第17話 魂鎮めの神事

祖母サトの言葉が空から降り、頭上には満月が見えた。

今は新月に向かっているはずなのに…


―  昔から月は通路なのさ。お前が来ないと友達も出られないよ。


悠里のことを思うと身体がすっと上昇した。

町が、浜が、岬が、海が、いびつな箱に収まっているのが見えた。町が暗黒の中に浮かんでいる。

箱庭療法か…英介はさらに上昇した。

月明かりは反射光。

現実と夢をつなぐ道。

ずしりと重力を感じると英介は目を覚ました。

窓の傍に悠里が立っている。もう目を覚ましているようだ。

「おはよう。」と声をかけると上の空の返事である。

「どうした。」と訊くと「疲れたよ。」と言う。

「何故かな。うまく言えないけど、俺たちどこかへ行ってなかったか…いやぁ、夢かもしれないけど。」

「覚えているのか?」「それが全然。もやっとそんな記憶が残っているだよね。」

お前か、という表情で悠里が振り返った。

「なら夢だな。」事も無げに英介は言った。


「いいなあリカは。先輩(悠里)とひとつ屋根の下で。」

姉の車で乗り付けた美帆が車を降りるなり梨佳子に走り寄ると、さえずりのような一声を上げたのは神事の二日前のことだった。昨日の不安などはもうどこにもない。それとも強がりだろうか。普段と変わらない美帆に梨佳子は微笑んだ。

「シーッ。聞こえるよ。美帆ったら、なに言ってるの。」

「だって実家でひとつ屋根の下だよ。妄想しちゃうよ。夢も見ちゃうかも。リカは見なかった?」

にっと破顔した梨佳子が「見たよ。」とすんなり言ったこともあり、美帆は目を丸くして驚き、ことの続きを催促した。

「いろいろとさ。わかったことがあったんだ。母さんのことも、それに神岡さんのことも。」「神岡さん?変人さんのこと。リカ、興味あるの?」「どうかな?そんなんじゃないと思うよ。ただね、最初会った時からさ。なんか気になって、なんだろうって思ってたわけ。」「なんだったの?」「母さん。」「母さんって、リカのお母さん?」「そう。でもそれ以上はまだ言えない。」

「先輩でなくてよかった。」大きなため息混じりに出た言葉は、言葉通りの意味だったのか、それとも梨佳子が言った母さんの一言に何らかの事情を察して気遣いが働いたのか、美帆の口から出た言葉は「二人とも遅いね。」だった。

その二人は晴栄に話を聞いていた。


 神事のあらましとはこうである。

四年に一度の神事は八月の朔の日、陰暦の八月一日に行われる。

町を下った先にある浜から人に見立てた神木、一本ごとに人形(ひとがた)の御幣(ごへい)、つまり償物あがものの呪物をはりつけた七本の神木を船に似せた山車に乗せ、男衆、男衆といっても呪禁師の装束を羽織った者たちが船を曳き、往来の晴明桔梗の模様の入った提灯の間を抜けて行く。

抜けてと言ってもぐるりと町をひと回り、すなわちお触れまわりした上で町から山へ、山の麓にある豊国八幡を目指して進んでいく。古くは神事の名残を濃く残していたが今では祀り(祭り)だけが主となり、山車と山車の間には各々の町内会などが踊り手を出して、うたを流して祝いながら神木を運ぶ行事になった。神事では道々にイザナギ流の流れをくんだ太夫に扮する者がいて「使いが来たぞ」との合図に合わせて二拍手の後「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ」と「ひふみの祓詞」を唱え、最期の山車が過ぎた後には「澳津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま道反玉ちがえしのたま死反玉まかるがえしのたま蛇比礼へびのひれ蜂比礼はちのひれ品物比礼くさぐさのもののひれ、布瑠部由良由良止布瑠部(ふるべゆらゆらとふるべ)」と「十種神宝御名(とくさのかんだからのおんみな)」を唱え二拍手で見送っていたが、いまでは祝詞も唱えず形式だけのものとなった。そもそも道に通じた太夫もいなくなったこともある。その後、七本の神木は豊国八幡で陰陽道の疫神祭(えきじんさい)、四角四堺祭でみさき様の鬼気を鎮めた上で祀ることによって、鬼気を神気に変えて、みさき様の呪を吉言に変えたということである。


そうさなあ…道々の祝詞がまるで潮騒のようで、幾灯もの晴明桔梗が人魂のようで、そりゃあ不思議な気分になったもんさ。かみ反りの神事はこちらとあちらがつながる行事。清められたみさき様は神意を伝える霊となって返ってくる。美しさと不安。陶酔と恐れとが一体になったような不思議な祭りだよ…


「ずいぶんと伝統のある神事なのですね。」

話を聞いていた悠里がぽつりと言った。

「伝統などというおおげさなものではないよ。元はといえば生きるために魂鎮めが必要だったのさ。人も、この土地も海も、災厄から守り守られるためにね。」

信仰心は時に人を強くし、時に心を平静に保つものの、理解のできないことや不可思議な現象、特に異界から魂を守るために生み出したものの約束事としての結界だったのかもしれない。

晴栄の懐かしそうな目と、きちんと正座したたたずまいから、悠里は言葉の奥に秘められた経験をのぞき見したようで、我が事ながらしばらく帰郷していない御蔵家の事情に思いを馳せた。

「聞きたいのですが、坂を降りた先を岬に向かって登りきった先に小さな神社がありますね。あれは何を祀っているのですか?」

横からそう聞いたのは英介だった。

石土いわづち神社かい。石土毘古神いわづちひこのかみを祀っているはずだよ。」

「石土毘古神というと、確かいざなぎの神といざなみの神の御子ですね。」

「そうそう。よくご存知だね。神社も役の行者(役小角)が石鎚山に開いた石鎚神社が本宮で、もとを正せばこの地を訪れた行者が海から来るものを鎮めるためにおいたといわれている。」

「七人みさきは長宗我部元親にはじまる怨霊譚ときいていますが、ならばどうして梨佳子さんの母親は石土神社へ訪れていたのでしょうか?」

「うん…佳奈美。梨佳子に聞いたのかい。いや、梨佳子も知らんはず…」

急に話している声が遠くなった。英介の意識は遠い空へと引き上げられた。

…まただ…

 石土神社の前に佳奈美が立っていた。沖を見つめながら盛んに手を振り、何事か叫んでいるのが上空から見えたが、足下から雲が次々に湧き上がり視界をさえぎると、今度は川のように流れて先程まで見えていた佳奈美の姿も神社も消し去っていった。代わりに悠里の声がこだまのように返って来た。自分に変わって晴栄に答えている様子。

妙なことに占い師でもないのによく当たるんです…などと言い訳がましく答えている悠里の言葉尻が聞こえた。

「そうかい。そりゃあ神さまがついているんだ。やっぱり佳奈美さんが呼んだのかね。」

祖母がまじまじと英介を見つめていると玄関先から梨佳子の声がした。

「お祖母ちゃん。」

「ほらほら私の話が終わらなくなっているんじゃないかと心配のようだ。話の続きは帰ってきてからでもしようかね」

晴栄と連れ立って玄関へ向かうと梨佳子と美帆がまっていた。美帆にいたってはどこやらしゃちこばった態度で「おはようございます。」と声を上げた。


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