ったのだ。何とも莫迦々々しい、自然と笑いが込み上げてくる。吐きそう。

 この部屋の隅に置いてあるのは、中古で手に入れたエレキギター。髪を切って脱色した時に、なけなしの金で買ったモノだ。失恋のエネルギーを糧にしてジミヘンでも目指そうかと思ったが、結論を言えば無理だった。けれどもこのギターには何故か愛着を持ってしまい、実家を出た後もこのアパートに持ってきてしまった。負の遺産、こういうモノに限って引きずってしまう。

 他にも、色んなことをした。中学でやっていたテニスを再開したり、新たな恋で上書きしようとあらゆる男に手を出したり。クラスメイト、教師、バイト先の同僚……去勢されていそうな優男も居れば、マッチョで渋いダンディも居た。しかしこのどれもが実を結ばず、失恋によるストレスが蓄積するばかりだった。虚無感が胸を衝き、焦燥感が胸を刺す毎日。そんな中で出会ったのが、リストカットとドラッグだった。

 この二つは、まさしく劇薬だ。最初に腕を切った時、この世の全てがどうでもよくなるような快楽に襲われた。身体の鎖を断ち切ったような、そんな解放感だった。失恋する度に腕を切って、腕を切る度に恋をする。高校を卒業して大学に上がった頃にはそんな生活にもしかし飽きてしまい、新たなバイト先の『C@fè D.I.V.E.』でドラッグに出会った。いろいろ試してみたところ、シャブが一番彼女に合っていた。注射器で腕を傷付けるというのが、特に良かった。後は依存するだけである。恋人にそうしてしまうかのように。もっとも病院にぶち込まれないよう、量はある程度抑えているが。

 絆創膏を貼り終わり、部屋の片付けをするために立ち上がる。昨晩は確かアイツと飲んで、寝たはずだった。それなのに今ここにアイツが居ないということは、即ち彼女を捨てて逃げたということだ。大方、酔った勢いで犯してしまった罪に怖気づいたのだろう。それが何ともアイツらしい。

 鼻の奥を突くアルコールの匂いが、二日酔いの頭をガンガンと叩く。テーブルの上に転がる酒瓶を見て、何を飲んだのか思い出そうとした。アイツはいつものカルーアミルクだろう、パックの牛乳が置かれている。しかも微妙に残っていた、彼女は牛乳を飲まないので非常に困る。一方でウォッカだのホワイトキュラソーだのがあり、そういえば彼女はカミカゼを飲んだ。それが意外と応えてしまい、だから酔ってアイツを受け入れてしまったのだ。バーの店員だというのにこの程度で落ちてしまって、自分に対する嫌悪感で身体の皮を剥ぎたくなってくる。

 とりあえず空いている酒瓶と食べかけのミールを、まとめて台所へ持っていく。シンクには洗っていない食器が溜まっていて、何とも見苦しい光景だった。自分のズボラさに嫌気が差しつつ、とりあえず生ゴミをゴミ袋へと捨てる。クシャッ、というビニール袋の乾いた音が響き、生命が死んでいく感覚に襲われた。

 ――私は、この生ゴミと同じで無価値だ。

 深層心理で感じていたことがふと表面化してしまい、自身の感情が急降下したことに戸惑う。咄嗟に口元に右手を当てる。危うく涙を零しそうになった、まだ酔いから醒めていないのだろうか。もしそうならば、早く醒めてほしい。

 左腕の傷痕を見つめる。所々に、注射針の痕も出ている。その皮膚は非常に汚らわしく、魅力なんてゼロに等しい。やっぱり剥いでしまいたい。シャブ中のメンヘラが泣きそうになっている、この状況の彼女は間違いなく無価値な人間だ。

 呼吸を整えて落ち着こうとすると、急にお腹が空いてきた。先ほどミールを捨ててしまったことを、この期になって後悔する。とりあえず冷蔵庫を開けて何か食べ物が無いか探すと、賞味期限切れのチーズがあった。青カビが生えていたら価値もあったのだろうが、残念ながらこのチーズは食べても食あたりを起こすだけだろう。だからこれも、ゴミ箱へ捨てた。期限切れのチーズも彼女も、多分本質的に似通っている。

 けれどもこんな状況になる以前、失恋した時も同じように感じていた気がする。先輩に選ばれないくらいに無価値な人間で、心はもうズタズタに踏みにじられていた。だというのに身体は綺麗なままだったから、身体も心と同じく傷だらけの状態にしたくなった。最初にリストカットをやろうと思った理由は、確かこんな感じだったと思う。

 そして今、心も身体も無価値になった。それでも身体を傷だらけにしようとするのは、依存症だけでなくそんな初心を忘れていないからなのかもしれない。スーッとしたあの解放感は、潔癖であることから逃げ出せた証拠。綺麗なままでは、彼女は息苦しい。穢れていた方が、彼女の心に似合っている。

彼女の心は生ゴミ同然で、だから身体は腐っていなければならない。そのためにはもっと腕を切り刻まないとだし、毛細血管の隅までドラッグに浸さなければならない。そんな強迫観念に彼女は追われ、義務を果たせば報酬として快楽を得られる。或いはその快楽は、達成感だったのかもしれない。

 ということは、今のこの身体は賞味期限が切れかけの状態なのだろうか。傷痕は全てダメになってしまうというSOSサインで、今ならば誰かに拾われれば救われるのかもしれない。急いで食べられてしまえば、生ゴミとして捨てられることもないのかもしれない。

