第9話 既視感
「心配していたことが起こった。いや、起こる可能性がある」
突然英介から電話が入ったのは夜の十時過ぎのことだった。その珍しく慌てた様子に悠里は驚いた。
「詳しいことは明日話すが、悠里も気をつけてくれよ。」
「おれにも関わりがあるというのか?」
「わからない。わからないが何かがやってくる。まだ何もわからないが、それは…」
プーという音とともに英介の声は途切れた。
いまでは少なくなったどこかの公衆電話だろう。
それには理由がある。英介は携帯を持っていない。
アパートにも電話はなく管理人に借りる始末。不思議な顔をされていると言っているが、それは当然なことだ。
会ってすぐに感じた疑問で、以前理由を聞いたことがあった。しかしその返事ときたら時代錯誤とでも言えるようであり、しっかりとした理由を持っているようでもあり(いや、やはりそれはないか)、けむにまかれたとすら感じられた。
悠里にしてみればどうにも理解できるものではなかった。
携帯を持つことを勧めたとき英介はこう言った。
「携帯に振り回されるほど暇じゃあないし、時間にそれこそ断裂を作りたくない。目覚めている間中思考は飛び交っている。それは雲のように浮かんでいて、思考は時間の空で結びついているんだ。命もそうだよ。」
「大げさだな。」
「命はともかく、思考は些細なことでそれこそ雲のように変化し、途切れ、大きくも小さくもなる。思考によってしか人は自らを知ることも表現することもできないんだ。まあこれ以上時間も自分の思考も邪魔されたくはないね。」
それでは隠遁者ではないか…
「でもあったら便利なものだろう!」
「便利。便利なものというのはいずれわれわれの思考力や集中力、それに維持力を脅かすことになるものだよ。不便さの中にある機転や発想、それに時間をかけて何かを成すという忍耐や時間というものの熟成になる。不便や困難というものはときにアスリートなら自分の壁を超える無我の境地、アーティストならミューズの恩寵につながったりするものだ。便利さは意図も簡単にその事実を忘れさせ、種も蒔かず手入れもせず果実だけを欲しがるようになる。いいかい。時間をかけたいわば時間によって成熟した論理だけが心理的ストレスに対処できる方法論を持っている。これは確かだ。それにだ。携帯の機能と進化は今後もさらに続くことだろう。そして遠い将来には生体携帯や有機携帯としてもっと身近な、例えば細胞のパーツのような身体そのものと化すかもしれないな。」
「えっ…なんのことだよ。SFじゃああるまいし、想像のし過ぎだぞ!」
「まあ少しおおげさだったかな。しかし情報扇動、情報操作という点で人を操るのも容易になるだろう。人は常に退屈しているからね。まあなんだ。先頃読んだSFが面白くてね。言いたいことは便利さというものを利用しすぎると本来備わった機能に障害が生じるということだよ。」
携帯ひとつでそこまで弊害が生じるとは思えない。
ただそのSFとやらに興味がわいたこともあって小説のタイトルを聞いた。すると「ルナ・サーカス(曲芸の月)」だと教えてくれたが聞いたこともないタイトルだった。図書館にあるのかと聞いたら、図書館にも市販されてもいないインディーズ版だという始末。
今度持ってくると言ったが、すでに二年ほど経っている。そもそもあるのかどうかさえ怪しい。今日の電話にしても同じたぐいのものだ。いちいち気にしていてはストレスになる。まあ明日になればわかること。そう悠里は自分に言い含めた。
翌日は同じ朝の講義を受けていたので教室で会えるものと思っていたが、英介は姿を現さなかった。講義後あちこちを捜してみたがどこにも見つからない。こういうときは大抵独りでタソガレている場所は決まっている。無駄に捜すのを止めて別棟の図書館へと向かった。するとどうだろう。机に数冊の本を広げ、頬杖をつきながら頁をめくる英介がいるではないか。
「やっぱりここか。で、昨日の続きだが何があった。また何かを見たのか?」
とりとめもなく頁をめくり続ける英介に悠里は呆れたように話しかけた。
「虚と実だよ。現象とその本質。どうやら勘違いしていたのかもしれない。」「あの新入生のことか。望月とかいう。」
