第18話 石土神社
「実はわたし運転大好きなので!」
そう言って男女四人を乗せた車は勢いよく発進した。
急発進に驚いた梨佳子が美帆にやんわりと注意すると「ゴメン!靴のせいよ!」と美帆は答え、その後は仮免ドライバーほどの安全運転となった。
車は町へ下りてぐるりと一周すると、祭りの終点豊国八幡へと向かったが、美帆は風光明媚なデートスポットの名を繰り返した。昨日の怖れはどこへやら、今日という日を満喫しようとしているように見える。
「ねえ、わたしの運転大丈夫?」
そう訊いたのは美帆である。
「上手だよ!どうかした?」
梨佳子が聞き返すと「え…ううん。」と浮かない様子。そしてルームミラーをちらちら見ている。
どうやら浮かない顔で窓の外を見ている悠里のことが気になるらしい。言われてみれば英介もまた外を見ながら考え事をしている。一晩の間に何があったのだろう?梨佳子は昨晩のことを思い起こした。二人と家族がいる安心からか夢も見ずに眠ったことぐらいである。
もしかしたら悪夢でも見たのだろうか?と英介の顔色を窺いたかったが、生憎英介は真後ろのシートだった。
そうこうしているうちに豊国八幡が見えてきた。
その社殿を見上げながら英介が口を開いた。
「八幡神社というのは日本の神社の三分の一ほどを占めるらしい。大変な数だ。応神天皇を祀っているとはいえその正体はよく分かっていないという。それにいざなぎ流を汲んでいるとなると物部村に残る陰陽道呪術ということになる。土俗的な民俗信仰とはいえ神道と陰陽道、それに七人みさきとその奥に隠れる何ものか?見えそうで見えないそのからくり、いや、やはり土俗的な神話ということになるな…その中に人々の不安や畏れ、予知や夢、そして深層心理を形作るものが眠っている…」
悠里は英介の言葉を遮るように手をを上げた。
「お前には答えが解ったのか?霊(かみ)返りの神事もあすあすだ。もう時間はない。それに朝から嫌な感じがする。」
そう受け答える悠里の言葉に梨佳子の身が引き締まった。
「思い出さないのか?お前も一緒に見たはずだ。今日はそのことを確かめる。」
「何を見たって?」
「夢の道だ。おいおい思い出すはずだ。」
英介の視線は社殿を離れ、町の方角、海上を足早に渡る雲へと移ったように見えた。
「何かあったのですか?」と梨佳子が訊ねた。
「どうやら、わかったらしいんですよ。でもその事を言おうとしない…」
「えっ、わかったって!ミサキサマの正体ですか?」
「なになに!謎が解けたの?」
梨佳子に続き、美帆もまた声を上げた。二人の目は驚きに見開かれ、待ち望んだ瞬間に立ち会えた喜びに満ちている。
それにしては当の二人の様子にはさらに晴れないものを感じる。不思議に思った梨佳子と美帆が立て続けに訊いた。
「どうすればいいんですか。」
「ミサキサマは止められるんでしょ。」
「なぁ英介。説明しろよ。」
悠里すら呆れた声を上げる。
振り返った英介が渋々と言葉を落とした。
「パズルだったらピースが揃えば終わりだ。でもこれは違う。現象の仕組みが理解できたとしても台風や地震を避けることはできない。それと似ている。」
問題は…と英介は続けた。
「問題は音だよ。
大学校内で陰陽道のバン、ウン、タラク、キリク、アクを試したことがあったろう。この五字、金剛界五如来の種字は呪符を宙に描く動作と一緒にセーマン・ドーマンとして使用される。神事に使われる「ひふみの祓詞」も「十種神宝御名」も、それに「ヒフミの神歌」などはどこから来たのだろうね。言葉の最初の音(おん)はどこから来たのだろう?聖書にも「初めに言葉がおり、言葉は神とともにおり、言葉は神であった(ヨハネ1:1)」と書かれているが、古代日本人もまた言葉に宿る神秘の呪力を崇めてきた。言葉は音としての響きと図形としての字形を持つ。形は目に見える姿で空間に現れ、音(おん)はその波長とともに時間の中に波打つ。世界という現象もまた音と字から始まったのかもしれない。陰陽道とは考えようによっては音の妙なる働きであり、すなわち言霊の力だよ。鎮めるために必要なものは揃うかもしれない。ただしそれらをどう編集して応用すればいいのか、それが今の自分には不透明だ。」
「自信がないのか?」
