第8話 夢一夜 神岡英介
梨佳子が目覚める三時間ほど前になる。
神岡英介は夢に沈んでいた。
ざざーっ…ざざーっ…ざざーっ。
沈み込む夢のさらに深く、どこぞとも知れぬ闇の底からクラゲのようにふわりふわりと浮かび上がる意識に、潮騒の音が大小の気泡となってまとわりつき、ゆらりゆらりと、左右に揺れる揺りかごから見上げるのは明滅する表層意識の明かりか、それとも…
いつからここにこうしているのか?
不安も恐れもない静けさ。揺れがおさまった背には砂を感じる。それに涼やかな波の音色からすると浅瀬の浜と思われ、それもどうやら砂の上に横になっているらしい。血がようやく通い始めた視覚にはぼんやりと、ようやく届いた視界にはどこまでも広がっている夜空があった。夜空は厚い雲の床に覆われて星のひとつも見えない。仄かな明かりが雲の薄くなった箇所から差し込んではいるが、もちろん地上に届くこともなく、あたりには息苦しいほどの闇が立ち込めている。
それこそあるようでないような。
存在しているようでまだ誕生していない母体の記憶のような、不思議な気分が英介を襲ってくる。
感覚はいまだ無感覚の中に沈んで目覚めようとしないのか、仰ぐ月明かりの儚いほどの微光に焦点を定めることも出来なかった。それに身体を感じはするが肉体の境界というものがわからない。つまり自分の身体があることはわかっても、姿形を見ることができないのである。ためしに目の前へと動かした手の姿も位置も知ることはできなかった。
あたりに充満する澱んだ闇はフラスコに溜まった沈殿物に似ていた。大きな三角フラスコに澱んだ液体が溜まり、自分の溶け出した身体もまたその中に混じっている。
そんな気がした。
何故そんなことを思ったのか?
フラスコの中には実験がいまだ経過の途中であるという明確な意思のようなものが潜んでいた。英介は静かにどこともしれぬ闇の底で待った。それが起こるのを。
「えいすけ。おまえは飛べるんじゃよ!」
遠い過去からの声が聞こえた。祖母サトの声だ。
「ばあちゃん。深層意識や集合無意識は空じゃなかったよ。海なんだ。深い深いいまだ人類未踏の深海のようなものだ。」
英介は亡くなった祖母に語りかけた。
しばらくすると闇は変異する本体を海の中に隠し持ち、何者かが動き出す気配が足元から感じられた。
やはりここは浜。生と死か交わる浜であろうか?
海は微かな振動を波に伝え、波は浜に横になる英介の足に伝え、皮膚感覚は危険を知らせる警報ののように神経を逆撫でし脳へと駆け集まった。
ひりひりとする電気信号が全身を巡り、今ならば浜に横たわった自分の肉体が痛いほどわかる。ただし身体は動かない。その動かない身体にひやりと冷たいものが触れた。
死者が来た!
足元に寄せる波の動きが早くなった。
そして砂を踏みしめる音に変わった。
ざっ、ざっ、ざっ…ざっ、ざっ、ざっ。
音が途切れることはない。
ざっ、ざっ、ざっ…ざっ、ざっ、ざっ。
左右を何体もの死者が通り過ぎて言った。
これは…
― 七人だけではない。
海で亡くなった者たちであろうか。一斉に海から陸へと上がってくる。
英介の脳裏で戦慄が弾けた。
― 黄泉の口が開いた。
その言葉が何度となく反芻すると、英介はその意味を考え出していた。
得体のしれない現象にすらその現象の本質や本体が隠れている。この現象の本質はなんであろう?本体は?
人間原理からすれば、人間が見ていなければ宇宙は存在しない。しかしながら宇宙が「存在」してしまったらもう傍観者ではいられない。たとえ悪夢であれ。
単調な群衆の足音の中に声が聞こえたように思えた。
― りかこ…とその音は告げた。
ひたひたひた。ひたひたひた。ひたひたひた。
突如濡れた音が無数に響き渡った。
死者たちが浜から道路へと繰り出したのだろうか?
違う。違う。英介の五感が告げていた。
音は海が満ちてくる音なのだ!
