第21話 カタストロフィ
カゴメの歌が滔々と流れると、一拍の錫杖の音と鈴が跳ね返す銀光が一閃、その場にいた六人の目を射抜くと、歌と共に回り続けていたソロモンの星がピタリと止まり、英介の真言(マントラ)が足元の地面から立ち上るかのように響き渡った。
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ…
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ…
後で英介に地蔵菩薩の真言(マントラ)だと聞いたが、その時ばかりは呪縛の禁に触れでもしたのか身体は一向に動かず、あたかも硬直する死体と化したような、それとも地蔵となって印を組み続けているような、朦朧とした意識だけがひたひたと張り付いてくる冷気と、今にも黄泉の淵へと落ちていきそうな自分の身体とを見ていた。その朦朧とした意識が突如戦慄に打たれたのは、現実に有り得ぬものを目の当たりにしたからである。
足下の地面に底知れぬ闇の入口が開いたのだ。根の国への通路、その通路を死を告げる人型の闇がぶすぶすと黒い炎を上げながら上ってくるのである。
ああ…それはどうみても幽鬼としか思われぬ。
怨念を黒い炎に変えて忽然と闇の底から現れたのだ。その数を数えること六体。星の内角に出来た亀甲紋の六つの角にぴたりと立った。これで内と外に二つの星ができたわけだが、カゴメの歌で現れたのが幽鬼であるなら、幽鬼は何を招こうというのか?鳥はこれから出るというのか?どこに隠れているのか?
幽鬼の出現に思考が二転三転すると、はたと気づいたことがあった。
六体の幽鬼とは言い伝えの七人みさきなのだと。
最後の一人、七人目を待っているのに違いない。
七人目が現れたら何が起こるというのか。
誰かに尋ねたいが身体も動かなければ、生憎口も開かない。声を出せたら出せたですべてが水の泡になりかねない恐怖もある。
悠里は眼球だけを動かして英介を見た。
すると英介はじっと正面を見据えている。悠里の対面に見える美帆の顔は白蝋のごとく蒼白で、横に並んだ望月さんもまた日焼けあとが消えて死者のように白い。梨佳子は事の成り行きを見届けようとしているのか見開いた目で一点を凝視している。晴栄さんの姿こそよく見えないが印に祈りを捧げている様子。
じりじりと、遅々たる時間さえもが幽界(かくれよ)に消え去り、何ひとつ起こらないと思われたとき、社から一体の小さな幽鬼が現れた。
ひっ、と小さな悲鳴を上げた梨佳子の目はさらに大きく開かれた。背後の気配を感じ取ったのか、社の奥からゆるゆると梨佳子に近づく闇があった。
それは何であろう。
悠里の目には地震の時に揺れだした地蔵の一体に見えた。
背後からただならぬ冷気が近づいている。梨佳子は声にならない悲鳴を何度も上げた。その息遣いすら感じられのである。自然と歯の根が合わなくなった。身体全体がぶるぶると震えだす。受け入れるしかないと決意してても梨佳子の生命は死の恐怖に怯えていた。未知なるものへの恐れ。そして拒絶。その未知なるものを知るために自分はここに居るのだ。そう言葉で思い続けても何の効力もない。
梨佳子は正面にいる英介を見た。英介は梨佳子を真っ直ぐに見つめている。その眼差しがとても近くに感じた。見返すと見えない視線の管の中を明晰な何かが流れてくる。不思議に心が落ち着いていく。
えいちゃん…とまたあの声がどこからか聞こえた。
親しく信頼している誰かの声であろうか?自分が幻想の中に生み出した自己暗示であろうか?声はこう続けた。
― だいじょうぶよ…
大丈夫よ。梨佳子。
自分でそう自分に言い聞かせるとすぐに、突然背後からぬるりと自分の身体に入り込んで来るものがあった。
これは一体なんであろう?…
晴栄は懸命に祈りを捧げていた。
梨佳子の背後に現れたものが七人みさきの七番目なのだ。佳奈美さんが招き、悔やみ、恐れ、命を賭けて梨佳子を守ろうとしたその相手なのだ。今にも梨佳子に取り憑いてさらって行きそうで、指が折れんばかりに印に力が入った。
― 生も死も我が事ながら我がものではない。縁(えにし)の大きな手で運ばれている。恨むことなかれ。執着することなかれ。佳奈美さん。梨佳子をお救いくだされ。
晴栄は老いた自分を捧げることも厭わなかった。…
水蛭子が常世へ渡り着いたと信じたいが、現世(うつしよ)と常世(とこよ)の間には何と多くのものが潜んでいることだろう。
英介の脳裏をよぎったのは日常に隠れている、そして何処ともなく消えている喜怒哀楽こもごもの感情であり、例え常世という目的を達してさえもそこに至るまでに舐めた艱難辛苦の経験と深層に累積された負の感情は消えることなく、かつて幽界(かくれよ)と呼ばれた世界に隠れているのではないかという想像だった。
それは潜在意識の水面下で脈打つ、形のない原初の力そのものなのかもしれない。
考えようによっては無限を相手とした数学者たちの戦いにも似ていないことはない。無限の数を数学者はπ記号や分数、あるいは√で表し無限を封じてきた。それらの記号は相手を変えれば呪術の品々であり、呪術の方法こそが方程式としての解なのである。
ここに集まった六人も、また七人みさきも、意識の幽界に置かれた式神のようなもの。だとしたら、あとは音と呪が解を見出さんことを願うばかりだ。
そんな思いが思考中枢を疾走していた時。
大気を引き裂くくぐもった悲鳴とともに梨佳子から恐怖の念が伝わってきた。梨佳子の背後に現れた幽鬼が、今まさに梨佳子の体の中へと入っていくのが見えた。
その時。
― ひとつにしちゃあいかん!相手が違う!
