第16話 悪夢界の二人 その二
「この空気。誰かの呼吸、いや肺の中にでもいるようだ。そうは思わないか?」
「まあ夢の世界は夢を見る者の呼吸の世界でもあるからな。」
「じゃあ何か、お前の呼吸というわけか?ならこの坂をずっと下って黙々と歩き続けるわけか。」
「そうなるが、そうはならない。歩いているのは夢の道だ。距離も時間感覚も異なる。それにビックリすることが待ってるはずだ。」
英介は街灯の下でにやりと笑った。
「余裕だな、英介。悪夢でもそう言い切れるのは一度見た夢だからか?」
「今日は特別だよ。連れがいるからな。」
「なるほど、そういうことか。俺をダシにする気だな。まあいい。それにしてもここがお前の夢だとしたら、なんとも克明な夢を見るものだな。」
「はたしてここは夢かな?それとも多次元?ほらあの点滅する街灯。あれは夢の中だけのものだろうか?現実にも存在しているのだろうか?存在しているとすれば多次元かもしれない。この町に来たのは今日が始めてだ。そこでこんなことを思う。夢か多次元が確かめるために点滅する街灯が現実にあるかどうか確かめてみよう。とね。」
「当然だな。俺もそう思った。」
「しかしだ。目が覚めるとその問いも決意もすっかり忘れている。」
「なら夢だな。」
そう言うなり、悠里は立ち止まってあたりをキョロキョロと見回した。
「ところでいつの間にこんなところまで降りてきたんだ?」
町の中心部が近づいてくると、奇妙な感覚が悠里の意識を捉えて離さなかった。
夜だからだろうか?坂だからだろうか?
歩くというよりも滑り降りるような速さで坂を下っている。
さっきの街灯はずいぶん後ろで危険を知らせるシグナルを発していた。もはや望月家の黒松はない。
初めての町はときに感覚を化かすものだ。
ここに至るまでの早回しされた時間と、その時間に追いつくこともできない愚鈍なほどに遅い意識、そしてここでこうして奇妙な感覚を浴びている自分とがぼんやりとしてとらえどころがない。
やはり夢か?
英介に声をかけようとするも言葉が声帯に伝わらない。
幾つもの街灯の下を通り過ぎ、何度か角を曲がっているうちに人通りのない往来が黒い川に思えてきた。英介は少し先を躊躇することなく進んでいくが、その様子ときたら見知った町を歩いている風でもある。先程までの、と言ってもいつの時刻だったのか?英介に饒舌さはない。
とうとう我慢できず声をかけようとしたときだった。つんと潮の香りが鼻を突いた。気づくと通りの向こうにのっぺりとした黒く重い重油の海が見えた。
「見ろ海だ。底知れぬ暗黒の淵のようだ。」
十字路を右に折れた向こうに夜空よりも暗い海があった。
ふーっと一息つくと、声が出ることに悠里は気づいた。
「この静けさにやられたようだ。」
目の前を歩いていた英介が立ち止まった。
「なるほど。いつしか俺たちは界隈を過ぎていたんだ。」
「かいわい?」
「そうだ。界隈の界だ。世界の界。結界の界。日本の土地と島々は界隈の集まりで出来ている。」
悠里が「なんのことだ?」と問いただした途端英介が鋭い声を上げた。
「来るぞ!ユーリ。どうやら別な界隈に迷い込んだらしい。」
「界隈ってなんだ。何が来るというんだ。」
「しっ。自分を見失うなよ。それに俺のことも見失うな。このまま戻っても同じ場所の同じ家に戻れるとは限らない。ここはミサキサマの界隈だ!」
英介の脇に詰め寄ったとき、悠里は押し寄せてくる黒々とした海を見た。
膨れ上がり、また萎む海は、呼吸する生き物に見えた。その海がひどく嫌な臭いを発して浜へと上がってくる。浜から道を上ってくる。
英介は立ち止まったまま動こうともしない。
「どうした?」と悠里が聞くと「待っている。」と英介は答えた。「何を。」と聞き返すと「つづきを。」と答える。
「あれは…あの登ってくるのはなんだ。」「すぐにわかる。」
坂道を黒く埋め尽くして来るものに街灯の明かりがなびくとその本体が見えた。
あれは…ミサキサマ?
