第10話 セーマン・ドーマン

「だめだ。待て。行くんじゃない。梨佳子さん!」

英介は階下で大声を上げた。

頭の中では梨佳子を呼ぶ母親の声が鳴り響いている。

階段を上る靴音がぱたりと止まると三階の手すりから二つの顔が覗いた。梨佳子ともう一人。

「あっ変人!」とそのもう一人が口に手を当てる。

「神岡さん!」と隣の梨佳子が驚いたように声を上げた。

階下に悠里が駆け込んで来ると「先輩!」との嬌声がフロアに響き渡った。

「早く下りて。外へ出よう!」

「どうかしたのですか?」「いいから、早く外へ。」

「静かですよね…」「しっ!」美帆の声を遮って梨佳子が口に指を当てた。

ひっそりと静まる校舎内のどこからか羽音のような音が聴こえてきた。音は遠くから群れをなして近づいてくる。

「行きますよ。」と駆け寄った英介が二人を促した。

「どうしたの。なんか変!」美帆は辺りを伺いながら言った。「あたり、暗くなってない。」

廊下の向こうから、また天井から、階段の隅からも、壁という壁の裏から滲みだしてくる暗さを感じた。そして一閃。錫杖の音が空中を震わすと校内はさらに暗さを増した。

―  これは夢だ。夢に違いない。

梨佳子は思わす心の中で叫んだ。

美帆の震える手が梨佳子の腕に伸びてきた。

「リカ、どうしよう?聴こえるよ。わたしにも聴こえる。」

「美帆」梨佳子が美帆の手を握り締める。その梨佳子の腕を英介が掴んだ。「早く下りて!」

「英介。これはなんだ。なんで俺にも聴こえる?」

「早く、校舎を出るんだ。シンクロしてしまってる。それで増幅したんだ。行くぞユーリ!」

「まさか?日中だぞ。」

再び錫杖の音。

「来い!早く出よう!」

階下へと走り出した三人の頭上に砂浜を走る足音が聴こえて来た。

ざっざっざっ…

足音は三階から二階へ、そして一階へと英介たちを追って付いてくる。

ざっざっざっ。ざっざっざっ…

一階に降りて悠里と合流したとき、また錫杖の音が鳴った。そして今度は一階の廊下の先から。右からも左からも足音は聴こえてきた。当然二階からも。

「リカ。どうしよう?囲まれたわ。」

「どうする?英介。」

階段を見上げていた英介が突如声を上げ始めた。

「キュウキュウニョリツリョウ!」

急々如律令。急々如律令。

英介は強く腹の底から言霊を繰り返した後、三人を代わる代わる見回した。

「イチかバチか、陰陽道を試す。真似して!」

―  バン・ウン・タラク・キリク・アク

目の前に五芒星を指で描きながら何度も唱えると、続いて九字の呪法を引いた。唱える言霊の音(おん)が本来の調律を取り戻し、その振動が自律するまで何度も、何度も、何度も唱え、唱えながら空中に図を描いた。

合わさった四人の声が朗朗と廊下を渡り、階段を上って行った。そして抑揚がリズムを打ちはじめ、波のように震えると、辺りに立ち込める重く暗い空気の層に見えないさざ波が立った。波は近づく足音を消していくように梨佳子には思われた。

―  いったいこの人は何者なのだろう?

梨佳子は改めてそう思った時。

どこからか年寄りの声が聞こえた。

―  えいすけ。そうだよ…そう…

優しく温かい声が梨佳子の心に届いた。

階段や廊下に立ち込めた空気の縛が取れたのはその後すぐのことだった。


 広々としたグラウンドの日当たりの良い場所へと英介たちは避難した。ベンチに腰を下ろす梨佳子と美帆の蒼白だった顔はうっすらと赤みを帯び、現実であることを互いの目で確かめ合った。

「なあ。さっきのことはどう理解すればいい。心霊現象といったら普通は夜だろう?それが日中だぞ。」

悠里が上ずった声で言った。

「意識は海に浮かぶ氷山の一角のようなものだ。それに対し無意識は海中に沈んだ何倍もの本体といっていい。無意識の力を無視することはできない。さっき図書館でデジャヴを見たんだ。たぶん集合無意識に点在していたものが俺を通してシンクロしてしまったのかも知れない。」

苦悩の表情を浮かべた英介が梨佳子を振り向いた。

「どうやら梨佳子さんのお母さんの声が僕の中に残っていたようです。声は何かを伝えようとしていました。もちろん夢の中のことなのですが、現実と共鳴してデジャヴを見せたのかもしれません…」

「母の夢を神岡さんが見たというのですか?」

「夢とはプライベートなものです…」言いよどみながら英介は言葉をつないだ。

「…もちろん同じものを見ているわけではありません。ただ深層意識の根底で個人は共有する集合無意識を持っていると考えられます。かつての賢者は悪を思うだけでも罪になることを知っていました。なぜなら誰かの思いが集合無意識を通して別な誰かの上で形になると考えられていたからです。だから…」

「おいおい。サークルの時間じゃないんだ。問題はさっきのアレをどうするかということだろ。」

英介の外れていく思考を引き戻すかのように悠里は大きな声を上げた。そしてひと言付け加えた。

「変なやつでしょ。普段は人の顔色も読めないようでも、英介には変わった能力がある。夢を通じておしらせを受け取ることができる。いわばダイバーだ。コントロールはできないし、シンクロする理由もわからないときている…」

