第12話 瀬戸口美帆のねじれた時間
「見事な黒松だ。」英介が感慨深げに見上げている。
「ここが私の家。」
松の形も夢で見ていたのかしら、と訝りながら、道すがら語る英介の話を思い出してふっと途方にくれた。
春からのたった三ヶ月がもう数年もたったような気分なのである。梨佳子はため息混じりに空を見上げた。
「梅雨はあけたと思ったのにな。」
家々が邪魔をして海こそ見えないが、下っていく道の先の空模様が一段と暗くなっていた。
「今晩は雨が来そうですね。」
そう漏らす英介の脇で、悠里はヒビの入った御影石に目を止めた。
「これはもしかして震災の影響ですか?」
1995年1月17日火曜日午前5時46分。
あの阪神・淡路大震災のことは今もはっきりと覚えている。体の細胞の一つ一つが今も記憶を手放せないでいると感じるほどに、心臓の音も、父や、祖母の叫び声も、泣き喚く近隣の人の声や、停電に断水、孤立し断絶してしまった不安や恐怖、深い闇を忘れるはずもない。
「家も石も、この庭も、私が生まれるときに建て替えたそうです。だから父がそのままにしておきたいと残したようです。」
その時、ぽつりと英介が独り言をもらした。
「地震の痕跡か…」
そのひと言に梨佳子は軽い目眩にも似たデジャブを覚えた。いつかこの言葉を経験したことがある。
それともこれから体験することになるのだろうか。
玄関に入ると廊下奥から祖母の声が聞こえた。
どうやら無意識で玄関に入っていたらしい。
顔をほころばせた祖母が居間から顔を出した。
「おかえり。梨佳子。」
そして後ろに控える二人の男を見ると「お前のナイトかい?」と言った。
「えっ、何言ってんの。」と慌てる梨佳子の後ろで英介が「あはは。」と笑った。初めて聞いた笑い声だったが、急に家に受け入れられたような安堵感が梨佳子の全身を包んでいた。
その少し前のこと、美帆の身辺では奇妙なことが起きていた。それはまだタクシーで走っている最中に始まった。
ドライバーに行先を告げると、美帆は沈黙したまま四ヶ月ぶりの故郷の風景に見入っていた。変わるはずもない風景が延々と続くなか、古びたままで、町の時間が止まっているかのような感慨に襲われているときだった。
ふいに声がした。
「はい?」とその声は聞こえた。
美帆が顔を上げるとルームミラー越しにドライバーと目があった。
「はい?」とドライバーは繰り返した。
「えっ。」と返事すると、「何かおっしゃりませんでしたか?」と言う。「いいえ。」と答えた後、自分の右側にぼんやりと影のようなものが見えた。ハッとして振り返っても何かがあるわけではない。それでも…視線を逸らすと何かが映る。
それは人のような白い影。影はじっと隣のシートに沈んでいる。見るといない。そらすとやはり何かが映る。
美帆は少しばかり気味が悪くなった。
「あのう…メールしてもいいですか?」とさりげなくドライバーに声をかけた。ドライバーはひと言「どうぞ」とだけ返事した。
ラインの相手はもちろん梨佳子である。
漣の立つ胸騒ぎのようなものを伝えたかった。それにもう少し一緒の方が良かったと思い始めていた。
どうしてる?
…夢の話…
変わったことは?
…別に…
もう着いたの?
…もう少し…
なんだよ!リカったら。
これじゃあ無視もいいとこじゃない。
携帯を睨んで、あのさ…と入力した時だった。
「はい。着きました。」声と共に車が止まった。
外を見ると見知らぬ場所。
「蓮花荘です。」とドライバーは言った。
「わたし、そんなこと言ってませんよ。西洗井二丁目の…」
住所を答えながら美帆は蓮花荘のレンゲという言葉に引っかかっていた。記憶がある。あれは…誰だったか?