「郷土史のことをネットでも調べたんだがどうもよくわからない。肝心なピースが足りないんだよ。」「なあ。どうして彼女のことが見えた。サークルで会ったこともないのに突然気になりだして。何か理由があるんだろう?」
「そんなこと俺にもわかるわけないよ。」「おいおい、八つ当たりはごめんだぜ。」
「八つ当たりもしたくなるさ。きっと知っていることなんだろうけど。それが思い出せない。」
英介は乱暴に髪をかきあげた。すると寝癖が静電気を帯びたようにさらに跳ね上がった。
「もしかして何か切羽詰まってることがあるのか?」「ああ近づいている。」
「それは危険なこと?」「そうなるかもしれない。音楽は有効だがただそれだけだ。原因を取り除かないまま薬で症状を抑えているようなものさ。それに飲み続けたとしてもいつかは病に倒れることになる。」
「そうか。お前ならなんとかできるんだろう?」「なんとかしたいと思ってはいる。ただ、なにから手を付けたらいいのか…」
悠里は英介が頁をめくっていた本に手を伸ばすと、静かに取り上げて本を閉じた。そして英介の脇に積み重なった三冊の本の上に重ねながら言った。
「なあ。だったら行ってみないか?」「行くって。」
「お前はいつも言っているよな。見える情景や形、その配置もまた感覚の言葉に変わると。その場所に行けば別なことがわかるんじゃないか?」
「彼女の故郷へか。」「ああ。」
「おれの直感を信じているのか。」「ああ。」
「それこそギャンブルだな。」「ギャンブルなのか?」
「いや。自分の直感を信じている。」「なら答えは簡単だ。」
顔を上げた英介の唇に揶揄した笑みが浮かんだ。
「お前は御蔵家の御曹司だからな。」「馬鹿。それは関係ないだろう。それとも喧嘩でも売っているつもりか。」
「気分はそうだね。お前は平気な顔をしてさらりと言ってのける。」「悪いのか?」
「ああ悪い悪い。行ったところでどうなるか予測さえつかない!」「珍しいな。それほど追い込まれているのか。」
その時鮮烈なデジャヴが英介を襲った。
ああそうだとも…そう答える自分の姿を知っていた。
この後の続きも知っていた。
英介もどかしく夢のページをめくり始めた。
― それほど追い込まれているのか。
― ああそうだとも。追い込まれている。ここにこうしている間も、それが教室へ向かう階段で彼女を待っている。彼女はサークルで使用している教室へと向かっている。でも足が動かない。足が、動かない…動かないんだ。
ユーリどうする?どうすればいい…
そうだ!そうだ!思い出した!
その時刻、その場所に俺は遅れてしまう。
「ああっ!」
英介は声を上げると勢いよく立ち上がり、反動でひっくり返った椅子にもお構いなしに、猛然と出口へ向かって走り出した。唖然としている悠里を振り返るとただひと言「早く。教室だ」と叫んで再び走り出した。立ち尽くしていた悠里は咎める他学生の視線を一身に浴びると「お騒がせしました。」と頭を下げ倒れた椅子を起した。
何といってもここは図書館なのだから。
図書館から外へ飛び出すと英介の背中が見えた。
「どこへ?」と叫ぶと「サークルの教室!」と答える。
教室に危険なことなどあるか。と悠里は訝しがりながら英介を追って走り出した。
新緑に萌えるミズキの下を優しい色のニチニチ草と小ぶりの向日葵、ムクゲの脇を抜けて北校舎へと。
校舎の入口から校内へと駆け込んで行ったが廊下に人影がない。英介が立ち止まって悠里を待っている。その表情がこわばっている。
何かが妙だ。皮膚を通して嫌な感じが伝わってくる。日光の照りつける外から入ってきただけではない暗さが校内にはあった。古くすえたような暗がりが行き場所を失くして滞っているようにも感じる。
「急ごう!」と英介は階段を駆け上がって行った。負けじと悠里が後を追う。二階から三階へと向かう途中で二人の女学生の後ろ姿が目に入った。飛び越えるように階段をジャンプしながら英介は大声を上げていた。
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