第11話 夢で見た坂道を下って
八月が開けたその日に英介と悠里は梨佳子たちと一緒に機上の人となった。変化といえば梨佳子は三ヶ月間働いたバイトを七月いっぱいで辞めたことと、七月の初めからは美帆と話し合って一緒に住んでいること。
梨佳子が父に事情を告げるとさすがに驚いてはいたが、美帆と一緒ということでどこやら安堵した様子がある。しかし身の回りで起きている事情に対してはしつこいほど尋ねてくる。理由を訊いても心配するなというばかりで何も語ろうとしない。その語ろうとしないところに母の存在を感じたが、梨佳子はそれ以上問い詰めることはしなかった。ただ帰郷することを伝えときには、ゼミの先輩を二人連れて行くことをさりげなく伝えたが、父はどう思っただろう?
電話口で言葉に詰まった後、穏やかな返事で「連れてといで。」とだけ答えてはくれたのだが。
梨佳子の中に一抹の迷いと不安がなかったといえば嘘になる。しかし今の梨佳子にとって神岡英介は夜を照らすスイッチのようなものなのだ。
その後のアレはというと。
「心のつながりというものはときに結界の役目を果たすものだよ。」
そういう神岡英介の言葉の通り、無くなりはしないが、自分の身に降りかかって来るというよりも、身の回り、それもある程度の距離を取って現れている。それは警報のように梨佳子の不安を脅かすことには違いないが、セーマン・ドーマンの護符や呪法が自分を守ってくれるものと今では信じている。
「これじゃあ、修験女子になってしまうよ。」と美帆はこぼしていたが、何の脈絡のない出来事にも言霊を唱えるようになってしまった。それからというもの呪符や呪法ばかりか音楽も部屋に動員している。八月の神事後までは止めるつもりはないようである。
機内から見る海岸線は日本という島の身体を見ているようで、不思議な美しさと、国の息遣いが起伏に富んだ地形から感じられた。それに、こうして見ると陸と海の境が地上で見るのと違い浜も海岸も一緒になってただ海と陸を隔てる輪郭でしかない。その輪郭は寄せては返す波によって一瞬ごとに削り取られているのではないかと梨佳子は不安になった。
美帆は梨佳子の隣でその隣の御蔵悠里に故郷の観光や食べ物の話をし、通路を挟んだ隣の席で神岡英介は忘我の境をさまよっているようにも見えた。
「こいつのことは気にしないでください。独りタソガレているときは現実と夢、幻想と思考が、そのなんというか、そうPCの最適化のように働き続けているのですから。」悠里がそう言うと英介が「うるさい!」と言葉を制し「休んでおきたいだけだ。」と言った。
すると悠里はそっと首を傾げて「飛行機が苦手なのです。」と言ったが間違いなく聞こえたのだろう。
「夢でも現実でも飛ぶものは落ちるからな。」と言った。
悠里は肩をすくめ「文明の粋だよ。」と言った。
美帆は笑いをこらえて梨佳子の手を掴んだ。英介の中の子供のような恐怖を思うと梨佳子も笑いに誘われて、不思議に心が軽くなったように思えた。
― 俺が飛ぶのが苦手なのは幼少の頃の記憶の中にある祖母の面影だ。祖母は何事かをつぶやき、そして封じた。
それは一体何だったのだろう…
「晴れた日は向こうに淡路が見えるのよ。」
梨佳子がそう言って指差した先はあいにくの驟雨と見られる雨雲に沈み、海とも見えぬ鉛色の泥水が暗澹と広がっている。
空港から車を走らせていよいよ梨佳子の生まれ育った町が近づいたとき、道はなだらかに下り、立ち並ぶ家々が続くその向こうにそれは見えた。
それは逆に町を見下ろさんばかりの高さで、これまた灰色の空と繋がっていた。
海である。英介は海のない盆地で育った。
英介が突然車を降りたいといい。沿道に止めたときのこと。
「ここからは遠いのでしょうか?」と英介が聞いた。
「三十分ぐらいかな。」と梨佳子が答えると「なら歩こう。ユーリもいいだろう。」と英介は言った。
美帆も降りてきたが実家までは車で二・三十分ほどかかるのだという。梨佳子に「後で連絡するね。」と言ってそのままタクシーで走り去ったが、乗り込む前に悠里への招待も忘れなかった。
「御蔵先輩。わたしの家にも寄ってくださいね。」
