第15話 悪夢界の二人 その一

 日中今にも雨が降りそうだった雲も夜になって晴れたのだろうか?障子から射し込んでくる明かりは月明かりなのか、それとも街灯の明かりなのか、静かな夜半の部屋はほんのりと明るい。

「ぜひお泊りくだされ。」

祖母の晴栄の一言で、英介たちは来る前に目星をつけていたホテルではなく望月家に泊まることになった。

再度タクシーを呼んで美帆を送っていったのは悠里である。

英介にしてみれば望月家に泊まることに心苦しいものがあった。ここに来れば現実の土地や風景と、夢の暗示とが呼応し合ってその原因がわかるものと思っていたからだ。

それがわからない。

いわば複合汚染なのである。

英介は寝息にまぎらせて吐息を上げた。

「眠れないのか。」静けさを破って悠里が声を上げた。

「そういうお前もか。」

「ああ。でもなんだろうな。俺にはまだちっともわからない。いったい何を相手にしているんだろうな。事件だったら事件を起こした犯人や原因を特定できれはおおよその結果が見えてくる。伝説の七人みさきは七人が一緒に行動するというだけで、次々に乗り換えられたとしてもその活動はバトンリレーのようなものだ。そうじゃないか。第一走者から第二走者へ、そして第三走者へ。でもな、バトン競争ならゴールがあるが、今回のようなタイプはどうなのだろう?それに、怨念にゴールなどあるのだろうか?」

「そうだな。もっともな意見だ。」とその声は納得したようでもありながら、浮かない抑揚で英介は返事した。

「どうした。違うのか。」

「さっきおばあさんが言ってただろう。みさきはそのまま縁としての岬であって、水先であったり、御先であったりするって。それにほら地震の夜、浜の方から上ってくる何かがあったって。虫の知らせと言っていたけど、あれは足音だったんじゃないかな。海よりの使者。俺や梨佳子さんが夢で見たものだ。それはミサキでももう七人みさきのことではない。別なもの…何かのヘリとしての岬だよ。」

「そうだな。下調べしてきた七人みさきではないな。こいつは海から来るんだから海の中に本体はいるんだろうな。」

「海の中に…いるだって?」

英介はむくりと起き上がった。夢で見た海の底に潜むもののことが脳裏をよぎったのだ。

「海から来るということは海にいるんだろう?亡くなった者たちが。」悠里も起き上がった。

「そうじゃない。この地のミサキサマはひっくるめてのミサキなんだ。知らせなんだよ。死を運ぶ怨霊としてのミサキもあれば天災や事故の前触れとしてのミサキもある。佳奈美さんもまた自分自身がミサキとして《知らせ》を持ってきていたとしたら…その理由はどこにある?佳奈美さんの背後にあるものは、たぶん佳奈美さん自身の中にもあるものだ。」

「それはなんだよ。」

「それがわかればいいんだが。海の中にいるものと、佳奈美さん中にあるものとが理由はわからないが共鳴しているといえはしないだろうか?それに…」

「それに?」

「俺が考えている通りだとしたら、その共鳴や共時性はすごく日本的なものだ。確実な理由などというものはないのかもしれない。」

「ミサキ現象に理由はないというのか?なら解決できないことになってしまう。」

「そう解決できないものがひそんでいるんだ。偶発性のようなものと言ってもいいだろう。ミサキ様が運んでくる《知らせ》は《死なせ》に変化する。言霊だよ。ミサキもシラセも言霊のように一人歩きしている。地理的な風土と、心理的な記憶の風土との間に言霊的な変換が起きているような気がしてならない。」

「なら食い止められないのか?」

少しの沈黙の後、英介は悠里にこう提案した。

「なあ、これから夜の散歩といかないか。」

「散歩。どこへ?」

「佳奈美さんがお参りしていたという神社だよ。」

「こんな夜更けに?冗談だろう。岬までは遠いぞ。」

そう言いながら悠里は英介の考えを探った。

「ここから一時間ほどらしい。行きたくないならそれでもいい。」「岬にある神社か…」「そうだ。」


 幸いに眠れないでいたのは梨佳子の父も同じだったのだろう。居間に明かりがあった。覗くと祖母の晴栄もいる。

声を掛けようとした悠里の腕を英介が引き止めた。その目がつやつやとしたガラス細工のようで生きているように見えない。顎がくいっと動くと小声で「見ろよ」とひと言った。

梨佳子はいなかったがさっきまでと変わらない普通の風景。その普通の風景がどこやら変だ。

すぐにその理由がわかった。二人ともピクリとも動かないのである。微動だにしない。それにしんと静まり返って音がない。音がないというよりもまったくの無音状態。蛍光灯の明かりさえもどこやら変で空中で止まっているように見える。これは…ハタと気づくことがあった。

「時間が止まっているのか?」思わず悠里から声が漏れた。

その声を前にしても一切合切が音もなく動きもない。

「さあ、行こう。」「行こうったって、これは…」

「いいんだ。行くぞ。」

気づいた時には玄関を出た先、すでに門の外にいた。

見上げると空を覆っていた雲はどこにもなかった。澄み切った夜空にひときわ大きく夏の大三角が輝き、天の川の流れる音さえ聞こえてきそうな静けさの中を、街灯と夜光灯はぽつりぽつりと散在しながら坂を下って海へと続いている。

動く光もなければ、走る車の音も聞こえてこない。世界から人などいなくなってしまったような静けさの中、滑らかな湿度を含んだ風が身体全体をひたりと包み、そして過ぎてゆく。

風?これは風だろうか?

まるで空気が誰かの吐息にも思われる奇妙さに戸惑いながら悠里は隣にいる英介を確認した。

「どうなってる?まるで別世界だぞ。」

「俺の夢の世界かもしれないし、別な誰かの夢の世界かもしれない。とにかくここは異界だ。」

「異界ってお前…」

「そうだな。やっぱり俺の夢の中にしておこう。そうでもしないとお前は納得しない。」

「いや。単純に納得できない。お前の夢だったら、空を飛べるとでもいうのか?」

「もちろん飛べる。」「まさか?」

「だがお前は飛べない。思考と肉体がべったりとくっついているからな。だからと言って俺を飛ばすなよ。お前が夢から落っこちる。」「はぁ、なんだよそれ。何が起きてる?」

「ほら神事のことを訊いたときに言ってただろう。

『霊(かみ)反りの日に向かって月の霊力は失われていく。まして月もなくなった夜半にはいたるところから隙魔(隙間)が入りこむ。このあたりの丑三つ時とはこちらとあちらの境界がなくなろうとする時刻を指している。そう子供時分からよく聞かされたものです』

あれだよ。新月に向かって月は小さくなる。月読の力が失われ読まれないものが姿を現す。さあ、急ごう。」

二人は往来へと歩み出た。

「はじめての夜を経験しているようだ。」

「絵画にも似た美しさだ。都会では考えられない。」

「絵画ね。都会の夜も美しいが質が違うな。お前の夢でもいいよ。」悠里は立ち止まって深呼吸した。

その様子に驚きは感じられない。それというのも子供の頃の奇妙な体験のせいか?案外自分と似ているところがあるのに違いない。そう英介は思った。

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