「おいおい。人を霊媒師のようにいうなよ。誰の深層意識にも自他の別のないアンテナが眠っているものさ。それらは時に死をもとにして発現することがあるし、ほんの些細な出来事が古い記憶とシンクロして起こることもある。その意味は千差万別、まさしく夢だよ。」

美帆は目を丸くして身を正しながら「うそ~」とつぶやいた。自分が覗かれるのを避けようとでもするように。

ダイバー(潜水夫)という言葉に、梨佳子は自分の夢の中に英介が潜水してくる姿を思い浮かべた。

―  まさかそんなことが…

突然のヒップホップが鳴り出したとき、梨佳子と美帆はベンチから飛び上がった。音楽は梨佳子のバッグから聴こえた。

「これは?」と悠里は英介を見、英介のしぶい顔はほころんだ。

「すみません。わたしの携帯です。忘れてました。昨日ダウンロードできたんです。」

それはあの音楽だった。梨佳子は携帯を手にすると「父です」と言った。その後何度か驚き、大丈夫を繰り返して切った。

「どうしよう?池内哲さんが亡くなったそうです。」

青ざめた梨佳子がそうこぼした。

「池内…って。向かいの?」美帆が梨佳子を見つめる。

「誰だい?その池内と言う人。」

「リカのほぼ向かいの家のいじめっ子よ。小学生の頃だったけどね。」

「で死因は?」

「自殺かもしれないというのですが、父の様子が変でした。ずっとわたしのことを気にしていました。これって、やっぱり…」

「僕にもわかりません。わかりませんが梨佳子さんのお父さんが気にするぐらいです。まず関係があると考えたほうがいいでしょう。」

また足音が聞こえまいかと美帆は辺りを伺っている。

「で、どうする英介?対抗策はさっきの陰陽師の真似事か?」

「咄嗟の思いつきだった。呪術セーマン・ドーマン。安倍晴明と蘆屋道満。伊勢・志摩の海女のハチマキには魔除けとして描かれていると聞く。それに古来陰陽道の呪法は修験者や軍師、武将にも広がっていた。利用すべき音楽も手元になかったし、きっとご利益があると思っただけだが…」

「そうじゃない。アレはこれからどうなるかということだ。お前はともかくなぜおれにも聴こえた。なぜ美帆さんにも聴こえた。止める方法はあるのか?」

そう悠里が詰めよった。

「それはまだ俺にもわからない。いえるのは七人みさきは使い魔だということだ。その背後に潜むものがいる。その正体はわからない。その災厄から飛び火した現象が七人みさきを通して現れている。災害でいうならば二次災害、三次災害だ。そうした災害の場合は延焼を防ぎ、鎮火に手を付けることから始めるのが常套手段だろう。しかし災厄の場合は一次の本体を解決しなければ問題は解決しようがない。アレは、あの海の中に潜むものは、一体なんでしょうね?それに古来の呪法に効果があるということは…」

「やはり母が私を迎えに来ているのでしょうか?」

梨佳子が心配そうに言った。

「リカ…」と美帆の手が梨佳子の肩に伸びる。

「そうかな?必死に何かを伝えようとしている気がするよ。使い魔から梨佳子さんを守ろうとしているような…自分の身に起きたことが梨佳子さんへ行かないように防ごうとしているような…」

「防ぐ…」

梨佳子は自分を呼ぶ母の声を思い出していた。哀しいまでに悲痛な声を。

「今日は新月になりますね。よかったら二人で過ごしたほうがいい。ルームメイトとしてしばらく暮らすのもいいかもしれない。それにしても…新月の前後に強くなるのはなぜだろうな。」

「霊(かみ)反りの祭りのせい。」ぽつりと美帆がつぶやいた。

「祀り?神事があるのですか。いつです?」

「八月の最初の新月の日。」

「そう…ですか。」

そうつぶやく英介の虹彩がインクを落としたようにみるみる間に黒く染まっていった。


「これはいわば写経です。効果も出てくるはず。」

「本当か?」

お開きになったサークルの教室で四人は手書の御札を書いていた。

「これはカゴメの呪法です。そもそもは魔を閉じ込めるのですが、魔から姿を隠すこともできる。」

「音と違いこんな紙に効果があるのか?」

「日本には式神があるだろう。でもユーリ。本当でも嘘でもいいんだ。これはプラポーゼ(偽薬)だよ。いわば保険。安心とはそもそも安神であり安信をも指していますからね。その安心を増幅させてくれるはずです。」

「なっ。変だろう?」

悠里の言葉にふっと梨佳子の気持ちが緩んだ。

「ホント。いろいろ知ってますね。実家は神主とか何かですか?」美帆が興味ありげに訊いた。

「それが普通なんだよな。なっ英介!」

「考えすぎることはあっても、僕はこれでも普通です。」

美帆の手が左右に何度も否定した。

笑みがこぼれた瞬間、梨佳子は気になっていたことを訊かずにはいられなかった。

「さっき階段のところで神岡さんを呼ぶおばあさんの声を聞いたように思ったのですが…」

「梨佳子さんにも聞こえましたか。あれは亡くなった祖母です。今も僕のことを心配しているのです。」

英介は事も無げにそう答えた。


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