第7話 梨佳子の朝
梨佳子はうっすらと冷や汗をかきながら目を覚ました。
覚えてはいないがまた夢を見たのだろうか?
昨夜の体験のせいか、いつもの見慣れている部屋が少しばかり違って見える。違っているのは机の端に置かれたウォークマン。ゆっくりと手を伸ばすと『朝陽の庭』という曲をかけた。曲目は昨夜のうちに見ておいた。そのなかでも気になっていた曲だ。
タイトルどおりに朝日を浴びた花々が風に目覚めようとしているような感覚を覚える曲。クラシカルな中に今風のリズムと土俗的な音調が梨佳子の血の流れと同期して、肉体の熱を呼び覚まし、手足の先でかすかな風が起こっているような気分なる。静かに満ちてくるものがある。
血液も温度が上昇するのかしら?
九分十一秒の微睡みとも空想ともとれるひとときに彼の言葉が蘇ってきた。
「音の言葉は意味として脳内で反響するのではなく、頭脳で変換されない言葉として細胞や内臓に浸透していくものだろうね。」
昨日の店内で見せた神岡英介の表情がどこか遠い夢のような存在に思える。
初めての会話で近づいたはずの距離がこうして思い出してみると逆に隔たったものに感じるのはなぜだろう?
一体何者かしら。と思う一方で、今日会ったら何てお礼を切り出そうか、などと考えながら枕元の携帯の時刻を見た。時刻は七時半を回っていた。梨佳子は一点を見つめた後、手にした携帯の画面に視線を移すと音楽を止めた。
美帆に相談してみよう。そう梨佳子は思った。
お喋りが三十分も過ぎた頃、今日の約束を交わして携帯を切り時刻を見た。八時三十分になろうとする時刻。父が会社に出かける頃である。梨佳子は祖母に聞きたいことがあった。本当なら父に確かめたったが心配させるわけにはいかない。それに父に事情を聞かれてもどう答えたらいいのか?大事になってもいけない。
梨佳子は意を決して実家の固定電話にかけた。
出来れば祖母に出て欲しかった。父は出かけた時刻のはず、案の定電話口から祖母の声がした。
「おばあちゃん。梨佳子よ。父さんはもう出かけた?」「おや、梨佳子。父さんに用事かい。もう出かけたよ。」
「そう。この間心配して電話よこしたから気になってね。」「何もないんだろう?」
「…うん。ただね。この間さ、電話の最中おばあちゃんが『みさきさま』と言ったのが聞こえてね。それがちょっと気になって。」
一瞬、間があった。
「やっぱり何かあったのかい?」「大丈夫よ。」
「大丈夫なもんか。身の回りで何か起こったのかい?」
祖母は何かを知っている。
「あのね。サークルの人がね。それって七人みさきのことじゃないかって言うの。そうなの?」「やっぱり何かあったんだね。」
「そんなことないけど、この頃時々母さんの夢を見るの。夢はぼんやりとしか覚えていないんだけど、小さい頃の記憶も曖昧なのはなんでかなと思って。母さん海で亡くなったんでしょ。」「いかん。いかんよ梨佳子。妙な詮索はせんことだ。紗江子は海の事故で亡くなった。それだけのことだ。もうすぐこのあたりに伝わる神事が行われる。ばあちゃんは梨佳子の厄除けと健康を祈願してくるつもりだ。何もないのが一番。梨佳子、本当に何もないんだね?」
「うん。ないよ。」嘘をついた。
「何かあったらすぐに知らせるんだよ。」「わかった。で、その神事っていつあるの?」
「八月の最初の朔の日だ。月が生まれ変わる新月の日に行う。」「今年はいつあるの?」
「八月六日だったと思うがな。」「そんなことずっと知らなかったよ。」
「四年に一度きりだからね。」「四年に一度。それって閏年にだけあるってこと?」
「そうだよ。」「何という神事?」
「霊(かみ)反りの神事。このあたりじゃ閏年の盆の前には霊(かみ)さまが帰ってくるんだよ。」「お盆じゃなくて?」
「人はね、梨佳子。みんなが平穏無事に旅立つだけじゃあないんだよ。ときに海は恐ろしいからね。」「じゃあ海の神事ということ?」
「そんなことはない。八百万の神々がいらっしゃる日本の自然の神事だよ。それよりも本当に何もないんだね?」「うん。大丈夫。夏休みには帰るからね。それまで私の代わりに母さんに線香上げてて。母さんも大学生活を心配しているのかも。」
「そうだよ。お前のことは一番心配していたからね。今年はね、閏年だから何事にも気をつけなくてはいけないよ。当たり前でいられることに感謝しなくちゃね。」
「そうだね。おばあちゃんも気をつけてね。」
夢の中で私を呼ぶ母の声が忘れられない。
心配するとは程遠い声が私を捜しに来ているようで不安になる。それに祖母の言葉に当たり前でいられない何かが待ち構えているようで不安を逆撫でされたような気分なる。
もし母の死に隠された私の知らないものがあるとしたら、母は何事かを伝えに夢に出てくるのであろうか?
それとも私が呼び寄せているのであろうか?
神岡英介は夢を見たと言っていた。
どんな夢を見たというのだろう?まさか私の母の夢というわけではないだろうし、かといっても何かを予見して近づいてきたのには理由があるはずである。
今の私にとって神岡英介こそが暗い部屋のスイッチなのだ。
朝食を澄ませた梨佳子が部屋を後にしたちょうどその頃、遠く離れた梨佳子の故郷では海釣りに向かう数人が海中に沈んだ車を発見していた。
池内哲の車である。
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