 ――けど、誰も拾ってくれないか。

 心はもう、賞味期限どころの話ではない。あまりにも傷を負いすぎて、腐り蠅が集っている。まだ身体がそうなりきっていないだけで、心は既に廃棄処分対象。そんな人間を、誰がサルベージできうるだろうか。

 もっと早い段階、リストカットを始めた高校生の頃ならば、救い切ることは可能だったかもしれない。まだ新たな恋愛に挑戦していた時、相性のいい相手を見つけていれば。それならば、きっと普通の女子高生として立ち直れただろう。

 シャブに手を染めてからは、もう手遅れだ。一般人と薬物依存者との線引きは、ドラッグに手を出したか出していないかだ。リストカット程度ならまだ言い訳が出来るが、こちらは言い逃れが出来ない。ポリにパクられてしまっては、社会復帰すら怪しいし。それ以上に、シャブ中の女なんて重すぎる。

 今の彼女は空腹だけれど、先ほど捨てた生ゴミを拾って食べようとはしない。同様に生ゴミを拾ってくれる人なんて、所詮誰一人として居ないのだ。そう結論付けて、止まらない吐き気が増幅される。けれども吐いた時にアイツの一部が出てきたら死にたくなるから、それだけは絶対にやらなかった。

 ――アイツに抱かれたのは、多分私が腐った生ゴミだからだ。

 酔った際に動いた心を、二日酔いの頭で必死に考える。自分が無価値な人間だと、半ば泣き上戸でドブのような気持ちに陥っていた。そして生ゴミならばいっそ捨ててしまおうと、そんな考えでアイツに泣きついた。嫌いだったはずの、アイツの腕の中に。

 相手は誰でもいい、という訳ではなかった。アイツでなければ、自分を捨てることが出来なかった。生ゴミを道端に捨ててもカラスについばまれるだけで、しっかり収集業者に任せなければ捨てたことにはならない。その辺り、アイツは確かに本職なのかもしれない。

 二度寝しようとベッドにまで戻るが、シーツは濁った白色でどうしようもない有様だった。本当に、嫌気が刺す。こんなストレスで胸を突かれたくなどないのに、酔ったあの彼女は今の彼女になりたかったというのか。多分、なりたかった。

 ただ一つだけはっきりと覚えているのは、アイツに抱かれた時の快感。一般的な悦びではない、薬物に身体を支配された時の刺激に似ていた。最悪であるはずなのに、最高だと錯覚してしまう。アイツとの夜は、まさしくバッドトリップだった。

 最初にカルーアミルクをサーブした時から、アイツに対する嫌悪感を抱いていた。それからも出くわす度に気分は下降したし、今だってアイツのことは嫌いだ。けれども、拒絶をするほどではない。昨晩だって自宅に連れ込んで一緒に飲んだ訳だし、基本的には腐れ縁のような関係だ。

 それくらいの嫌悪感だからこそ、快感に繋がったのかもしれない。嫌だと思う自分に反して、気持ちいいと感じる自分も居る背徳感。このギャップが刺激になって、しかもこれはドラッグのそれと似ている。だから依存性も高くて、多分一か月後くらいにはまたアイツを求めている彼女が居ると思う。

 行為中、アイツは優しかった。アイツに慰められるのは嫌だったのに、アイツの腕の中は温かかった。普段の嫌なアイツとのギャップもあれば、普段のアイツを嫌う彼女の感情とのギャップもある。講義でやったゲインロス効果は、果たしてどっちのことだったか。

 普段から、アイツの口にしているセリフがある。生の感情が意味のない場所へ捨てられてゆくのが、たまらなく好きだと。そして彼女は、そんなアイツの好みにピッタリと合致している。

 彼女はアイツと口付けを交わしているとき、青春に抱いていたあの恋心を捨てている。幾度となく失恋した傷を、アイツに捧げている。それはやはり腐った心で、まさしくアイツの好きな『生ゴミ』だ。しかもその傷は言わば彼女の半生を象徴するモノで、つまり彼女という存在ごと、嫌いなアイツという意味のない場所へ捨てている。

そんな大きなご馳走に、アイツがかぶりつかない訳がない。実際アイツは彼女のリストカット痕を執拗に舐めていたし、そのことに対して彼女は嫌悪感と快感を同時に抱いていた。自分が求められているだとか、そんなことは決して考えていない。仮にそんなことを頭の隅で思っていたとしても、この二日酔いの頭で自覚してしまえば脳が爆発して頭蓋を飛び散らせるだろう。これ以上余計な掃除をするのは嫌だ。

 とりあえずシーツを洗濯機にぶち込んで、マットレスの上から直接横たわって寝ることにする。アイツが片付けを手伝わず逃げてしまったことへの不貞寝では、決してない。抗議ならば直接会った時に蹴ればいいし、今日の夜にあるバイトでそうするつもりだ。いつものカルーアミルクをサーブする際に、頭からかけて飲ませてやるのも良いかもしれない。

しかしアイツの性格を考えてみると、恐らく今日は彼女に会いたくないがためにダイヴへは来ないだろう。本当に腹が立つ、やはりアイツと寝たのは人生における汚点でしかない。そんなアイツのことを好きになるなんてことも決してないと、彼女はそう結論付けて眠りについた。


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