第14話 遠い夏の日に

神岡英介さんと言いましたね。こうしてあなたを見ると亡くなった連れを思い出します…

そんな思いもかけない言葉から話を始めた父に、梨佳子は心底驚いていた。

「なにね。目の奥に何かを秘めているような感じがどことなく似ているのです。娘が大学で神岡さんに出会ったのも何かの縁かもしれません。佳奈美はずっと梨佳子のことを思い続けながら亡くなりましたから。佳奈美が神岡さんに出会わせてくれたのでしょう。」

そう話す父の言葉で、梨佳子ははじめて神岡英介を見たときに生じた小さな波紋の理由を理解した。

どこというわけではないが母に似ているのだ。たぶん向けられる眼差しが。何かを秘めたようなその深い眼差しが。

そんな記憶は幼少の頃、小学校へ上がってまもなくのことである。

無骨な父がひと目でそのことに気づいたことが何故か悲しかった。私よりもずっと長く、そしてずっと深く母のことを見てきたのだと思うと、娘の手前隠してきた寂しさや悲しさが思い出されて仕方がなかった。父の話に耳を傾ける英介の目をそっと覗き込むと、梨佳子は忘れかけるほど遠くなった母の目を思い出した。記憶が再現されていくような幻想に心が満たされはじめた頃、突然外から警報が聞こえてきた。突き上げるような衝動とともに家がぐらりと動く。「地震」と梨佳子は声を上げた。しばらく不気味な律動が内臓を突き上げたかと思うと次第に小刻みに揺れが続いた。すぐにテレビにはテロップが流れ、チャンネルを替えると地震のニュースが読み上げられたところだった。

「おおこわい。こわい。」

「これは余震ですかね。」

悠里が祖母の言葉に反応するかのように口を開いた。

「多分余震でしょうね。何年も続くと言われていますから。ただ、そう言われてそう思っているだけかもしれません。素人にはよくわかりません。この頃騒がれているのは南海トラフです。巨大地震と聞いただけであの日の震災の記憶と、先行きの不安に怯える者も多いのです。町の地域災害課が設置した警報器が今では五つもあって、鳴り出すと年寄りですらびっくりします。あれは心臓にいけません。赤子も泣き出す始末ですからね。」

震度三のニュース画面を見ていると外から数人の話し声が聞こえてきた。低い声ながら地震の話をしている様子がわかる。震災の恐怖の爪あとがたとえ年を経たとしてもトラウマとなって深く心に刻まれたに違いない。梨佳子がテレビのボリュームを低くすると同時に父が再び語りだした。

「梨佳子を遠い東京の大学へ行かせたことも、元はといえば佳奈美の遠くへ行かせたいという思いでした。その目で何を見ていたのか、今になってもわからないが、この町から、というよりもミサキ様の因縁から梨佳子を遠ざけたかったのでしょう。佳奈美が亡くなった年も地震があったが、遡ること三年前、梨佳子が五歳の頃のこと、亮善(町)の孝雄が海で亡くなった。梨佳子と同い年の息子をおいて亡くなったわけだが、孝雄は佳奈美のいとこだった…」

…知っている、という思いが梨佳子の記憶を投網のように手繰り寄せた。小さい頃のぼんやりとした記憶とは呼べないような思い出の中に、兄弟のように近くにいた男の子。名前はたかちゃん。孝弘だったか、孝明だったか、今では思い出せない。母のところへよく来ていた記憶だけが、今も変わらない庭石と、床の間の柱と、簾から溢れる日差しの中にフラッシュバックのようにひらめく。琥珀色の時間の中に沈んでいく梨佳子の耳に聞こえるのは父の声…更けていく夜の中で失われていた時間がつながり始めていた…


釣りに出ていた孝雄が海で亡くなった時、天気もよく波はとても静かだった。

「みさき様だ。孝雄がみさき様に引きずり込まれた。」

そう叫びながら入港してくる漁船に、港にいた人々は騒然となった。

「みさき様だって!」誰かが声をかけた。

「そうだ。みさき様が船に上がってきた。代わりの人間を捜していたんだろう。奇怪な姿で漂ってきた。そして船に上がってきた。」

「それでどうした。」

「孝雄は海へ消えていった。」

孝雄の知り合いの漁師と、一緒に海釣りに出かけた友人が、それこそガタガタと震えながら船を降りてくると、矢継ぎ早に質問が飛び交った。

「孝雄は浮かんでこなかった。」

命からがらに逃げ帰った二人はその時の恐ろしさをまざまざと語りだしたが、誰も信じようとする者はいなかった。信じていたら遺体の捜索に船を出すことなどとてもできなかったにちがいない。海で亡くなった水死者が、ぶよぶよと皮膚が破け肉が溶け出した死体となって、海から船へと上がってくるなどと信じられるものではない。すぐさま捜索隊が出港し、返って来た二人は病院へと向かった。

