第20話 カゴメカゴメ

 しばらく揺れていた地震が治まっても、暗い街並みに明かりが灯ることもなければ、人が出てくる気配もない。

それなりに大きかったのに…

「どうして誰もいないの?」

訝しがる梨佳子の腕を美帆が引く。

「ほら、行くよリカ!あれ見て!」

海からはミサキサマが押し寄せてくる。

坂は?あの影は?

坂を見上げても何もない。

梨佳子の背を戦慄が駆け上った。すぐ近くにいるような気がしたからだ。

「しっかりしてよリカ!夢でも現実でもどうでもいい。もう迷わない!行きましょ!一緒に変えなくちゃ。」

「そうね」

夜にもかかわらず夕立前に似たむっとする大気が海から近づいてくる。梨佳子はズキズキと疼くこめかみを押さえ再び走り出した。

それにしても浜通りから一向に先へと進んだ感がない。

「変な臭い。魚の腐ったような臭いがする。」

「まるで汚染された海ね。」

そう言い放った自分の言葉で梨佳子はふと思い出したことがあった。海をきれいにするのは川であり、山に生える木々の豊かさだと聞いたことである。町ではゴミ処理場の計画が持ち上がっている。ゴミ問題は日々の深刻な問題でもある。クリーンな焼却施設にしても、埋め立てにしても、大気や地下水、それに雨や川よってともすれば下水道にも似た排路の働きによって海へと運ばれていく。汚染は地上だけではない。下手をすれば負の遺産になる。

海の底に蓄積する汚染をミサキサマが運んで来ているのではないか。そんな突拍子もない思いが梨佳子の脳裏に浮かんで来ては離れなくなった。

「変だよ。浜通りから進んでいないよ。」

ふっ、と我に返った梨佳子が目線を上げると、そこは同じ浜通り。もうとっくに過ぎていなくてはならないはず。

「私たちずっと走ってない。」

確かにそうなのである。

「通りも変わってない。」

夜という訳だけでもなさそう。

忸怩とした焦りが体全体をフル稼働させているのに、呼吸の乱れは思ったほどには感じない。

やはりこれは夢なのであろうか。

空を見上げても月の姿はない。月ばかりではない。星も姿を消した暗黒の空だけが見える。雲すら見えない。

まさか今夜が朔(暗月)?このぼんやりとしている明かりはどこから来ているのだろう?

梨佳子は目をそらし続けていた海を見やった。するとミサキサマの向こうに漁火とはまた違った、例えるならば極光にもにた光の帯が天の川のように横たわっているのが見える。その不可思議な美しさに、空が海に落ちてきたのではないかと梨佳子は思った。

そのとき…空中から声が聞こえた。


―  あれは、あの光は海底で息づく地脈の光です。常世(とこよ)と現世(うつしよ)を隔てている海こそが黄泉にふさわしい。さあそこの辻を左へ家へ向かってください。


この声は…

聞き覚えのある声が闇を震わして伝わってくる。この声は知っている。言葉の意味を尋ねようとしたとき小さな子供の声で「えいちゃん」と聞こえた。ということはやはり声は神岡英介のものなのだ。

それにしても今の子供の声は…誰?


―  早く。そこを曲がって。


「左へ曲がるよ。美帆。」

「えっ。町へ戻っちゃうよ。」

「いいから。坂を下って来たものに惑わされているみたい。」

そうでしょ?と心の中で尋ねた。


―  そうだ。家のある場所に石土神社がある。信じて。


「美帆、信じて!」

辻を曲がって走り出すとすぐに、時間が動き出し、今度こそ変化していく風景が実感として感じられた。と同時に呼吸が止まるほど苦しくなった。

両足が重くて持ち上がらない。

「なにが起こったの?もう足が上がんないよ。」

美帆が泣き言を言った。きつくなった身体が現実を告げている。

この道で間違いない。

自らを奮い立たせる意味も込めて梨佳子は美帆を励ました。

「もうすぐよ。頑張ろう!」

「そうだね。」


 放心状態で空を見上げる英介の前で悠里は戸惑っていた。声をかけるにはあまりにも異様な様子に躊躇したのだ。地震は去ったというのにそれ以上のものが起こり始めているとでも言うのだろうか?

光源もないのに足下の地蔵尊の影が集まりだしている。影は社殿へ向かって伸びている。

どこからから空耳が聞こえ来た。

「神岡くん。」

今度ははっきりとした声が境内から聞こえた。

社殿の脇へと飛び出すと境内に入ってくる梨佳子の父と祖母の晴栄の姿が見えた。

「こっちです。」と悠里は叫んでいた。

その悠里の肩をぽんと叩いた者がいる。振り返ると英介が立っていた。

「お前。」「さあ境内に集まろう。」

四人が境内に集まると粘り気がある空気の塊が空から降りてきて辺りを包み込んだ。

「梨佳子は来ていないのですか。もうとっくに来ているとばかり思っていたのに。」

「望月さん。心配いりません。もうすぐ着きますよ。それよりもこれからのことが重要です。ここは役行者のゆかりの神社です。なにかはわかりませんが大きな手が僕たちを招いていたようです。ここには六人の人間が集まりました。」

