第19話 悪夢と異界が交差するとき

…梨佳子…

母の呼ぶ声が聴こえる。あたりは闇に包まれて息苦しい。とても息苦しい。身体の身動きすらままならない。

…梨佳子…

ぐいっと口を塞がれて抱え込まれた。

あの晩だ。あの晩の夢だ。とすればこの腕は父になる。母は私に別れを告げるために捜していたことを今では知っている。同じ過ちをしてはならない。

両足を思いっきり伸ばしてジタバタさせた。すると盆栽台の足を蹴ってしまったのであろう。盆栽鉢の一つが石の上に落ちた。静寂の中に響き渡る砕ける音に心臓が飛び上がった。驚いて見開いた目に映ったのは母の脚。するすると視線を上げていくと果たしてそこに母の顔はなかった。あったのは目鼻立ちもない闇の淀み。のっぺりと隆起した粘土のようであり、細かに蠢くさまは泥水のようでもあり、梨佳子は呆然として声すら出なかった。

私は何を見ているのだろう?

淀みの一箇所が膨らみ出すと粘り気のある泡がぽんと弾け、同時に声が生まれた。声は言った。

「梨佳子。」と。

なんということだろう。その声はまぎれもない母の声。痴呆のように見つめていると、闇の粘土がぐしゃりと押しつぶされ、その中心から滑らかな渦が巻き始めるとすぐに、髪が風に煽られたかのように逆立ち、いつか映画で見たメドーサの蛇の髪が眼前に蘇り重なって見えた。ゆっくりと母だったものが近づいてくる。それとも私が近づいているのか?渦はどんどんと大きくなり、その底は一段と深く沈んでいくように感じる。その時。

「目を覚ませ。梨佳子。そいつは母さんじゃない。」

母屋から現れたのは父と晴明桔梗の提灯を手にした晴栄。私を掴まえていたのは見知らめ二人の子供…その一人と目があった。いいや目と呼べるものではない。しかし子供には顔がありその面影に僅かな記憶があった。

「孝明くん。」と声をかけると子供は「りかこねえちゃん。」と呼びかけてきた。

やっぱり孝明くん。とすればもう一人は智洋くんだろうか。

「何してる梨佳子。逃げろ!」

父の声に振り返ると顔が、あの渦の顔が胸元で私を口惜しそうに見ているのである。つんざく悲鳴が夜を切り裂いたが、自分が上げたものとも思えない。

晴栄が提灯で空中に護符を描きながらひふみの祓詞」を、続けて十種神宝御名を唱えた。

その時ようやく射竦められて固まった身体が自由になった。金縛りから立ち上がると前屈で覗き込んてきた化物が姿を変え始めていた。夜の闇の中を更に際立った墨色の霧となって立ち上る一方で、灰と化した身体が地面へ崩れ落ちていく。

「石土神社だよ。あそこには佳奈美さんの思いが残っている。役行者さまの結界がお前を守ってくれる。さあ行くんだよ。」そう叫びながら晴栄は提灯を振り続けている。

「神岡くんたちもそこへ向かったはずだ。彼ならきっとお前を守ってくれる。」

「父さんも一緒に来て!」

「それが出られない。こいつらが消えれば出られるだろうが、消えたら必ずお前の後を追う。心配するな。」

「早くお逃げ!」

「わかった。待ってるから。」

「神社できっと会える。心配するな!」

梨佳子が門から飛び出そうとしたとき、空気を震わして四方から声がした。

「おねえちゃん。」

黒松のところに何かがいる。無意識に振り向くと見知らぬ男の子の影。男の子は化けた母と同じように身体はあるが顔はない。顔があった場所からは黒い液体が流れ、上半身を血糊のように染め上げている。おぼつかない足取りで両手を差し出すともう一度「おねえちゃん。」と言った。

思わず全身が総毛立った。母屋では晴栄が再び詞を唱え始めた。一刻も早く離れなければ。梨佳子は真っ直ぐ前を向き直すと、更けていく夜の通りを石土神社へ向かって一目散に走り出した。


「俺たちってさ。一旦戻ったよな。」

「もちろんだ。何が聞きたい。」

「その後のことだよ。どうしてまたここにいる。思い出せないんだよ」

「時間を思い出せないのか?それとも場所か?」

「そのどっちもだよ。」

悠里は足元の砂地に吐き捨てるように言った。

上り坂は石土神社へと続いている。

「それは問題じゃあない。今の時刻にここにいる。それこそが重要なんだ。」

「だったらこれだけは教えてくれ。この今は昼の続きなのか?夢の続きなのか?なんでまた石土神社へ向かっている。それにまたも夜中だ。」

「入試の時、俺はなんでここいる。なんで今日が受験日なんだ。なんていうか?ことは簡単だ。問題を良く読み、後は解くだけだよ。」

「俺たち二人だけで解ける問題じゃないだろう。」

「心配するな!みんな来る。俺たちは呼ばれたんだ。」

「誰に?」

「人間の負のエネルギー。そのエネルギーに取り付いて、生まれようとする者、それを阻止しようとする者、そうした思いが土地と心理をシンクロさせたのさ。お前も聞いただろう。」

「何を?」

「おっと。あの時にいなかったユーリというわけか。」

何を言ってるんだ?…

不意に英介が九字の呪法をひいて一喝。すると悠里は脳みそを揺すられるような目眩に襲われた。記憶の底でフラッシュバックした映像が次々に流れ、そして止まった……


「梨佳子さんは一人っ子でしたか?亡くされた兄弟はいませんでしたか?」英介はそう訊いていた。

帰宅途中の路上でのことである。はっとした表情を浮かべた梨佳子の父が低い声でこう言った。

「梨佳子にはこれまで話してきませんでした。責任を感じてしまうのが怖かった。佳奈美そのことがあってから信心深く変わってしまったからです。神岡さんの推察の通り梨佳子が二歳の時、一度ひどい熱を出したことがありました。佳奈美が病院へ連れて行ったのですが、梨佳子を抱えて走っていたとき事故が起こりました。よほど慌てていたのでしょう。転倒してしまったのです。その時、佳奈美は流産してしまった。」


悠里の眼の前にあったのは幾体もの地蔵尊。

まるで今にも動き出さんばかりに列を成して並んでいる。

いつ…いつここに着いた?