手を振る美帆の姿を見送ると、梨佳子はすっと日が陰ったような気持ちになった。見上げる空は曇りながら雨の降る気配はなく、何となく今の気持ちとよく似ている雲がどこまでも続いている。その雲を切り裂いて太陽を呼び、一気に吹き付けてくる風の剣が欲しいと梨佳子は思った。
こうして故郷の地を踏みしめでも、自分のことばかりではなく多くのことが晴れることのない霧のように立ち込めている。父のことも。母のことも。そして何より夢のことも。
私が生まれ育ったこの町から始まっている。
家々の間に走り去ったタクシーから振り返ると英介がポツリと言った。
「ここだよ。」そう言っては道路端にしゃがみこんだ。
「見たのか?」と悠里が尋ねる。
「ああ、浜へ真っ直ぐなこの道には記憶がある。向こうのあの信号の四辻を過ぎると左手に黒松の立派な家が見えてくる。サルスベリもあったかな…その道の上まで奴らは上ってくる。目的はなんだろう?」
何回か夢見た風景が梨佳子の脳裏に蘇った。
― まただ。どうしてこの人は知っているのかしら。その黒松の家は私の生家。夢では私を呼ぶ母の声を黒松の傍で聞いた。目的は?…
「私?」つい口を付いて出た。
悠里ははっと梨佳子を振り返ったが、英介は驚きもせず「そうとばかりは言えないなあ」と梨佳子の心に答えるように言った。どこかしら遠くを見据えながら、緊張感すら伴わない英介の受け答えが白々しいものに感じる。
「でも私を呼んでいる声が…それにその家は…」
「そんなに気にすることはないですよ。」
そう笑顔で答えたのは悠里だった。
「でも、その家は…」
「梨佳子さんの実家。当たっているんでしょ。そこが問題なんですけどね。不思議と言えば不思議です。夢って、ほら、現実の境界というものを超えているときがあるじゃないですか。すっかり忘れていた子供の頃の夢だったり、夢のお告げだったり。そうした類の夢を英介は見るんです。」
そんな話をさらりとされても、と梨佳子は美帆のことを思った。不可解な出来事も悠里先輩となら安心だね、と美帆は旅行気分でいたが本当のところはどうなのだろう。
当り前のようにこんな話をするこの人も、よくわからない人。梨佳子は悠里の端正な顔色を窺った。
二人を今から父のもとへ連れて行くと思うと、今度はいかつい肩で渋い顔をした父の姿が浮かんできた。
「ここまで来たんだ。お前が見た夢を話してみてはどうだい。まだ誰にも話していないんだろう。俺も聞きたいしさ。」
「まあね。一度ここを見てからと思ってね。ところできみのお母さんが亡くなったときのことを覚えているかな。」
「えっ、お母さん…」
「英介。そうぶっきらぼうに聞くことじゃあないだろ。人はそれぞれに事情というものを抱えているんだからさ。」
「いえ、別にいいんですけど、私はその頃のこと詳しく覚えていないので。それに父に根掘り葉掘り聞くのも嫌だったから。その…海で亡くなったことしか知らないんです。由里ケ浜というところで見つかったと聞いています。溺死です。母が何か?」
「いえ。ずっと考えていたんです。お母さんは梨佳子さんを守るために何かをしていたのではないかとね。そのことを伝えに来ていたような気がするんです。」
「私を守る?何から?」
「それがわかればいいのですが。今はまだわかりません。」
「母が亡くなったのは十年も前のことですよ。」
「ええ。時間というものはとても強固で万人に共通する概念だと思われていますが、どうして個々それぞれに異なりますし、第一トリックスターですからね。過去も現在も未来も、そう変わりはない。」
「おいおい。それはないだろう。」
「現代は視覚偏重が著しいからね。たとえば悠里。お前の視覚が失われていたとしたらどうだ?過去と現在に時間の経過をどれほど感じられると思う。ファッシヨンは意味を成さなくなるばかりか意味も異なるものになるだろう。近代建築は不便そのものだ。聴覚ならどうだろうね。それに味覚なら?五感の過去と未来は?基本人それぞれだが五感に変化はない。五感以上のもの、あるいは五感を変容させるものがあればそれは違うだろうけど、それはなんだろうね。」
英介は首を傾げながら頭を叩くと「ああ、すみません。ところで由里ケ浜はどの当たりでしょう?」と尋ねた。
「左手に岬が見えますが、その手前あたりです。今は屋根に隠れて見えませんけど。」