その後漁師がしばらくの間海を捨てて陸に上がり、孝雄の友人が海に近づかなくなるのに理由はいらなかった。捜索隊が四時間ほどで戻ってきたとき、はたして遺体が今日数時間前に亡くなったと言えるのかどうか、遺体に見られる痕跡は想像を絶し、その惨状は十日以上海を漂流していたかのような腐敗と、腐敗ガスで膨張して肉塊と化しているのがすぐに分かった。地元警察が動き出したが、当日釣りに向かう孝雄は多くの人に目撃されており、裏では公然とみさき様の仕業であることが町中に知れ渡ることになった。孝雄の奥さんはショックから寝込み、そのまま入院することになったが、付き添ったのが佳奈美だった。

「今考えると佳奈美はその後のことを心配していたのだろう。本当のミサキ様なら、孝雄の縁者にとり憑くだろうからな。いや、すでに分かっていたのかもしれん。笑うことが少なくなったのもその頃からだったと思う。神社やお寺へ出かけては、御札や写経などもするようになっていた。息子が梨佳子と同い年ということもあって、孝雄の嫁の美枝さんは退院後この家によく来ていた。」

その息子が五歳になる前。

かみ反りの神事のある夏の日に二人の子供が亡くなった。梨佳子の幼馴染の遊佐智洋と孝雄の一人息子の孝明。

遊佐智洋はほんの一瞬母親が目を話した隙に浜から姿が消え、捜索願もむなしく、翌日魚と一緒に網にかかった。それは単純な事故だった可能性もあるが今では分からない。一方の孝明は違う。独り遊んでいたリビングで海水を吐きながら溺れ死んだのだ。父親の孝雄がミサキ様の一人となり息子を迎えに来た、という噂がまことしやかに町を伝わり、霊(かみ)反りの神事に捧げられた供物は倍の数になった。

佳奈美はさらに過敏なって神社を巡るようになった。

「お前の心配はわかるが、もっと梨佳子の面倒を見て…」

言い終わる前に佳奈美が絞り出すような声を上げた。

「あなたには分からない。わからないのよ。ミサキ様は終わっていない。梨佳子を守れるのならどんな神にでもすがるわ。私が身代わりになってもいい。どうせなら梨佳子と一緒に遠くで暮らしてもいい。そうよ。あの子はここを離れるべきよ。」

そう言い終わると佳奈美は顔を覆って泣き出した。

そしてあの日のこと…

それからまた四年も過ぎる頃、同じ霊(かみ)反りの神事の年の夏のことだ。

「お前も記憶しているだろう梨佳子。地震があった夜のことだ。震度五の地震で一晩停電が続いた日。佳奈美はおかしくなった。」


梨佳子は何度も見る悪夢を思い出した。

暗闇の中、坂を上ってくる水死者の群れと自分の名前を呼び続ける母の声、そして父の腕の中で耳を塞がれたこと。

「お前が寝静まった頃、佳奈美がミサキ様が来ると言い出してまもなくのことだった。突き上げるような衝動の後、激しい横揺れが来た。あいつは祝詞のような奇妙な言葉を繰り返し、私は梨佳子の部屋へと急いだ。突然照明が消え、お前の泣き声が聞こえたがすぐに行くことはできなかった。ベッドの下へもぐれとだけ叫んだ。一分にも満たない時間がとても長かった。家具が動き、床が斜めになっているようだった。ようやくお前を抱きしめた時には揺れが少しおさまりかけていた。その時、佳奈美の呼ぶ声がした。その声を聞いたとき私は何故か震え上がった。佳奈美がおかしくなってしまったように感じた。お前と一緒に庭へ出て石の影に隠れた。お前の耳を塞いで母さんのことも忘れてじっとしていたよ。」

父が言いよどんでいると祖母が話を継いだ。

「あれは佳奈美さんの悲痛な決意だったんだよ。お前にも聞こえていたんだろう。梨佳子を頼むと言ってたじゃないか。」

祖母は梨佳子に向き直って語りだした。

「あたしのもとに佳奈美さんが来たんだよ。梨佳子の身代わりに私が鎮めると言ってね。何を鎮めるんだい、と私は訊いたよ。するとミサキ様が来ているという。最後にひと目梨佳子を見たかったのだろう。命を絞るような声だった。そのまま浜へ向かって行ってしまった。死因は事故になっているが、きっと自分の身を捧げて梨佳子を守ろうとしたにちがいない。」

父の嗚咽がもれた。

「梨佳子、すまん。変わっていく佳奈美がこわかった。佳奈美と一緒にお前まで別な世界へ連れて行かれそうで、わけがわからなくなっていた。町中が暗闇の中、遠くから梨佳子をお願いよ、という声が聞こえてきたとき、私は本当に自分が情けなかった。そんな自分が恥ずかしくてこれまでお前に本当のことを語れなかった。それがあの夏の日に起きたことだ。」

夜夜を幾夜も通り過ぎた現実の出来事が、春からの悪夢とシンクロし合うと巨大な波となって梨佳子に押し寄せ、母の存在のわだかまりを押し流していった。残ったのはただただ静けさばかりで、深く憂いを秘めた母の瞳が何事かを伝えているようだった。

「梨佳子!」と呼ぶ母の声に目を開いたとき…

わたしは見た…

座り込んだわたしと同じぐらいの背丈の真っ黒な影を…

あれは決して母などではなかった…

あれは、あの黒い影は…


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