悠里がいるのは石土神社の裏手である。

これではいつか読んだ『夢十夜(夏目漱石)』の忌まわしい一幕のようではないか…

硬直したまま立っていると英介の声が朗読のように入ってきた。

「日本神話で最初に生まれたのはあはじのほのさわけの島、すなわち淡路島で次に四国から次々に大八島を生み出していくのが国生み神話だ。しかし子に入らないものを二体その前に生んでいる。一人は水蛭子(ひるこ)でもう一人は淡島ということになっている。水蛭子は一般に骨無し子で葦船に入れて流し、淡島は所在不明だ。

なあユーリ、俺はこんなことを思った。

これは神話だが現実に起こったこと、そして今も起こっているメタファーだ、とね。

日本は火山と地震の国だ。洋上の噴火は近年も起きている。島も生まれている。水蒸気爆発ははじけ飛ぶ沸騰した泡のようだ。言ってみればあわの島だ。それに流れ出した溶岩が地形になることなく海に流れ込んでいく様子は足萎えの水蛭子が海へ流されていくようだ。なら水蛭子はどこへ流れていったのだろう?海中、すなわちワダツミの懐中深くで息づいているのではないだろうか?神話で水蛭子が常世へいったように、それを常世送りとして祀ったのが…」

「ここ石土神社というわけか…」

「古代の人々にとって火山活動や地震、それに津波などはそれこそ神の怒りにすら思えたことだろう!ときには招きたくもないものを招いてもお知らせ、すなわち神託を欲したのかもしれない。それがミサキサマの原型ではないだろうか?」

考えても見たまえ。と話しながら英介は海が見える場所へと移動した。

「人間が現実で抱えるストレスのひずみも、活動している火山やプレートが抱えるひずみも共通するものがある。自然のエネルギー放出には善悪はない。天災は恐ろしいものだが、この地が生きていることを実感させられる。しかし人間の心理の中では善悪、言わばエネルギーは正負に分かれてしまう。古来のシャーマンは負を正に変える祭をしたのだろう。そうして天災が人に及ぼす悲劇的な負の感情をも命の創造性へとつなごうとしたのかもしれない。」

「なぜかな?聞いていて天災を察知して集団移動する動物を思い出してしまったよ。」

「近くに大きなプレートがある。」

「ああ、あるな。」

「いまもひずみを少しずつ溜め込みエネルギーを放っている。人もまた、はっきりとしないそうしたエネルギーを無意識に溜め込んでいるのだよ。土地の呪縛の中でね。」

「お前の言わんとしていることが少しわかるような気がする。ただ、それが本当なら…俺たちに策などあるのか?」

「ある。これが自然現象の先触れならなすすべはない。しかし無意識の中の呪縛なら、まだなすべきことはある。ポルターガイストを含め人間の無意識にはとてつもない力が眠っているからな。ここには役行者の結界がある。佳奈美さんもそれを清算しようとしている。」

「清算?」

「自らが招いてしまったという強い念と、梨佳子さんを守ろうとする祈りがここには残っている。」

「どうする?」

「間もなく皆が揃う。そして時がくる。」


梨佳子が暗い坂を下っていると「リカ。」と声をかけられた。

浜通りに出た時のことである。

見ると美帆が歩いている。

「美帆。」と呼びかけると走り寄ってきた。

「リカ。リカなのね。わたしなんでこんなところにいるの。最初は夢だと思ってた。でもこうしてリカもいるし、リカと話もできる。悪夢なの?現実なの?わたし、頭変じゃないよね。」

泣きそうな顔で美帆がそう言った。

梨佳子は思いっきり飛びついて「美帆!」と抱きしめた。

「えっ。なになに。」

「私もそう思ってた。」

父や祖母と違う安堵感や親近感が美帆にはあった。

「ねえ。美帆も一緒に行こう。」「どこへ?」

「石土神社。」「石土神社。あの岬の上の。遠いよ。」

「いいから行こう!」「怖いよ…」

そう言った後美帆は言いよどむと「あれっ。日中も行かなかった。」と顔を上げた。

「美帆もそう思う。」

「うん。確かに行ったよ。」

「そこが問題なの。」

言い終わるとすぐに足下が揺れた。小さな縦揺れの後すぐに横揺れが来た。

「地震!」

いつかの錫杖の音が遠くから響いた。途端におぞましい霊気が忍び寄ってくるのがわかった。

「見て。海からみさき様が上がってくる。」

「リカ。坂よ。何かが来るわ。」

海から目を転じると黒い靄のようなものが漂い下りてくるのが見えた。

二人は交互に海と坂を見返した。

「なにあれ?」海を見た美帆の声が震える。

「ミサキサマよ。急いで。行くよ美帆。」

駆け出した二人の後ろを坂道の影がゆっくりと追いかけ始めた。


「英介!地震か?」

両足で踏ん張りながら悠里はあたりを見回した。

社殿が揺れ、木々がざわざわと震えだすと、並んだ地蔵ががたがたと一斉に動き出した。

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