「死者を送る花でしょ。その名前に呼ばれちゃったのよ。センセイ…」先生?って…
ありありとその訳に気づいたとき、隣のドアが大きな音を立ててバタンと閉まった。
「きゃっ!」と美帆が小さな声を上げると「あれっ。何だろう。開けたつもりはないけどな…」とドライバーも音に肝を潰しながら言い訳をした。
そもそも蓮花荘とは中学の時に亡くなった鑓水紀郎先生が暮らしていたアパートなのである。いまだ健在のアパートなのだ。そっと窓から覗き見ると、ゾッとするほど冷たいものが美帆の背中を撫でていった。
「あのう、すみません。戻ってもらえますか?」
震える声で美帆はそう伝えた。
望月家の居間へと上がろうとしたとき梨佳子は手にしていた携帯を開いた。そして驚いた顔で「美帆がこれから来るって。」と言った。
「あら、美帆ちゃんから。これから来るって?一緒に帰ってきたんじゃないの?」
話しかける祖母を尻目に梨佳子は不安げに英介を見た。
その表情に気づいた悠里が英介の返事を促そうとでもするように名を呼んだ。
「英介…」
「何か…あったようですね」
英介がポツリと漏らすと、引き継ぐように年寄りがぼそっと言った。
「なあ、梨佳子。今年の神事はお前を呼ぶかもしれん。」
「えっ、なに?どういうこと?」
年寄りはうつむいたまま「どれ麦茶でも出そうかね。」と部屋を出て行った。
美帆は英介に教えてもらったオマジナイの言葉を口の中で何度も噛み締めた。まだ日中よ。と窓の外を見るとあいにくの陰鬱な空がさらに厚みを増して、海の向こうから得体の知れない気配となって忍び寄って来るのを感じた。
こんな気分は初めてのことである。タクシーの中にいても空気が張り付いてくる感覚がある。それにまだ白い影の冷気が車内に残っているようでもある。
ヤバイ!ヤバイ!ヤバイ!
その時車体がドンと何かに突き当たり、一瞬、空気の壁を通り抜けるような失速感があった。美帆はびっくりしてドライバーを見たが平然と運転している。
どうしたの?いまの衝撃は?
記憶の底からゆっくりと鑓水先生の声が蘇ってくる。
そう言えば先生は妙に信心深いところがあった。
…張り詰めた雲が海の上にあったら気をつけることだ。海の中にいるものにとって鏡となる時がある。雲に誘い出されて海面に出てくると、戻る時に誰かを連れて行くことがあるからな。海からは生も死も上がってくる…
タクシーの窓に白いものが映っている。ぼんやりとだがテニスウェアらしきものに見える。
センセイ…
ゾッとした途端、身体が動かなくなった。
影は徐々に近づいてくる。見ちゃいけないと思っても、何やら赤茶けた顔が美帆を覗き込んでくる。
いよいよ後が無くなりかけたとき「黒松ですよ。このあたりでよろしいですか?」とドライバーの声がした。
視界がはっきりすると梨佳子の家の黒松が見えた。
急いで精算を済ませた美帆は、梨佳子がいるだろう玄関へと飛び込んて行った。
「リカ!リカ!」
その大きな声に驚いたのか年寄りがひょいと顔を出した。
「あれっ。美帆ちゃんかい。一緒じゃなかったの?」
その一言に美帆の記憶がすっ飛んだ。
梨佳子は帰っているはずでは…
次の言葉をつなげずにいると表から人の声がした。
足音が玄関に近づくと「ただいま」と途中まで言いかけた声が、声高に「美帆!」と叫んだ。
「帰ってたんじゃなかったの?」
「美帆こそ。帰ったんじゃなかったの?」
「途中、ライン入れたよ。返事もくれたじゃない。」
「えっ、知らないわよ。」
訝しげに見つめ合う二人の向こうから「おやおや。まずは中に入ったらどうだい。」と年寄りが笑って言った。
そして無言で立ちすくむ二人の男性を見ると「お前のナイトかい?」と言った。
「えっ、何言ってんの。」と慌てる梨佳子の後ろで英介が「あはは。」と笑った。
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