「そうですか。いまもあそこにいるのかもしれまんね。」
ゾクッとした。
亡くなった今も…じっと自分を見る英介の視線に梨佳子は気づき、その視線の奥にあるものに問いかけるように見つめ返した。
この瞳は、いつか見たことがある。なぜだろう?懐かしさと共にそんな思いがどこから生まれてくるのか、梨佳子の胸は急に締め付けられた。
その英介が坂をゆっくりと下りながらいよいよ夢のことを語り始めたが、梨佳子には驚きの連続だった。それは梨佳子が見そこなっていた自分の夢の細部を克明に描くかのようで、見た夢を再確認するだけでなく、この奇妙でよくわからない人が自分の夢の中に潜んでいたのではないか、とすら思える衝撃を梨佳子に与えた。
胸を締め付けた不思議な感情をソウルメイトという言葉に置き換えたがすぐに打ち消した。
ありえない…ありえない…
聞き入るというよりは、気象のように変化する英介の瞳の表情に魅入った。この今も、この人は夢を見ているのかもしれない。梨佳子には英介の瞳が映写機のレンズに思えた。
「なあ、お前なら調べているんだろう。七人みさきのこと。」
悠里の一言に梨佳子はネットで検索した内容を思い出すが、自分の身にどう降りかかって来るのかがわからないでいた。
「諸説は色々とあるようだが、元をたどれば土佐の支配を勝ち取った長宗我部元親にはじまる家督争い、これに事を発した怨霊譚というのが七人みさきとなる七人の家臣のことだったらしい。横溝正史の八墓村のように七人塚や墓などの言い伝えが各地に残っているようだ。七人は一緒に行動し、一人を殺して仲間に加え、一人が成仏していくあたりの連鎖性は怨霊譚として珍しいものではないと思う。推測するに霊(かみ)反りの祭りはただ単に七人みさきを沈める祭りというよりも、海で亡くなった者たちへの供養の祀りだろう。毎年起こる海難事故を供養し、注意を促し、予防するための祭り。ただ閏年の意味をどう解釈すべきかは色々考えられる。ところで…」と、英介は梨佳子に話しかけた。
「…お母さんと七人みさきについて、きみのお父さんに尋ねてみてもいいだろうか?」
「それはかまいせんけど、少し怖いです。どうしてそう思われるのですか?」
「その頃、きみの近くにいる親しい人が海で亡くなったような気がしてね。」「まさか、母の死につながりがあると。」
「なあ、悠里。僕は梨佳子さんのお母さんの声を夢で聞いた。あの声は霊というよりも生きている人の声だった。それも母親としての心痛や苦悩、梨佳子さんを思っての声だった。なら、ふりかかろうとする災厄から、我が子を守ろうとする母親の強い思いが上げる声に違いない。」
ともくん…
ふいに閃いたイメージが形を成して梨佳子の記憶を開いた。思い出の中には一緒に遊ぶ遊佐智洋の姿があった。幼稚園の頃仲の良かった友達、智洋くんは、そう海で亡くなっていた。急に胸の当たりに悪寒を感じると同時に、仏壇に手を合わせる母の姿を思い出した。母がそんなことをし始めたのは確かその頃からのこと。
「智洋くん。」
「思い出したことがあるんですね。そもそも怨霊譚というものは亡くなった者の親しい人にとり憑くことが多い。その子供が悪いわけではないが、七人みさきとなった子供はきみの元へ近づこうとしたに違いない。しかし…」
「母が私を守ってくれたと。」「そうも考えられる。」
「なら英介。七人みさきで問題は解決じゃあないか。」
顔に苦笑を浮かべた英介が苦しげに言った。
「そうとばかりは言えない。この間も言っただろう。いま起きていることは二次災害、三次災害だって。背後に見えない実体が隠れている。何か恐ろしいものがだ。海で亡くなった死者を招き寄せ、七人みさきを使い魔にしている何者かがいる。この土地に来て、その見えない痕跡というものを払拭できないばかりか逆に強く感じるんだよ。」
曇り空にもかかわらず蒸し蒸しとした空気が首筋や背中にはり付き、うっすらと浮かんでくる汗と交わると寒気となって体を走る。幾分暗くなった天候に雨の気配感じると、どこからか遠雷が聞こえてきたが、それすら夢の中の出来事に思えたとき、赤信号に驚いて立ち止まると家はもう目と鼻の先だった。
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