第6話 夢一夜 池内哲

「お前の母さんは呼ばれたんだよ。」

そう言った記憶がありありと蘇ってきた。

目の前にいる小さな梨佳子の表情が一気に曇ると、同時に唇をぐっと噛み締めて下を向いた。

後ろにいた仲間の一人が「呼ばれたんだ。」と言った。

するともう一人も「呼ばれたんだ。」と続いた。

梨佳子の目から大粒の涙がポツリ、またポツリと落ちた。

なぜあんなことを言ってしまったのか。

年寄りのひそひそ話を耳にして、心のどこかでからかってやりたかっただけのことなのだ。母親が亡くなるという現実は、自分の親ならまだしも、当時はまだ虚構の中にあって、自分では悪意のないことと思っていたが、それは少しも現実的でない自分の中だけの現実だった。

そのことを知るのはもう少し後のこと。

中学を卒業する年、祖父が亡くなった。その時もまた「呼ばれたんだ」という噂を耳にした。そんなことはあるはずもないのに、梨佳子の母親が呼びに来たような気がして怖くなった。あれ以来のことである。得体の知れない不安が心の底から浮かんでくる。


池内哲は今日も眠れぬ夜を過ごしていた。

嫌な夢を見るのである。

その度に子供の時のことを何度となく思い出す。思い出しながら現実と夢の境を見失っていく。

眠れないのは心がけじめをつけていないからなのだ。

いつか梨佳子に会ってあの時のことを謝ろう。

そう決心したとき、後ろから声がした。

「りかこなら帰って来とるよ。」

驚いて振り返ると成瀬先生が無表情に立っている。

驚いたのはそれだけではない。さっきまで部屋で眠れぬ夜を過ごしていたはずだ。それが、なんとも不思議なことだが、小学校の校庭にいる。それも日中である。

きょろきょろしていると「おやおや、さとしくんはここで居眠りしていたんだよ。」と無表情な能面のように先生は口を開く。その朗読の仕方はまるでアンドロイドではないか。歳も取っていないように見える。

あれからゆうに十年は過ぎているはず。

成瀬先生をじっと見つめた。なんだろう?この感じ。

アルバムの中から抜け出てきたようで実体感がないのである。ゾクリと哲の全身が震えた。

また夢か?夢ならここにいてはいけない!

危険を知らせるシグナルが大声となって哲の脳裏でこだました。

哲は震える声で言った。

「じゃあ、梨佳子に会いに行きますのでここで失礼します。一度謝罪をしないと気持ちが収まらないので…」

「そうだね。それは正しいことだよ。そうしなさい。」

そこでハタと気づいたことがあった。

なぜ先生はあのことを知っているのか?

何かがおかしい。

やはり夢か?学校へいつ来た?来るはずがない。

この場から離れようと背を向けると「さとしくんが行くのならわたしも行くことにするよ」と先生は言う。

「えっ。」と哲が振り返るといつの間にか先生の姿は消えていた。先生だけではない。数人の生徒がいたはずだが、誰の姿もない。時が止まったかのようで広いグラウンドがじっと哲を見ているのである。哲は足早に校庭を離れ、道に止めた車へと乗り込んだ。

走り出すと今度は場所がわからない。通学路を走っていると思っていたが通学路ではない。一軒の家も見当たらない暗い山道なのである。そればかりか鬱蒼とした木々による暗さとばかり思っていたがそうではなかった。道の上空に開けた空は薄暮に染まり、月が顔を覗かせている。

やはり夢だ。

哲はそう思ったとき、窓の隙間から冷たい風が顔に吹き付けてくる。

「寒っ!」

哲はそのリアル感に驚き、現実を疑い左指で頬をつねってみた。

痛い!確かに痛いし生々しい指の感覚もある。

まさか、夢ではないのか?

カーブを曲がろうとしたとき道に人影が見えた。ひとコマ毎に大きくなる影の正体は女性だった。それも記憶の底に沈み込んだ…梨佳子の…うわあああっ。

考える間もなく車は女性に突っ込んでいった。粘着質な霧の塊が弾けると車体に張り付いた。

ミラーを見ても通り過ぎた道には何もなく、さっきからずっとブレーキを踏み続けているが少しも効かず、カーブの道だけが次から次へと襲い来る。

また、人影が見えた。今度は祖母だ。間違いない。見忘れるはずがない。フラフラと道を横切っている。

やめろーっ。

叫んでも止まるはずもなく、車は祖母の影を突き抜けていく。

正面に見える山の斜面がざわざわと揺れていた。またカーブである。左手になった斜面を動いているのは無数の人影。人影は群衆となって道になだれ込んでくる。走り去ろうとする助手席の窓に、車体に、べっとりと影が張り付いてきた。

うわーっ。

車体のすべてが覆われていく。真っ暗な闇が車内に満ちた。すると闇を裂いて声がした。

「さとしくん。きみも呼ばれたんだよ。」

背後に先生の白い顔がぽうっと浮かんだ。

「きみはお見舞いにも、見送りにもこなかったものねえ。わたしが来てあげたよ。」

無数の手が闇から伸びてきた。

いや、手であったろうか?

哲の身体を蛇のように這い上がるとぐるぐると縛り上げ、底へ底へと運んでいった。


翌日の正午近く、波止場に沈んている車が発見された。運転席にいたのは池内哲と判明したが、そこからが奇妙な話となった。遺体の死後経過は腐敗の状況からして一週間は経っているとされたが、前日池内哲は確かに生きていたのである。

何年か前にあった漁師の事件が噂され、死因は自己とも自殺とも、あるいは他殺とも判明していない。

ただし、奇しくもそこは余命宣告を受けた成瀬先生が命を絶った場所だった。


「えーっ。助けられた?」

美帆の素っ頓狂な声が携帯から響き渡る。

「なに。どういうこと?変人が店に来てたってこと。助けられたって誰から?ストーカーか何か?」

梨佳子が昨晩の話をするなり美帆が畳み掛けてきた。

「会ったとき話すから、ねえ美帆。一緒に御蔵さんと会ってくれないかな?」

一瞬の呼吸の間の後、美帆は言った。

「いいけど。なんか怪しいな。リカも先輩の方だった。わたしのことは気にしないでいいよ。わたしだって負けないからね。」

「あのさ。」梨佳子はため息をついた。

「そうじゃなくて、御蔵さんに神岡さんのことを教えて欲しいのよ。」

「えっ。だったら本人に聞けばいいでしょ。昨日デートになった訳でしょ。」

「美帆とは違うよ。そう簡単には聞けないの。それに私のこと何か知っているようだし…」

「リカのこと知っているって?」

「うん…そうなんだ。美帆にも話してないこともさ。知ってるようなんだ。」

「わたしにも秘密にしていることあるの?」

「だからその話も聞いて欲しくてさ。御蔵さんにも会いたいんだ。どうして神岡さんが知っているのか不思議でさ。」

「ふう~ん。神岡さんてそういうとこあるみたいだよ。あいつは薄明のトワイライト・アイズだって先輩言ってたもの。」

「薄明のトワイライト・アイズ?」

「見えないものを見ることがあるんだって。」


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