死者たちが海を連れてくる音なのだ。
動くことの叶わない身体の足下に忍び寄る波が腰ほどまで届いたのを感じた。そればかりではない。英介の意識は波間を走ると遠洋に何者かの気配を感じた。何者かの意思が水死者を通じ陸へと向かっている。打ち寄せていた波は腰を飲み込み胸にまで達した。
死者は一様に海を運んでいる。
満潮時をはるかに超えて海が膨らんでいくのを感じた。
死者を突き動かす姿なき意思の…形あるものへの怨念。
それこそが…
英介は混濁する意識の中に海中に妖しく揺らめく赤銅色の光を見たような気がした。
大学構内で美帆を見かけると一度は逡巡したものの、梨佳子はストレートに切り出した。すると思いもかけない返事が返って来た。
「ねえ。七人みさきって知っている?」「怖いよね。今年は閏年だしさ。四年前も夏に海難事故があったでしょ。四人よ。四人。今年もあるのかしら。あるとしたら何人だろう?」
「知っているんだ。これまでそんなこと聞いたこともなかったよ。」「それはリカの…ええと…」
「母さんのことに関係がある?」「そういえばリカと話したことはなかったよね。ごめん。噂があったから話せなかった。」「どんな噂?」「単なる噂よ。リカのお母さんの事故はみさき様に呼ばれたからだってね。ううん。そんなことはないと思うけど、陰でそんな噂が立っていたの。」
美帆の声が急に遠くなった。
― 噂ね。確かにそうだわ。母の葬儀の後に向かいの家の四年上級生に言われたのだ。お前の母さんは呼ばれたんだよと。思い出した。確か名前を池内哲と言ったはず。
「ねえ。なんでこれまで話してくれなかったの?」「不幸の手紙とかチェーンメールと同じよ。猥らに話して巻き込まれないようにって叱られたもの。七人に伝わって身近なものを呼ぶんだって。今じゃあ信じられないけど。」
「でも海難事故の事は覚えてたわ!」「くせよ。癖。長年の癖。リカは家の人に何も聞かなかったの?」
「うん。何も教えてくれなかった。」「そう。そうよね。わかる気がするわ。」
「ごめんね美帆。何も知らなくてさ。」「何よ。何謝ってるの!」
「今だから話すけど、この頃変なんだ。母さんの夢をよく見るし、それに走り寄ってくる足音が聞こえたりする。この間なんか学食へ行く廊下でも聞こえた。」「おどかす気なの?」
「そんなつもりはないけど本当なの。おかしくなったのかと思ったこともある。」「リカの空耳よ!」
「そうでもないよ。こんなことそれこそ美帆へ行ったらどうしようと思ってたの。でも神岡さんは知ってたらしい。」「えっ、助けられたってそういうこと。」
美帆の驚いた顔に梨佳子はドキリとした。
「道へ飛び出そうとしていたのを救ってもらった。」「それって本当のことなの?」
「うん。」「で、知っていたって?」
「それがよくわからないのよ。」「なんだろう。そっちのほうがよっぽど奇妙じゃない。なんでリカのバイト先にまで行ってたのかしら?」
「それが本当に不思議なんだけど、わたしの身に起こることを予測していたような気がする。」「なにそれ?」
「そんな気がするだけ。」「その足音とかは?」
「驚くでしょうけどヒップホップで消しちゃった。けどみさき様のことも知っていたし。」「ちょっと待って、そんなこと誰に聞いたの?」
「わからない。わたしだって知らなかったのよ。なんで知ったかなんてわからない。でね。今年は閏年でしょ。八月の朔の日に神事があるって聞いたから。」「そう。その日は海山の遊びは禁止。夜外に出ちゃあいけないの。」
「えっ、そうなの。初めて聞いたよ。何も知らないし、不安でさ。どうしていいかわからなくて、神岡さんに話が聞きたいの。ねえ、一緒に来てくれない。」「それで悠里先輩?でもそれが本当ならわたしのとこにも来るのかな?」
「ごめんね美帆!」「この頃リカが変だったのはそのせいだったのね。知らなかった。」
「ごめん!」「一緒に同じ大学にまで来ているんだよ。それが本当ならいつかわたしのとこにも来るかもしれない。行こうリカ!」
「どこに?」「悠里先輩だよ。いつだか先輩の友人は変な人ですねって言ったんだ。そしたらあいつはトワイライト・アイズだよって、以前大学で起こった事件を解決したんだって!」
私の何が見えたのだろう。と梨佳子は思った。
私のチャネルに取り込まれているもの。私と共振して伝わってくるものが理解できれば…理解できればどうなるのかしら?
― 何につけても本質的であると感じたものは、既に心が知覚したことを意味している。普通なら無意識に取り込まれるけど、取り込むことが不可能なら解決するしかないね。
彼のつぶやいた言葉の振動がまた蘇ってきた。
これは私にとって本質的であるに違いない。だったら逃げられない。何が待ち構えていようと。
「先輩のとこへ行こう。待っていられないよ。」
そう言いながら美帆が手を伸ばしてきた。その手を握り返すと「行こう!」と端的に答えた。握った手に決意を乗せたつもりだったが、思えば女学生二人が手をつないで走り出す姿はどう映っていたものか、振り返る学生を見るとそう思わざるを得なかった。それでも運命共同体で結ばれたようで内側に湧き起る心強いものを感じた。
それが積乱雲にならないようにと祈りながら。
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