切羽詰った祖母の声が英介に届いた。
見開いた英介の目に梨佳子に入り込んだ幽鬼の姿が見えた。梨佳子を足をつかみ地の底へと引きずり込もうとしている姿が。
― 助けて!助けて!
梨佳子の足は膝ほどまで消えている。
― 唱えてください!校内で唱えたセーマン・ドーマンです!
英介の声無き声が張り詰めた空間を震わした。
我に返った梨佳子は一語一語に力を込めて一心に唱え始めた。すると闇は体の中でざわざわと枝葉のように揺れたかと思うと不意に静まり返った。喉元を撫でるようにして何かが出て行くのがわかった。見下ろした先に小さな闇がいる。闇は亀甲紋の中心へ向かって進んでいく。
あれは黒松の下にいた子供ではないのか。
尋ねたい衝動に駆られると英介の声がそっと届いた。
― 訊いてはいけません。常世へと送り出しましょう。
子供は幽鬼の間をすり抜けると鎮座するように屈んだ。
― 急々如律令…
再びカゴメの輪が回り出し、童の歌が辺り中に満ちた。
それは集まってきた地蔵尊の歌であったかもしれない。
地蔵菩薩が子供等の手を引いて現れたのかもしれない。
歌は星を回し、不思議な安らぎが辺りに満ちた。大きな手の中にいるような。大きな懐に抱かれるような。
そこにいた六人の誰もが童心に帰っていった。
凪の浜浪が寄せては返し、寄せては返し、現世の塵垢を洗い落としている。砂が歌い、風が舞った。
頭上からぼんやりと明かりが射した。闇が晴れて月が見えたのかと思っていると、明かりはゆるゆると地上へと降りてくる。その姿は…
― お母さん。
梨佳子の心臓は早鐘のように鳴り響く。左右から母の名を呼ぶ父と祖母の声が聞こえた。
母が闇の後ろに立ったときちょうどカゴメの歌が終わった。
「後ろの正面だあれ?」
闇が立ち上がり後ろを振り返ると、大気に溶け出していく闇の中から奇妙な形をした三日月が現れた。
「あれは勾玉です。」と英介は言った。
手にした母が勾玉を抱きしめると少しずつ宇宙へと昇りはじめる。そして同じように体の輪郭が一筋の燐となって空中にたなびくと母もまた勾玉になっていく。そして二つは一つになった。
「潮が満ちたのです。古来月は母なる大地のヒナでした。潮満珠(しおみつだま)となって月の霊力となるのでしょう。明日は新月です。」
英介の言葉が終わらぬうちに六体の幽鬼は風に舞う塵となってどこぞとも知れぬ場所へと去っていった。
開けた頭上に雲はなく満天の星が瞬いている。
木々の間を縫って町の明かりも見える。
緊張の疲労を伴った体が呪縛から解放されると四人が駆け寄った。悠里は英介に近づくと尋ねた。
「終わったのか。」
「いいや。終わることはない。人の潜在意識に刻み込まれたこの土地の記憶、いわば物語の記憶だからな。国生み神話における日本という島々は神々にとって生きた子供ではないか。日本ならではの遺伝的な呪術を受け継いでいるのだよ。豊かになる都市とは反対に寂れて消えていく里もある。きらびやかな電力の背後でゆうに数百年以上の汚染を封じる結界が必要な時代だ。光と闇の相反する現実がさらに身近になって魑魅魍魎の跋扈する姿が情報社会の中に紛れ込んでいる。それこそ闇のように人を翻弄しつつ感情を煽っている。幽界の容量から溢れ出すものがあったとしても不思議ではない。現実の背後に隠れているもの。意識の背後に蓄えられた無意識。情報の裏に潜む悪意。それらは神話のコードの中で伝えられてきたこの国の形なのかもしれないな。」
英介は町とは反対の暗い海を見ていた。
「えいちゃん。」と梨佳子は無意識で声をかけた。それは夢現で聞いた子供の声、それとも親愛の情から出た言葉だったのか梨佳子にもわからない。が、英介の遠い記憶の中で密やかな囁き声となって木霊した。
「あれっ。なんだろう?わたし変なこと言っちゃった。ごめんなさい。」
梨佳子は深々と頭を下げた後、「ありがとうごさいました。」と言った。祖母の晴栄いまだ手を合わせている。「助かりました。」と英介を見つめ、父も美帆もお辞儀をした。
そのとき…
― ようやったな。だがお前の中の結び目はまだほどけておらん。平らな心だよ。平らなこころ…
…そう祖母の声は言った。
英介には本当のことが始まるよ、との警告にも思えた。
我に返ると目の前の梨佳子がじっと英介を見ている。
ふと今の声が梨佳子にも聞こえていたような気になった。
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