「まさか、死者の群れ。」
パニックが羽音を立てて飛び回った。
海と思っていたものが大挙して押し寄せる死者の群れだろうとは…
「気にするな。俺の夢に参加していると思えばいい。そして自分を見失わないことだ。このつづきが重要なんだ。」
坂道を上ってくる死者たちは、昔からこの土地に刷り込まれた妄執とでも言うのだろうか…
ぶくぶくと空中で弾けるあぶくの音は空耳か…
ぬらりと冷たいものが右腕をかすめて通り過ぎた。
ぴしゃりと左肩に何かがぶつかった。
その瞬間、飛散する腐敗臭が鼻をつき、氷水に浸かったような寒さを全身に覚えた。体中の皮膚が総毛立ち、そのおぞましさに度を越した緊張が汗となって吹き出した。
英介はじっとして動かない。その英介の背を斜め後ろから悠里が凝視している。決して見失うまいと。
死者たちが間近を通り過ぎる。岩を避ける流れのように通り過ぎている。声も出ない。
ぼんやりとした空は、まるで水中から見上げる水面のように歪んでいた。
もしかとたらここは水中ではなかろうか?
本当のところ死者たちは海そのもので自分は沈んでいるのではなかろうか?
そう思えると実際に水中にいるようでなんとも息苦しい。鼓動が早く打ち始めた。呼吸を整えようとするも空気が入らない。鼓動はさらに大きくなった。
溺れる、と思った瞬間、英介の手が腕をつかむとぐいっと引いた。
「大丈夫か。見ろ。狐火が見える。」
呼吸は戻ったが、視線が定まらない。視界がぐらぐらと揺れている。
「あそこだ。見えるか?」
浜通りの道をゆらりゆらりと揺れながら進むものが目に止まった。狐火?
「あれを待ってた。ついていこう。ここを抜けるぞ。」
狐火の後ろにひらひらと尾びれのようなものが見える。
あれは人ではないのか…
死者の波はなくなっていた。坂を見上げると、その先にざわざわと蠢く死者たちがいた。どこへ向かうというのか?
悠里は英介を振り返った。
するとすでに浜通りを歩いている。
狐火は前方をゆらりゆらりと進んでいく。
しばらくすると道は海から遠ざかり、右手に道を拒むような大きな岬が現れた。細い小道が松林の中へと続いている。狐火はその小道を先へ先へと先導していく。黄泉へでも下るのかと思っていると、岩場に打ち付ける波の音を聞きながら、右へ左へくねくねと上り坂を上っていく。そもそもこここそが黄泉めぐりだったのか?などと白濁した意識がぼんやりと現れ、見失うまいと目を凝らそうとすると視界が左右に揺れている。いやいや。坂道の斜面に林立する松林が揺れているのである。そう思って松林を見上げたとき、頭上に燦々と輝く天の川が見えた。戦慄するほどの美しさ。
「着いたぞ。」
英介の一言に正面を見るとそこには鳥居があった。鳥居の奥に鎮座する小さな社に向かって狐火は真っ直ぐに進んでいく。閉じられた扉の奥へすっと消え去ると、社が音を立てて燃え上がる映像がフラッシュバックのように悠里の網膜に焼け付き、辺りは再び静寂と闇に包まれた。
目の前で社の扉が開くと出てきたのは英介である。
「さあ、帰ろう。」ぽつりと英介が言った。
「これは現実か?それとも夢か?」
悪夢の船酔いからしばし解放された悠里が口を開いた。
「お前の好きな方でいいよ。」
「だったら…現実じゃないよな。この社は現実か?」
「ここは梨佳子さんのお母さん、佳奈美さんが来ていた場所だよ。」
「何か見つかったのか?」
「俺たちが追っていたものは日本神話の中にいた。」
…梨佳子…
どこかで声が聞こえたように思えた。
「美しいまでの悪夢はこの地にとり憑いた夢なのかもしれないな。」
振り返った松林の梢がゆらりと動いたが、あれは風であったろうか。
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