「そう言われればその通りかな。」
「あのさ。考え過ぎなんだよ。どうせここにいる俺たちで対処しなくてはいけないんだろう?なら教えてくれよ。みんなでアイデアを出そう。試してみよう。」
「その前に確かめなくてはならないものがある。きっとそれが最後のピースになる。岬にある石土(いわづち)神社へ行こう。」
「そこに何がある?」
「悠里。お前も見た答えだ。日本神話の中にある負のエネルギーと言ってもいい。神話とは自然現象のコードだ。良いも悪いもない。受け入れる器、人間の中で分かれる。」
四人を乗せた車は今度は坂を下り、浜通りを海に沿って走ると松林へ続く空き地に駐車した。
松林を抜けながら坂を登り始めると、梨佳子は見知った感覚に妙なときめきを感じ始めた。
それとも胸騒ぎだろうか。
登るごとに強くなる兆しに身体まで固く締め付けられるようで呼吸も荒くなってくる。昔に来たことがあるという思いと交差して、つい昨日も来たことがあるような感覚がほどけないかた結びで結われた紐のように、あるいは母体とつなぐへその緒のように梨佳子自身と何かを結びつけている。
間違いない。ここには来たことがある。
それもつい昨日。この感覚は…なに?
「ここへは梨佳子さんのお母さんが来ていたのです。」
「えっ。」英介の突然の言葉に梨佳子の心臓は飛び上がった。
「いえね。梨佳子さんも夢で見たことがあるじゃないですか?どうです。思い出しませんか?僕は夢で佳奈美さんが石土神社の境内で祓詞を唱えているのを何度も見ました。その意味がわからなかった。何かを呪っているようでもあり、何かを祈っているようでもあり、これまで口にすることはできませんでしたが、いまはわかります。願っていたのです。」
ひと振りの剣(つるぎ)が固く結ばれたほどけずの紐を断ち切った。梨佳子の中のモヤモヤとした雲に切れ間が見えた。
「そうです。そうです。」梨佳子は夢の欠落を思い出した。
「ミサキサマの使いが上陸してくる暗い夜に…母さんはこの上にいました。」
梨佳子の両肩が小刻みに震えだした。
「どうしたの?梨佳子。」
「なぜだろう?母さんが上で待っているような気がする…」
一方で悠里もまた何かを思い出していた。
ここへは来たことがある…
暗い夜道を…英介もいたな…あれは夢か?
界隈とか何とか言ってたな…
記憶の錯誤、催眠、言葉の暗示。あの嫌な臭い…あれは。
時間が止まった絵画のように美しい世界。そこは…
はっ、と悠里はめくるめく意識の疾走を感じた。
これまでの記憶の場面がひとつの綴り糸に綴じられていくような感覚。
現実とはその時間その時間の人間の営みと土地の姿、そして人間の思考や思い出によって成り立っている。
夢も同じだ。
それらはともすれば時間の分厚い本だ。そして現実が記される1頁1頁なら、夢はめくるように頁を走る。時には記されてない頁にまで。歴史の層にも心理の層にも多くの人間の一頁がいずこともなく刷り込まれ隠されているのだ。それはきっと絵画のように残されている。
共同幻想のような。集合無意識のような…そんな頁が、いやいや、それこそ夢なのだ。
パラパラと頁がめくられ、夢が悠里の脳裏を走り去った。
皮膚をなぞる海風に悠里の身体はすっと寒くなった。
夏の日差しが坂道を斑に染め上げると、木々の間を縫って潮の香りが吹き抜けてきた。
「
先を歩いていた英介が後ろを振り返った。
目の前には朱く彩られた鳥居があった。その朱色は悠里の意識の底でシグナルを点滅させた。
昨夜見た神社よりは心なしか幾分小さく感じる。
英介は開かれた社の奥へと入っていくと、棚に祀られているものをじっと見ていった。
「これをお前も見ただろう?」
それはそこにあった。
「ヒルコと読める…ここはヒルコを祀っているのか?」
悠里の大きな声がお堂の中で木霊した。
『あめつちのはじめ たかまのはらになりませるかみのなは あめのみなかぬしのかみ つぎにたかむすひのかみ つぎにかみむすひのかみ このみはしらのかみは みなひとりがみとなりまして みをかくしたまいき 古事記 別天つ神五柱より』
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