「六人。梨佳子を含めて五人では。」

「ところがそうでもないのです。梨佳子さんと一緒に美帆さんもここへ来るでしょう。」

「ええっ、美帆ちゃんも。それはまた。」

晴栄はそう言うなり神社に向かって手を合わせた。

「六といえば出雲大社や厳島神社の亀甲模様です。厳島神社では三つ配置する型ですが、この亀甲紋は六角形。古来西洋においても六『ヘクサド』は結婚や調和、形の中の形とか魂の作り手として完成物と思われていました。亀甲模様を内角と考えればこの内角を作る図形が二つの三角形であることがわかります」

英介は上向きと下向きの三角形を交差させた図を地面に描いた。

「亀甲模様の外に突き出た角、そして上なるものと下なるものの調和が描くのはソロモンの星です。不思議なことに日本にも形は違えども星の内角に生じる亀甲紋で魔除け封じができる。今から行おうとするカゴメの呪法がそれです。」

「カゴメの呪法?」悠里が言葉をくり返した。

「そうだ。社殿に日本神話の神の三神ばかりか水蛭子の名も記されていた。水蛭子。形のない骨無し子が形あるもののへの負の感情、憎悪や怨念に駆られぬように供養したのだと思う。なぜこの地にそんなものがあるかは僕にもわかりません。ただ神話が国生みであるように火山国である日本の活火山の火口から海へと流れ去ったもの、形を持たないまま流れ去ったものが海溝の中に潜んで息づいているとしたら。それらへの畏敬の現れなのかもしれません。現世うつしよ常世とこよの間には深い海溝がある。

かごめかごめはジェンダーとしての男女の営みを暗喩しているとともに、海溝を渡るための呪法でもある。カゴメの中にいるのは鳥だが、鳥といえば生まれたてをヒナと呼ぶ。流し雛や雛祭りなどの行事を見ればヒナとは幼児期の子供に対しても用いられている。とすればカゴメの中の鳥はヒナのことであり、それは胎児を指していると考えられる。

古来子宮を子袋こぶくろと呼び、母親を御袋(おふくろ)と呼んだと祖母に聞いたことがあります。

梨佳子さんの母親は母親であるがゆえにそこに潜む何かを気づいたのではないでしょうか?

水蛭子は葦船に乗せて流されたという。海溝に沈むことなく常世(とこよ)へと流れ着いたと僕は信じたい。」

「ほんに佳奈美さんが招いてくれたんだのう。」

晴栄が感慨深げにぽつりとこぼした。

その時石段の下から重複する喘ぎ声が聞こえた。

「父さん。」

境内の四人が一斉に石段を見やると梨佳子の上半身が、そして美帆の顔が後ろに見えた。

「どうして私たちより早いの。」

梨佳子と美帆は息を切らしながら鳥居をくぐった。

いいですか…と英介は再び語りだした。

「『トリスタンとイゾルデ』に『愛の死』がありますが、思うに死を定義するときに性愛を省くことはできない。愛と死は同義語であり、同じ意味において胎児と死者は輪っかの両端なのです。

今からここにいる六人で亀甲紋を描きます。

梨佳子さんは社殿の入口に立ってください。僕は鳥居の位置に立ちます。梨佳子さんと僕の間を三等分にした平行線が走っていると考えてください。では望月さんは梨佳子さんの右手の二つ目の線、僕に近い側に。お祖母ちゃんは左手に。悠里は僕から見て右手の位置で梨佳子さんから一つ目の線。その反対側に美帆さん。そうその位置です。これで上下、表裏の合わさった星が生まれました。」

月も星もなく、見渡す限りに明かりもなく。暗い闇の繭に包まれたかのように思われる中、境内だけはほんのりと明るく、お互いの姿がはっきりとわかった。

ここに至って誰も声を上げず英介の次の言葉を待っていた。

「あいにくここには呪符もなにもありません。ただ子供の頃に祖母から教えてもらった印を二つ知っています。不動明王の印と地蔵菩薩の印です。大地の母胎を現す地蔵菩薩の印がかごめの呪法にふさわしいと考えます。」

手を合わせて指を交差しながら両中指だけを立てた。立てた中指がピリピリと電気を帯びたように感じたがそれは気の迷いででもあっただろうか…

悠里が見た英介は目を瞑って何事かに集中している。出会って二年を過ぎたが、英介には未だにわからないものがある。

そういえば出会いもまた奇妙だったな…などと思っていると厳かな声を上げて英介が口を開いた。

幽界かくれよに隠れし神々よ。その御子よ。我らにお姿を告げよ。急々如律令…カゴメの歌にてお招き申す。」

ばあちゃん。これでいいのか…


―  上出来じゃよ。あとは佳奈美さんが…


英介には亡くなった祖母の声が耳元で生きているように聞こえるのが不思議でならなかったが、今はその声だけが頼りだった。

境内にいる六人が六人とも子供に帰ったかに見えた。子供たちの動きに合わせて星がぐるりと回り始めるとどこからともなく歌が流れ出した。


カゴメ カゴメ

籠の中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀がすべった

後ろの正面だあれ?

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